第6話 生還後サービス
閃光が、玉座の間を白く焼いた。
「っ――!」
レオルは思わず目を細める。
ミリアの絞り出した最後の聖光だ。視界そのものを塗り潰すほどではないが、闇と瘴気に満ちたこの空間では十分すぎる目くらましになる。
「走れッ!」
サリサの怒声が響く。
同時に、鋭い金属音。
前方へ躍り出たサリサが、道を塞いでいた影兵の胴を一息に薙ぎ払ったのだ。黒い霧が散る。完全には消えないが、一瞬だけ壁が薄くなる。
トトが真っ先に駆けた。
泣きそうな顔のくせに、こういう時の脚だけはやたら速い。扉まで一直線に走りながら、振り返りもせず叫ぶ。
「開けるから! 絶対来てよ!? 置いてかないでよ!?」
「置いてく暇があるか!」
サリサが怒鳴り返す。
レオルは左肩の痛みに顔を歪めながらも走った。
身体が重い。さっきの一撃で片腕が鈍く痺れている。呼吸をするたび胸が痛む。それでも止まったら終わりだと、脚を無理やり前へ出す。
右後方で、ミリアの杖がびり、と嫌な音を立てた。
「ミリア!?」
「だ、大丈夫……まだ、保ちます……!」
振り返ると、彼女の周囲に薄い防護の光が残っている。
だが明らかに不安定だ。光の縁は裂けかけ、息も荒い。もう一撃まともに受ければ砕ける。
その向こう、閃光の残滓の中で、魔王の影がゆっくりとこちらを見ていた。
追ってくる。
そう思った瞬間、床の影が一斉に波打つ。
「来るぞ!」
レオルが叫ぶ。
無数の黒い手が床から伸びた。
指先だけの、細長い影。足首を掴み、裾を引き、這いずる者を引き戻すためだけの執拗な悪意。
「うわああっ!」
トトの足に一本絡む。だが彼はほとんど反射で短剣を逆手に抜き、半泣きのままそれを突き刺した。
「離せぇっ! 帰るんだよこっちはぁ!!」
意外な気迫だった。影が弾け、トトが転びそうになりながらも前へ出る。
「やるじゃないか!」
レオルが叫ぶ。
「やりたくてやってるんじゃないよぉ!」
次の瞬間、今度はレオルの右足首へ冷たい感触が巻きついた。
ぐい、と引かれる。体勢が崩れる。左肩を庇っているぶん踏ん張りがきかない。
「くそっ……!」
切ろうとしたその時、横から銀の刃が閃いた。
サリサだ。
一閃で影を断ち切ると、彼女はそのままレオルの背を押した。
「前見ろ! 止まるな!」
「サリサ、お前は!」
「私が最後尾!」
言い切る声は荒い。肩の傷からまだ血が流れている。
それでも彼女は振り返りざまに二体の影兵を牽制し、撤退の流れを無理やり繋いでいた。
頼もしすぎて、同時に嫌な予感がした。
こういう役回りがいちばん危ない。
「サリサ、無茶するな!」
「今さら!」
ミリアが杖を掲げ、残る力を搾るように唱える。
「清めの風……!」
白い光を帯びた風が、四人の進路をなぞるように走った。
足元へ絡もうとしていた影が一瞬だけ散り、玉座の間の空気がわずかに軽くなる。
その隙に、トトが扉へ到達した。
「つ、着いた! 着いたけど!」
扉の前で彼が絶望的な声を上げる。
「重っ!!」
「押せ!」
「押してる! びくともしない!」
レオルの背筋が冷えた。
そうだ。入る時は四人がかりだった。
今のトト一人でどうにかなる扉ではない。
「サリサ、先に行け!」
「何言ってる!」
「お前が残る方がまずい!」
言い合う間にも、空気の密度が変わる。
嫌な予感。
直感が叫ぶ。
「伏せろ!!」
ほぼ同時に、ミリアの悲鳴が上がった。
頭上。
見上げた先に、黒い輪がいくつも浮かんでいる。そこから覗くのは、槍でも刃でもない。圧縮された闇の塊。落ちれば弾け、周囲一帯を呑むとわかる。
爆ぜる。
レオルはミリアの腕を掴み、横へ飛んだ。
直後、さっきまでいた場所へ闇弾が落ちる。轟音。石床が砕け、黒い煙が噴き上がる。飛び散った破片が頬を裂いた。
「きゃっ……!」
ミリアが床に転がる。
「立てるか!?」
「は、はい……っ」
二発目。
三発目。
今度は進路を塞ぐように連続して落ちる。
