第11話 密偵はコーヒーを注文できない
肺の奥が焼けるように熱かった。
吸い込む息の端々に、第九層特有の猛毒瘴気が棘のように混ざり込んでいる。
エルディア王国諜報部筆頭密偵――セランは、黒革の覆面越しに荒い呼吸を押し殺しながら、冷たい石壁に背を張り付かせていた。
全身を包む漆黒の革鎧は、道中の罠と魔獣の爪によって各所が裂け、泥と血で汚れている。
セランは鋭い眼光で、下方へと続く暗い階段を振り返った。
第九層の番人、砕角のドグラン。勇者討伐軍の前衛を単身で叩き潰したと言われる規格外の巨漢が、なぜか大戦斧を担ぎ、満腹そうに腹をさすりながら持ち場を離れていくのを、セランは梁の上から息を潜めて見送ったのだ。
番人が持ち場を空けた、ほんの数分の致命的な間隙。
それを縫って、セランは単身で最深部への最後の階段を駆け上がってきた。
すべては、王都を揺るがしている『怪報』の真偽を確かめるためだった。
数日前、魔王城の最深部から生還した勇者候補レオル一行。
壊滅必至と見られていた若者たちが持ち帰った報告は、王都上層部を激震させた。
『最深部には戦場ではなく喫茶店があった』
『勇者グレン様はご無事だが、剣を置いてエプロンを着けておられる』
『魔王は討伐されておらず、黒髪の美少女の姿でウェイトレスをしている』
正気を疑う内容だった。
迷宮の瘴気による集団狂気か、魔王の精神干渉か。
国王リオネスは即座に箝口令を敷き、王国で最も冷静沈着な男であるセランに、単独潜入による事実確認を命じたのだ。
最後の石段を上がりきると、目の前には数百年もの間、いかなる人間も生きて踏み入れたことのない『玉座の間』の扉がそびえ立っていた。
黒鉄と巨木で組まれた、禍々しい両開きの巨大な扉。
だが。
「……何だ、これは」
セランの喉から、掠れた呟きが漏れた。
数多の英霊を絶望させてきた扉の中央に、麻紐で無造作に一枚の木板が吊るされていた。
手書きの、妙に丸っこい文字でこう記されている。
『Café Last Dungeon 営業中』
『※ノック不要。お静かにお入りください』
「は……?」
セランの思考が停止した。
漂ってくるのは、血と鉄の臭いではない。香ばしく、どこか甘い焙煎の香り。
セランは息を呑み、短剣を逆手に構えたまま、音もなく扉を数センチ押し開けた。
チリン――。
静寂を切り裂いて、涼やかなドアベルの音が響き渡った。
「しまっ――!」
密偵としての本能で、セランは即座に身を低くし、影の中へ潜ろうとした。
「いらっしゃいませ」
正面から、平坦で涼やかな声が飛んできた。
「……お客様。入るなら速やかに中へ入り、扉を閉めてください。隙間風と外の瘴気で店内の湯温が下がります」
セランは影の姿勢のまま、凍りついたように顔を上げた。
そこは、戦場ではなかった。
温かなランプの灯火。掃き清められた石畳。木製の丸テーブルが二卓。
そしてカウンターの奥に、一人の少女が立っていた。
黒髪を肩口で切り揃え、肌は透き通るように白い。年の頃なら人間の十代後半相当。
その華奢な身体に、糊のきいた純白のカフェエプロンを着けている。
少女は羽ペンを置き、冷たいジト目でセランを見据えていた。
「ま……魔王……!? なぜ貴様が、そのような格好で……!」
「ただいま接客勤務中です。私的な呼びかけおよび大声での騒擾はご遠慮ください」
少女は表情筋を微塵も動かさず、淡々と告げた。
外見は可憐な少女だが、その輪郭の内側に潜む底知れぬ漆黒の重圧――世界を滅ぼしかけた魔王アルテナの神気そのものだった。
その時、厨房の奥から真鍮の道具を鳴らす音が聞こえてきた。
「おいおい、アルテナ。突っ立ってると客が怯えるだろ」
姿を現したのは、無精髭を生やした四十代前後の男だった。
