第4話 魔王ですから
床に広がった魔法陣は、まるで玉座の間そのものが目を覚ましたかのように、鈍く赤い光を脈打たせていた。
レオルは反射的に半歩下がる。
靴裏から伝わる振動が、ただの演出ではないと告げていた。
空気が重い。肺の奥まで魔力で満たされるような圧迫感に、喉がひりつく。
「下がって!」
ミリアが叫ぶ。
次の瞬間、四人の足元へ淡い白光が走った。防護の祈りだ。張られたばかりの結界が薄膜のように周囲を包み込み、まとわりつく威圧をわずかに押し返す。
それだけで、どれほど助かったかわからない。
「助かる、ミリア!」
「長くは保ちません!」
魔王は、玉座の前で静かにそれを見ていた。
動かない。詠唱もしない。ただそこに立っているだけなのに、四人の神経は限界まで引き絞られていく。
レオルは剣を握り直した。
目の前にいるのは、さっきまでカウンターの向こうで無愛想に注文を取っていた少女だ。
それなのに今は、目を逸らしたら最後、その隙に心臓を握り潰されると本能が叫んでいる。
「……行くぞ」
レオルが低く言う。
「正面から押す。サリサ、右。トトは左から攪乱。ミリアは支援に専念!」
「おう!」
「はい!」
「む、無茶だってぇ……!」
返事はばらばらだったが、それでも全員が動いた。
長い道中を抜けてきた連携は、恐怖の中でも身体に染みついている。
最初に飛び出したのはサリサだった。
低く沈み込むような踏み込みから、一気に魔王の死角へ回り込む。流れるような足運び。疲労で鈍ってなお、並の戦士なら反応もできない速さだ。
レオルも正面から突っ込む。
迷っている余裕はない。魔法を許せば終わる。距離を詰め、剣の間合いへ持ち込むしかない。
トトは涙目のまま短剣を抜き、左へ散った。
囮でも撹乱でもいい。視線を散らせれば、それだけ生存率が上がる。
魔王は、ようやく小さく息を吐いた。
「連携は悪くないですね」
ぞくり、と背筋が粟立つ。
褒められた。
その事実が、逆に絶望だった。
「でも」
サリサの剣が、魔王の首筋へ届く――その寸前。
がきん、と硬質な音が響いた。
「なっ」
刃が、止まっている。
魔王は振り向きもしなかった。
ただ人差し指と中指、その二本でサリサの剣を挟み込んでいた。
信じられないものを見たように、サリサの顔が引きつる。
「軽い」
魔王が呟く。
次の瞬間、指先がわずかに振られた。
それだけで、サリサの身体が横殴りに吹き飛んだ。
「サリサ!」
レオルが叫ぶ。
石床を滑って壁へ叩きつけられる寸前、サリサは辛うじて体勢をひねった。だが受け身を取ってなお衝撃は殺しきれず、肺から苦鳴が漏れる。
速すぎる。
いや、速いのではない。サリサを見てから動いた気配すらなかった。
「よそ見してる場合ですか?」
目の前で、魔王がこちらを見た。
近い。
レオルは咄嗟に剣を振り下ろした。
渾身だった。肩の痛みも、脚の疲れも、全部無視して叩き込む一撃。旅立ってから積み重ねてきた研鑽のすべてを乗せた、勇者としての全力。
だが、魔王はその一撃を、手のひらで受けた。
「――ッ!?」
止められた。
切れていない。血すら出ない。
剣身が魔力の膜に噛みつき、そこで完全に勢いを殺されている。
レオルの顔から血の気が引いた。
「重さは及第点」
魔王はそう言って、少しだけ目を細める。
「でも、迷いがある」
押し返される。
まずい、と理解した時にはもう遅かった。
魔王の掌から、どん、と衝撃が爆ぜた。
「が、ぁっ!」
レオルの身体が宙に浮く。
胸骨を内側から殴られたような衝撃に息が詰まり、そのまま数メートル後方へ吹き飛ばされた。背中から床へ叩きつけられ、視界が白く弾ける。
「レオルさん!」
ミリアの悲鳴。
かろうじて意識は飛ばない。
だが息が吸えない。肺が潰れたみたいに痛い。指先から剣が離れかけ、必死に握り直す。
「だから無理だってぇ!」
トトが半泣きで叫びながら、横合いから短剣を投げた。
狙いは正確だった。喉、眼、手首。致命になりうる三点へ同時。臆病者のくせに、こういう時だけ妙に手数が細かい。