「ちっ……!」
サリサが舌打ちし、レオルの前へ滑り込む。振り下ろされた影兵の腕を弾き、蹴り飛ばし、道をひらく。だがその直後、彼女の背後から伸びた黒い縄のような影が脚へ巻きついた。
「サリサ!」
「構うな、走れ!」
構うに決まっている。
レオルは歯を食いしばり、振り返ってその影へ剣を叩きつけた。
手応えは浅い。だが一瞬ゆるむ。その隙にサリサが自力で脚を引き抜き、前へ転がるように脱した。
「借り一つ!」
「後で返せ!」
「生きてたらな!」
トトはまだ扉と格闘していた。
「開かない! 開かないってこれぇ!」
「一人で泣くな、押せ!」
「泣いてないよぉ!」
泣いている。
ようやく四人が扉前へ揃う。
レオルは剣を片手に持ち替え、空いた右手を扉へ叩きつけた。サリサも反対側へ。トトは最初から全力で体当たり気味だ。ミリアは半ばもたれかかるように加勢する。
「せーのとか言ってる場合じゃない、押せぇぇぇ!!」
サリサの怒声。
重い。
信じられないほど重い。
まるで扉の向こうから世界そのものが閉じようとしているみたいだった。
だが、ぎり……とわずかに隙間が生まれる。
「開いた!」
トトが叫ぶ。
「もっと!」
レオルが歯を食いしばる。
その瞬間。
背後から、静かな声が届いた。
「逃がすとは言っていませんよ」
凍る。
振り返らなくてもわかった。
近い。
魔王だ。
さっきまで玉座の前から一歩も動かなかったはずの存在が、いつの間にか背後数歩の距離にいる。
それだけで四人の背筋に氷が流れ込んだ。
「開けろ!!」
レオルが叫ぶ。
扉の隙間が、ようやく人ひとり通れるほどに広がる。
だが同時に、冷たい圧が首筋へ触れた。振り向けば死ぬ。そんな確信だけがある。
「先に行け、トト!」
「えっ、いいの!? じゃあ――」
「ミリアも!」
「で、でも」
「いいから!」
トトが半ば滑り込むように隙間へ飛び込み、ミリアもよろめきながら続く。
サリサは残る。
レオルと目が合う。
「お前も行け!」
「レオルが先!」
「リーダー命令だ!」
「こんな時だけ使うな!」
その言い争いを、黒い一閃が断ち切った。
魔王の放った影の刃が、二人の間を床ごと裂いたのだ。
石片が跳ね、熱風のような魔力が肌を叩く。あと半歩遅れていれば、どちらかの脚が飛んでいた。
「っ――!」
サリサが息を呑む。
レオルも反射で身体を引いた。
その刹那、扉の向こうから聞き慣れた、いや、この短い時間でも妙に耳に残る気だるい声が飛んだ。
「おい、閉店後の持ち込みは困るぞ」
ごっ、と低い衝突音。
見えない何かが、背後から迫っていた圧を横へ弾いた。
レオルたちは咄嗟に扉の隙間へ身体を滑り込ませる。
転がる。
石の床ではなく、木の床の感触。
鼻を打つのは瘴気ではなく、焦げた豆と湯気の匂い。
喫茶店側だ。
「いっ……た……」
トトが床に這いつくばったまま呻く。
「帰ってこれたぁ……」
「まだ立つな!」
サリサも転がり込んできて、すぐに起き上がろうとするが、肩の傷が限界なのか片膝をついた。
レオルは息を荒げながら振り返る。
黒曜石の扉の前。
そのわずか手前に、勇者が片手を上げた姿勢で立っていた。さっきまでカップを洗っていたのと同じ男だ。だが今、その背中だけはやけに大きく見える。
扉の向こう、まだ開ききっていない隙間の奥に、黒衣の魔王が立っている。
さっきまでの圧を保ったまま、しかしそれ以上は踏み込んでこない。
「店内だ」
勇者が低く言った。
「ここから先はルール違反だぞ」
魔王はしばらく無言だった。
やがて、すっと目を細める。
「……ええ。そうでしたね」
その声は、玉座の間にいた時より少しだけ軽い。だがまだ“魔王側”の声だった。
「挑戦者は客として帰還。三つ目のルールに則り、保護範囲へ復帰、と」
「そういうことだ」
「なら仕方ありません」
魔王はほんの少しだけ肩を落とし、それから扉の陰へ半歩退いた。