着古した麻シャツの上に珈琲染みのついたエプロンを引っ掛け、右手には木製ミル、左手には細口のポット。
「……グ、グレン……様……!?」
六年前、魔王城へ単身突入していった人類最強の英雄――灰燼の勇者グレンだった。
「ん? 腰の紋章からすると諜報部か」
店長はミルを回す手を止め、気のない調子で言った。
「レオルたちの後続か? 悪いが今は豆を挽いてるところでな。座るなら適当な席に座れよ」
「何を仰っているのですか、勇者殿ッ!?」
セランは叫んだ。
「私は王都より参りました諜報部のセランです! 貴方の安否確認と魔王討伐の進捗を調査するために――」
「お客様」
少女の冷え切った声が、セランの言葉を遮った。
少女はカウンター横の木札を指先で叩いた。
「当店の基本ルールです。一つ、店内完全中立。私闘および任務の遂行は禁止。二つ、客か討伐か。三つ、扉の向こうは自己責任。四つ、接客中の魔王はバイト」
「ば……バイト……!?」
「ええ。時給換算で働いております。したがって公務や調査は店内では一切受け付けておりません。私共は純然たる民間事業者です」
「民間事業者だと……!? 勇者殿、この怪物を倒さないのですか!? 今なら貴方の手で――」
「やめとけって」
店長がため息をつき、挽き終えた粉をドリッパーに移した。
「店内は中立だ。ここで暴れたら、俺がお前をつまみ出すことになるぞ。……それに、お前さっきから足がガクガクいってるぞ。第九層の毒、まともに食らってんだろ」
指摘され、セランは思わず膝を押さえた。
視界の端が紫に変色し、呼吸をするたびに肺が痺れるような痛みを訴えている。
「死にかけの身体で任務もクソもねえだろ。客になるなら珈琲を出す。客にならないなら、階段を転がり落ちて野垂れ死ぬか、奥の扉を開けて魔王と一騎打ちするか選べ」
「一騎打ちの場合、敷居の外での死亡に関して当店は一切の責任を負いません。死体処理費用も請求できませんので、極力ご遠慮いただきたいところですが」 「お前は本当に夢がねえな」
二人のあまりに自然な掛け合いに、セランは目眩を覚えた。
だが、店長から放たれる「店のルールを乱せば容赦しない」という絶対的な気配に、密偵の生存本能が屈服した。
「……わかった。客として、席に着く」
「毎度どうも」
少女がすっと片手を差し向けた。
「空いているお席へどうぞ。メニューはこちらになります」
セランは丸テーブルの椅子に腰を下ろした。天板にはレオルたちが残したと思しき刃こぼれの跡が刻まれている。
差し出されたメニュー表を見て、セランは目を疑った。
『本日のお品書き』
『・黒晶豆の深煎りブレンド:銀貨二枚』
『・水(お冷):無料(一杯まで)』
「……銀貨二枚……!? 王都の高級サロンですら銀貨一枚だぞ!? こんなメニューが一品しかない店で銀貨二枚など――」
「立地コストを考慮してください」
少女は眉毛一本動かさず、淡々と切り捨てた。
「ここは人間界から最も隔絶された魔王城最深部、第十層です。外気は猛毒瘴気、周辺には上位魔導獣が生息する極限環境です。加えて店長が使用している黒晶豆は、城外の瘴気帯でしか採れない超希少種。本来なら金貨一枚でも赤字のところを、店長の杜撰な経営感覚により銀貨二枚に設定されています。不満なら外の毒気でも吸って喉を潤してください」
氷のように硬いド正論。
セランはぐうの音も出なかった。王国の財務官でもここまで淀みなく原価と立地リスクを説明できる者はいない。
「……わかった。黒晶豆の深煎りを一杯頼む」
「かしこまりました。黒晶豆深煎り、一名様です」
「あいよ」
店長が細口ポットを傾けた。
ト、ト、ト、とリズミカルな点滴の音が響く。