しかし魔王は、投げられた短剣を見もしなかった。
カン、カン、カン。
見えない壁にでも弾かれたように、三本の短剣が宙ではじけて落ちる。
「ひっ」
トトの声が裏返る。
「牽制としては正しいですよ」
魔王は淡々と言う。
「正しいですが、足りません」
その足元に、黒い影が走った。
影は生き物のように床を這い、あっという間にトトの足首へ絡みつく。
「うわっ、うわあああ!?」
転ぶ。
そのまま床へ引きずられ、トトは情けない悲鳴をあげた。
「トト!」
ミリアが杖を掲げる。
白い光が奔り、影を焼いた。
じゅっ、と嫌な音を立てて黒がほどける。トトは半泣きのまま這って逃げ、どうにかミリアの後ろへ転がり込んだ。
「た、助かったぁ……!」
「まだです!」
ミリア自身も余裕はなかった。
防護結界を維持しながら、回復と浄化まで回している。額には汗がにじみ、呼吸は荒い。
それでも彼女は杖を前へ突き出した。
「聖光よ!」
眩い閃光が一直線に走る。
退魔の光。魔に属する存在へ強く通る、神殿仕込みの対魔術式。
玉座の間が白く染まる。
一瞬、いけるか、とレオルは思った。
だが光が晴れた先で、魔王は片手をかざした姿勢のまま立っていた。
無傷。
ほんのわずかに、袖口が焦げているだけ。
「悪くありません」
魔王が自分の袖を見下ろす。
「神官としては上出来です」
「っ……!」
「ただ、私を止めるには、祈りが少し足りない」
言葉と同時に、空間が軋んだ。
ミリアの周囲に、黒い槍が五本、音もなく現れる。
宙に浮かぶ影の杭。切っ先はすべて、彼女の急所を正確に捉えていた。
「ミリア! 伏せろ!」
レオルが叫ぶ。
だが、遅い。
放たれる――その寸前。
「護り給え!」
ミリアは半ば悲鳴のように祈りを叩きつけた。
白い障壁が幾重にも重なって展開する。
次の瞬間、黒槍が一斉に突き刺さった。
凄まじい破砕音。
障壁が一枚、二枚、三枚と砕ける。
四枚目で槍の勢いが鈍り、五枚目でようやく止まった。
それでも衝撃までは殺しきれず、ミリアはその場に膝をつく。
「はっ……はっ……」
「ミリア!」
「だ、大丈夫……です……っ」
大丈夫な顔ではない。
唇は青く、手が震えている。
レオルは歯を食いしばって立ち上がった。
サリサも壁際から身体を起こす。口元に血が滲んでいた。トトは完全に涙目だ。
ほんの数合。
それだけで、この有様。
勝負にすらなっていない。
魔王は玉座の前から一歩も動いていなかった。
たった一歩も、だ。
「……なんだよ、それ」
レオルの口から、思わず声が漏れる。
「強すぎるとか、そういう話じゃないだろ……」
魔王はわずかに首を傾げた。
「魔王ですから」
あまりにも当然のように言う。
その一言が、残酷なくらい現実だった。
彼らはここまで、死線を越えてきた。
普通の冒険者なら何度も死んでいたはずの道を、生きて抜けてきた。
若いとはいえ、王都では天才と呼ばれた。勇者パーティとして期待もされていた。
だが。
目の前の存在にとっては、そのすべてがようやく「悪くない」と評される程度でしかない。
サリサが血の混じる息を吐いた。
「レオル……」
「ああ」
「どうする」
「……決まってる」
言いながらも、喉の奥は乾ききっていた。
本当に決まっているのか、自分でもわからない。
逃げるべきだ。
そう思う。
でも、ここで剣を下ろしたら、二度と立ち向かえない気もする。
魔王はそんな彼らを眺め、静かに言った。
「まだ続けますか?」
その声音には嘲りも怒りもなかった。
ただ事実を確かめるような、平坦な問い。
だからこそ、余計に堪えた。
レオルは荒い息のまま剣先を持ち上げる。
腕が重い。
それでも、切っ先だけは魔王へ向けた。
「……まだだ」
「そうですか」
魔王の背後で、闇がゆっくりとうねる。
床の魔法陣が、先ほどより一段深い赤に染まり始めた。
「では、次で少し現実を教えましょう」
その言葉に、四人全員の背筋が凍った。
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