第5話 撤退する
床の魔法陣が、ひときわ重く脈打った。
どくん、と。
心臓を外から握られたような嫌な拍動に、レオルは思わず膝を折りそうになる。
ミリアの張っていた防護の光がびりびりと震え、玉座の間そのものが魔王の呼吸に合わせて生きているようだった。
「来るぞ!」
サリサが叫ぶ。
次の瞬間、床一面に走っていた赤い線が一斉に持ち上がった。
「な――」
線ではなかった。
無数の細い黒刃だ。髪の毛ほどの影の刃が床から芽吹くように立ち上がり、波のように四人へ殺到してくる。
「散れ!」
レオルの叫びで、それぞれが反射的に飛んだ。
サリサは横へ転がり、最小限の動きで刃の密度が薄い場所へ滑り込む。
トトは情けない悲鳴を上げながら全力で後退した。
ミリアは杖を掲げ、半球状の障壁を前方へ展開する。
影の刃がぶつかった。
ぱき、ぱきぱき、と連続して硝子の割れるような音が響く。
障壁の表面に亀裂が走り、次の瞬間にはまとめて砕け散った。
「きゃあっ!」
ミリアが吹き飛ばされる。
「ミリア!」
レオルは咄嗟に駆け出した。
だが、助けに向かうその足元へ今度は床の影が絡みつく。
「しまっ――」
遅い。
足首を取られ、前のめりに体勢が崩れる。
そこへ横合いから、空気そのものを叩きつけたような衝撃が飛んできた。
「がっ!」
見えない一撃。
脇腹を強打され、レオルは床を二度三度転がった。石畳に肘をぶつけ、鈍い痛みが走る。剣が手から離れそうになり、慌てて掴み直した。
「レオルさん!」
ミリアが起き上がろうとする。
しかしその彼女の目前へ、今度は黒い槍が一本だけ、音もなく現れた。
先ほどの五本とは違う。
たった一本。
だが、それがいちばんまずいと本能でわかった。
細く、長く、静かすぎる。
飾り気のない殺意だけが、真っ直ぐ彼女の喉を狙っている。
「防げるか」
魔王が淡々と問う。
ミリアの顔が青ざめた。
防げない、と理解した顔だった。
「ミリアァ!」
レオルが叫ぶより早く、横から銀の閃きが割り込んだ。
サリサだった。
女剣士は床を蹴って強引に割り込み、その黒槍へ剣を叩きつける。
甲高い衝突音。刃が火花を散らし、槍の軌道がわずかに逸れる。
だが、完全には弾けない。
「ぐっ……!」
槍はサリサの肩口を掠め、そのまま背後の壁へ突き刺さった。
石壁が音もなく抉れ、遅れて亀裂が蜘蛛の巣のように広がる。
全員が息を呑んだ。
直撃していたら終わっていた。
誰が見ても、それだけは明白だった。
「サリサ!」
「平気……じゃない、けど、まだ動ける!」
肩を押さえながらも、サリサはミリアの前へ立つ。
血が指の隙間から滲む。深い。だが腕そのものはまだ上がるらしい。歯を食いしばり、無理やり剣を構え直していた。
トトはそれを見て、ほとんど泣き声で叫ぶ。
「もうやだって! 無理だってこれ! 死ぬって!」
「黙ってろ、頭使え!」
サリサが怒鳴る。
「使ってるよぉ! 使った結果が“逃げよう”なんだよ!」
その言葉に、レオルの胸がぎくりとした。
逃げる。
さっきまで、それは敗北だった。
だが今は違う。選択肢として、目の前に現れている。
「……」
玉座の間の奥で、魔王は依然として一歩も動いていなかった。
ただ四人を観察しているだけだ。追い詰めるための手すら、まだ本気ではないのがわかる。
その事実が恐ろしい。
「どうしました」
魔王の声は静かだった。
「連携が乱れてきていますよ」
「っ……」
図星だった。
レオルが前へ出れば、その穴をサリサが埋める。
トトが隙を作り、ミリアが支える。
道中ずっとそうやってきた。だからここまで来られた。
だが今、その形が崩れ始めている。
ミリアは防戦一方。
サリサは負傷。
トトは半ば心が折れている。
そして自分は――
「レオル!」
サリサの怒声で我に返る。
黒い影が、いつの間にか自分のすぐ背後まで迫っていた。
人型を成した影兵。兵士めいた輪郭だけを持つそれが、無言で腕を振り下ろしてくる。
反射で受ける。
重い。
生き物の手応えではなく、固めた瘴気の塊を剣で受けたような嫌な感触。
さらに二体、三体。
床から滲み出るようにして現れ、じりじりと包囲を狭めてくる。
「雑魚まで出るのかよ!」
トトが悲鳴を上げる。
「雑魚って言うな。十分死ねるぞ!」
サリサが言い返しながら、一体の首を斬り飛ばす。
だが斬った端から、影は霧のようにほどけ、また別の場所で形を取り直す。
「きりがない……!」
ミリアが息を呑む。
「レオルさん、このままじゃ消耗します!」
わかっている。
影兵そのものは、致命的な強さではない。
だが問題は、その向こうで魔王がこちらの動きを見ていることだ。
陣形が固定された瞬間、誰かが止まり、誰かが庇い、誰かの呼吸が乱れた瞬間に、本命の一撃が飛んでくる。
すでに一度、ミリアがそれをやられた。
次はもっと深く入る。
「店まで戻れないのか!?」
トトが叫ぶ。