先ほどのだらしない態度が一変し、店長の眼差しはドリッパーの一点へと注がれていた。
湯気と共に膨らむ黒いドーム。
深く香ばしいアロマが店内に満ちていく。
かつて竜の首を一太刀で落とした英雄の豪腕が、今は一滴の湯の落ちる角度にミリ単位の神経を尖らせていた。
「お待たせしました」
ことん、と白い陶器のカップがセランの前に置かれた。
漆黒の液体から、馥郁たる湯気が立ち上る。
「……毒は入っていないだろうな」
「入っていません。毒殺などという非効率な手段を取るくらいなら、外でドグランにミンチにさせています」
「身も蓋もないことを言うなよ、アルテナ」
店長が苦笑いした。
「冷めないうちに飲めよ。身体が温まるぞ」
セランは意を決し、カップを取り上げて口をつけた。
「――っ!?」
強烈な苦味が舌を打った。
だが、その苦味の奥から濃厚なコクと焦がしキャラメルのような甘みが広がる。
何より――。
じわっ、と。
胃の腑に落ちた瞬間、身体の芯から温かな熱波が広がった。
肺を苛んでいた瘴気の痺れが急速に薄れ、重く淀んでいた思考が澄み渡っていく。
「な……毒気が……消えていく……!?」
「乾燥月光草の粉末をほんの少し混ぜてあるからな」
店長が事も無げに言った。
「黒晶豆の苦味と中和触媒の相性がいいんだよ。原価は跳ね上がるがな」
「跳ね上がるどころではありません。月光草の乾燥粉末はグラムあたり金貨半分です」
少女がジト目で店長を睨みつけた。
「それを惜しげもなく投入した結果が、この一杯銀貨二枚です。飲むたびに店が削れています。……お客様、味わって飲んでください。その液体には我が店の寿命が溶け込んでいます」
「じ、寿命……」
セランはカップを持つ手を震わせた。
美味い。信じがたいほどに美味い。そして確実に、この一杯が自分の命を救っている。
だが同時に、目の前の光景の異常さにセランの胃が激痛を訴えていた。
「……勇者殿。貴方は本当にここで満足しておられるのですか。王都では貴方の帰還を民が祈り――」
「栄誉で腹は膨れねえよ」
店長は短く吐き捨て、ドリッパーを洗い始めた。
「六年間、戦い詰めたんだ。仲間は死ぬか散り散りになり、俺自身もガタがきてる。もう剣を振るうのは飽きたんだよ」
「しかし、魔王はそこにいるではないですか!」
「そこにいるのはうちのバイトだ」
「バイトではありません、魔王です」 「ほら見ろ、本人がそう言ってる」
「……頭がおかしくなりそうだ……」
セランは額を押さえた。
世界を救うはずだった英雄と、滅ぼすはずだった元凶が、狭いカウンターの中で仕込みと原価の話をしている。
「……お代を」
セランは革袋から軍用銀貨を二枚取り出し、テーブルに置いた。
「銀貨二枚、ちょうどいただきます」
少女が銀貨を回収し、小さな木箱へ収めた。
「……すまないが、領収書を書いてもらえるか」
「領収書、ですか?」
「公務の機密費から支出した以上、王都の財務官に提出する証明書が必要なのだ。……宛名は『エルディア王国諜報部』で頼む」
「おいアルテナ、公務の経費なら但し書きはしっかり書いとけよ」
奥から店長が口を挟んだ。
「珈琲代だけじゃ監査で落とされねえかもしれん。『深煎りブレンド代および延命処置費』とでもしとけ。あと、俺の名前も入れとかねえと役人が通さねえだろ」
「余計な口出しをしないでください」
少女は冷淡に一蹴しつつも、羊皮紙の切れ端を取り、滑らかに羽ペンを走らせた。
『領収書
エルディア王国諜報部 様
金二銀貨也
但し、深煎りブレンド代および延命処置費として
上記正に領収いたしました。
Café Last Dungeon
店長 グレン
アルバイト アルテナ』
流麗で完璧な宮廷文字だった。