その仕草のせいで、かえって現実感が壊れる。
今しがた自分たちを殺しかけていた存在が、店のルールひとつで引き下がるのだ。
勇者は振り返らないまま、片手をひらひら振った。
「じゃ、続きはまた今度にしてくれ」
「……店長」
「ん?」
「あとで床の補修代を請求します」
「そりゃお前の仕事だろ」
「理不尽ですね」
「いつものことだ」
その軽口のあと、重い音を立てて黒曜石の扉が閉じた。
完全に閉ざされる。
玉座の間の圧も、闇も、殺意も、ひとまずその向こうへ遠ざかっていく。
レオルはそこでようやく、全身の力が抜けた。
剣を取り落としそうになり、両手で床をつく。肩が痛む。肺が焼ける。生きている実感だけがやけに生々しい。
「……生きてる」
ミリアが呆然と呟いた。
「生きてる……」
「だから言ったじゃん、逃げようってぇ……!」
トトはほとんど泣きながら木の床に頬を押しつけている。
サリサは荒い息のまま、扉を睨みつけていた。
悔しさが消えていない顔だ。たぶん自分も同じ顔をしている。
そんな四人を見下ろして、勇者はぼりぼりとヒゲを掻いた。
「ほらな」
「……何がだ」
レオルは息も絶え絶えに睨み返す。
男は、さも当然のように言う。
「扉の向こうは自己責任だ」
「今それ言うか……?」
「言うだろ。ルールだからな」
そこで、カウンターの奥……ではなく、いつの間にか扉の脇へ戻っていた少女が、すっと口を開いた。
黒衣は消え、またあの黒いエプロン姿に戻っている。切り替わりが雑すぎて、かえって恐ろしい。
「おかえりなさいませ」
営業用の声音だった。
「無事のご帰還、なによりです」
「……無事、って顔じゃないだろ俺たち」
「生きて帰ってきたなら十分無事の範疇です」
「基準が厳しすぎる……」
少女はレオルたちの傷と煤をひととおり見回し、ふむ、と頷いた。
「では」
「では?」
「三つ目まで理解していただけたところで、追加注文はいかがですか」
「この状況で!?」
四人全員が叫んだ。
少女はきょとんとする。
「戦闘後の一杯は需要がありますよ」
「商魂がたくましすぎる……!」
「大事なことです。店長、このままじゃ本当にお店つぶれますから」
「まだ言ってるのか」
「ずっと言ってます」
勇者は苦笑しながら肩をすくめ、カウンターの方へ戻っていく。
「まあ、実際もう一杯くらい飲んどけ。手ぇ震えてるぞ」
「……」
「帰るにしても、文句言うにしても、落ち着いてからの方がいい」
レオルは反論しかけて、やめた。
悔しさは消えない。情けなさも消えない。
だが、指先が震えているのはその通りだった。
サリサも無言のまま、近くの椅子へどさりと腰を下ろす。
ミリアは「もう立てません……」と素直に席へ戻った。
トトに至っては最初から戻る気満々で床を這っている。
少女はそんな四人を見て、小さく息をついた。
「はい、では本日のお客様は、全員“生還後サービス対象”ということで」
「そんな制度まであるのかよ……」
「今作りました」
「行き当たりばったりすぎる!」
「うちの店はそういうところがあります」
木の床に、からん、とカップが置かれる音がした。
喫茶店の灯りは変わらず柔らかい。
扉の向こうの死闘が、まるで嘘のように。
けれどレオルは知ってしまった。
あの扉の先には本物の魔王がいる。
そしてこちら側では、その魔王が何食わぬ顔でバイトをしている。
意味がわからない。
意味はわからないが、少なくともひとつだけ確かなことがある。
次にあの扉を開ける時は、今よりずっと強くなっていなければならない。
そう胸の奥で噛みしめながら、レオルは差し出された新しいカップを、今度は黙って受け取った。
読んでくださりありがとうございます!
少しでも「面白かった」「続きが気になる!」と思っていただけたら、ページ下部の
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