「扉まで走れば……!」
「走らせると思うか?」
サリサが吐き捨てる。
その通りだった。
背後の扉は遠い。一直線に抜けるには、影兵の壁を崩し、魔王の視線を振り切らなければならない。
できるか。
正面突破で。
この状態で。
レオルは息を荒げながら、必死に周囲を見る。
影兵は四。いや、六。増えている。
ミリアは消耗が激しい。サリサの肩の出血も無視できない。トトは逃げ腰だが、逆に足だけはまだ残っている。
逃げるなら、誰を先に通す。
そこで、魔王が初めて少しだけ首を傾げた。
「ようやく考え始めましたか」
「……っ」
「悪くありません。勝てない相手から退く判断は、勇気より希少です」
「黙れ!」
レオルは叫び、正面の影兵を力任せに斬り払った。
「お前に評価される筋合いはない!」
「そうですね」
魔王はあっさり認める。
「では、評価ではなく確認にしましょう」
「確認?」
「あなたは今、仲間を連れて逃げるべきか、自分だけでも斬りかかるべきか、迷っている」
言い当てられて、レオルの動きが一瞬止まった。
その隙を、魔王は見逃さなかった。
空気が裂ける音。
「しまっ――」
黒い稲妻のような一条が、真横から走る。
狙いはレオルではない。ミリアだ。
防護役から潰す。
当然の一手。
「ミリアァ!」
レオルは身体ごと飛び込んだ。
間に合うかどうかではなかった。
行くしかない。
衝撃。
視界が弾け、肩から胸へ焼けた鉄棒を突き込まれたような痛みが走る。
ミリアを突き飛ばすことまではできた。だが、自分は避けきれない。
「が……ッ!」
床を転がる。
左肩が痺れて動かない。
鎧が裂け、下の肉が熱い。血の匂いが一気に広がる。
「レオルさん!」
ミリアの悲鳴。
トトが完全に顔を引きつらせた。
「む、無理無理無理! 今の死んでてもおかしくなかったって!」
「まだ死んでない……!」
レオルは歯を食いしばって立ち上がろうとする。
だが脚が言うことをきかない。
サリサが舌打ちした。
「だめだ」
「サリサ……」
「レオル、もう聞け」
女剣士の目は怒っていた。
だがその怒りは、敵ではなく現実へ向いている。
「ここで続けたら全滅する」
「……」
「討伐じゃない。撤退だ」
その言葉が、とうとうはっきりした形で出た。
撤退。
トトは泣きそうな顔で何度も頷く。
「そう! それ! それがいい! ずっと言ってた!」
「うるさい、今まとめてる」
サリサはトトを一喝し、すぐにレオルへ視線を戻す。
「ミリアはもう長く張れない。お前も肩をやられた。私も次を受けたら終わる」
「でも……」
「でもじゃない!」
玉座の間に、サリサの怒鳴り声が響いた。
「勇者なら、ここで死ぬのが責任か!? 違うだろ! 生きて、無理だと持ち帰るのも仕事だ!」
レオルは息を呑んだ。
悔しさで喉が焼ける。
ここまで来たのに。
最深部まで辿り着いたのに。
結局、何も届いていない。
だが、その悔しさの横で、肩から流れる熱い血が現実を告げていた。
次に同じ一撃を受ければ、たぶん立てない。
「……」
魔王は黙ってそれを見ていた。
急かさない。煽らない。
ただ、選べと言わんばかりに待っている。
それがまた腹立たしかった。
ミリアが震える声で言う。
「レオルさん……生きて帰りましょう」
トトも情けない顔のまま、それでも必死に頷く。
「帰ろう……。俺、腰抜けでいいから生きて帰りたい……」
サリサは剣を構えたまま、短く言った。
「決めろ、リーダー」
リーダー。
その呼び方が、やけに重くのしかかる。
剣先が震えていた。
怒りか、痛みか、恐怖か、自分でもわからない。
だが、この震えを抱えたままでも、決めなければならない。
レオルは奥歯を噛みしめ、血の味を飲み込んだ。
「……撤退する」
ようやく絞り出した声は、自分で思っていたより低かった。
トトがその場で崩れ落ちそうになる。
「よかったぁぁ……!」
「まだ終わってない!」
サリサが即座に怒鳴る。
魔王の口元が、ほんのわずかに和らいだように見えた。
「賢明です」
「言うな」
レオルは睨み返す。
「お前に褒められても嬉しくない」
「褒めてはいません」
魔王は静かに言う。
「ようやく、挑戦者として最低限の判断をしただけです」
悔しい。
悔しくてたまらない。
だが反論できない。
サリサが素早く指示を飛ばす。
「ミリア、最後に目くらましは?」
「一度だけなら!」
「トト、扉まで走れるな」
「走るだけなら!」
「レオルは真ん中! 私が前をこじ開ける!」
影兵がじり、と間合いを詰める。
魔王の背後で闇がまたうねる。
時間がない。
「三つ数えたら走る!」
サリサが剣を低く構えた。
「一!」
ミリアが杖を握る。
「二!」
トトが半泣きで腰を落とす。
「三――!」
その瞬間、玉座の間を白い閃光が塗りつぶした。
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