右下には、少女の魔力を帯びた微細な紋章が小さな印章のように刻まれ、男の無骨な署名が添えられている。
世界最強の勇者と、至高の魔王の連名による、喫茶店の領収書。
セランはその紙片を受け取り、震える手で胸ポケットに押し込んだ。
少女は帳簿を開き、銀貨二枚を記帳しながら深いため息をついた。
「……はあ。先ほどドグランが平らげた肉塊の損失(銀貨二枚)が、ようやく相殺されてゼロに戻っただけですね。本日の一日当たりの純利益は、光熱費を差し引いてマイナス四十七銅貨です」
「おお、昨日のマイナス五十銅貨より三銅貨も改善したじゃねえか」
「三銅貨の改善で喜ばないでください。このままでは来週の豆の仕入れすら危ういのです。……店長、このままじゃ本当にお店つぶれますから」
「つぶれないつぶれない。密偵が一人来たんだ、次は王国の役人どもが視察に来るかもしれねえだろ」
「ダンジョンの最深部に役人の視察が来てたまるか」
少女は冷酷に一蹴し、帳簿をバタンと閉じた。
「……さて、お客様。お代もいただき、カップも空になりました」
少女がセランに冷たい視線を向ける。
「当店は回転率を重視しております。追加注文がないのであれば速やかにご退店ください。なお、奥の扉を開けて魔王戦を挑む場合は、敷居を跨いだ瞬間から自己責任となりますが、どうされますか」
「い、挑むわけがあるか……!」
セランは反射的に立ち上がった。
万全の勇者と魔王が二人揃っている空間で、単身の密偵が戦端を開くなど自殺行為だ。
「……帰投する。速やかに地上へ戻り、王都へ報告せねばならん」
「毎度ありがとうございました。お帰りの際の階段の罠には十分お気をつけください」
少女が事務的に頭を下げた。
セランが店の扉に手をかけた、その時だった。
「おい、密偵」
背後から、低くドスの利いた声がかけられた。
セランの背筋が瞬間的に凍りついた。
振り返ると、カウンターの向こうで店長が濡れ布巾を絞りながらこちらを見ていた。
先ほどまでの呑気な笑顔は完全に消え去り、その瞳の奥には、かつて数万の魔軍を震え上がらせた『灰燼の勇者』の昏い光が宿っていた。
「リオネスに伝えとけ」
「……な、何を……」
「『大軍だの討伐隊だの、これ以上城の周りに送り込んで騒がしくするな。街道を軍事封鎖して客や行商人の足を止めるなよ。……俺の店の邪魔をするなら、次は俺が直接王都まで文句を言いにいくぞ』ってな」
ヒュッ、とセランの喉が鳴った。
一国の国王に対する、人類最強の男からの明白な恫喝。
魔王を討伐するためではなく、喫茶店の営業を守るために王都を焼きかねない男の目がそこにあった。
「……た、確かに、お伝えいたします……」
セランは絞り出すように答え、転がるように店の外へと飛び出した。
チリン、と。
ドアベルの音が背後で鳴り、重い鉄の扉が閉ざされた。
*
翌日、魔王城の外縁、鬱蒼とした黒樹林の野営地。
セランは焚き火の明かりの下で、膝の上に白紙の報告書羊皮紙を広げていた。
右手には羽ペン。左手には、胸ポケットから取り出したあの領収書。
『Café Last Dungeon 担当:アルテナ』
「…………」
インクをつけた羽ペンが、紙の上で小刻みに震えている。
書き出しの一文字目すら、書くことができない。
(……『勇者グレンは魔王城最深部で引退し、魔王をバイトに雇って喫茶店を開業中。珈琲は一杯銀貨二枚、絶品にして瘴気中和作用あり。大軍派遣や軍事封鎖で店の邪魔をすれば王都に殴り込むと国王を恫喝。なお、経費精算用の領収書を添付す』……)
セランは両手で頭を抱え、夜空を見上げて絶叫した。
「こんな報告書、提出できるわけがあるかァァァッ……!!」
冷たい夜風が、密偵の悲痛な叫びを吹き散らしていった。




