第2話 魔王の間へ挑む者も、まず一杯
レオルたちがそれぞれのカップを空にするまで、店の中にはしばらく湯の沸く音と、食器の触れ合う小さな音しかなかった。
最初に沈黙を破ったのは、意外にもトトだった。
「……生き返るぅ」
気の抜けた声に、サリサがぎろりと睨む。
「お前な、ここがどこだかわかってるのか」
「わかってるよぉ……魔王城の最深部でしょぉ……でも、無理だってあんなの……第九層からずっと空気おかしかったし、あの牛の人めちゃくちゃ強かったし、階段長いし、もう脚動かないし……」
「最後だけただの愚痴ですね」
カウンターの奥で、少女が呆れたように言った。
トトはびくっと肩を跳ねさせたが、反論する元気はないらしい。そのままテーブルに突っ伏しそうになるのを、ミリアが慌てて支えた。
「で、でも本当に助かりました……。飲み物ひとつで、こんなに楽になるなんて」
「瘴気抜きの配合を少し入れてるからな」
勇者が新しい豆を量りながら答える。
「少しどころじゃないですけどね。あれ原価高いんですよ」
少女がじとっとした目を向ける。
「客が死ぬより安い」
「その計算だけはやたら早いですよね、店長」
レオルは椅子にもたれたまま、ゆっくり息を吐いた。
確かに身体が軽い。傷が治るほどではないが、まとわりついていた重さが取れている。最深部まで来た直後の、自分が立っているのもやっとだった感覚が少し嘘のようだ。
「……なあ」
レオルはカップを置いた。
「これ、討伐に向かう奴らには毎回出してるのか」
「毎回じゃないです」
少女が即答した。
「勝手に座って、勝手に飲もうとした人には水です」
「差があるのかよ」
「ありますよ。店ですから」
「まあ、来る奴の大半は混乱してるしな」
勇者が肩をすくめる。
「魔王の間の前に喫茶店があるなんて普通は思わん」
普通は思わない。
むしろ、今こうして座っていること自体がおかしい。
サリサが眉をひそめた。
「……ひとつ聞く」
「どうぞ」
少女が営業用の声音で返す。
「ここは何なんだ。本当に。休憩所なのか、罠なのか、それとも魔王の趣味か」
「最後がいちばんひどいですね」
「否定はしないんだな」
「私はしてません。店長、どうぞ」
「丸投げかよ」
勇者はぼりぼりとヒゲを掻き、それからカウンター越しに四人を眺めた。
「何って、見たまんまさ。ここは喫茶店だ」
「だから、それはわかってる!」
「じゃあいいだろ」
「よくないです!」
今度はミリアまで突っ込んだ。
勇者は面倒くさそうに鼻を鳴らしたが、少し考えるように視線を天井へ向けた。
「……最初はな、俺が勝手に机と椅子を持ち込んだだけだった」
「持ち込んだ?」
「長居するなら、せめて座れる場所が欲しかったからな」
「長居する前提で言うな」
サリサが呆れ返る。
「で、湯を沸かして豆を挽いてたら、たまに深部まで来た連中がひっくり返ってるわけだ。放っとくと死ぬ。だから飲ませた」
「その流れで店になったんですか……?」
「だいたい」
「だいたいで店ができるんですか」
「できたんだから仕方ないだろ」
「仕方なくないですよ」
少女がばっさり切り捨てた。
それから彼女は、はあ、と深いため息をつく。
「店長は何でもその場のノリで始めるんです。しかも、こういうところだけ妙に手を抜かない」
「豆は大事だからな」
「内装にもこだわってましたよね」
「雰囲気ってのは大切だぞ」
「魔王城最深部で言う台詞じゃないです」
レオルは思わず額を押さえた。
話せば話すほど頭が痛くなる。
だが同時に、腑に落ちる部分もあった。
ここまでの道のり。
途中で倒れた冒険者や、壁にもたれて息絶えていた戦士たち。
自分たちだって、この一杯がなければ今ごろ床に倒れていたかもしれない。
「……つまり」
レオルはゆっくり言葉を選ぶ。
「ここは、魔王討伐に来た奴が最後に息を整える場所でもある、ってことか」
「そういう言い方もできるな」
勇者が頷いた。
「もちろん、帰りたきゃ帰っていい。無理に挑ませたりはしない」
「でも挑む奴はいるんだろ」
「いる」
「そして返り討ちに遭う」
「いるな」
「他人事みたいに言うなよ……」
そのとき、少女が小さく咳払いした。
「正確には、ここにはひとつ手順があります」
「手順?」
「ええ」
彼女はカウンターの内側から出てきて、入口脇の壁を指さした。
そこには先ほど見た「店内戦闘厳禁」の木札の下に、もう一枚、まだ新しそうな板が立てかけられている。
文字は書かれていない。
何も書いていない板だ。
「本当は、ここに二つ目のルールを書くつもりだったんです」
「二つ目?」
「ええ。ですが店長が『まだ早い』とか言って」
「まだ正式決定してなかったからな」
「六年も?」
「六年だな」
「長すぎません?」
ミリアが思わず口を挟む。
少女は遠い目をした。
「長いんですよ。この人、こういう無駄なところだけ変にこだわるので」
それから彼女は、改めてレオルたちのテーブルへ向き直った。
「でも、そろそろ明文化していい気がしました」
「なぜ今?」
サリサが問う。
少女は少しだけ口元をゆるめた。皮肉っぽい笑みとも、諦めともつかない表情だった。
「あなたたちが、わりとちゃんと客をやってるので」
トトが「褒められた」と小声で言ったが、誰も反応しなかった。
「……で、そのルールって?」
レオルが促す。
少女は当然のことのように言った。
「魔王の間へ挑む者も、まず一杯」
「は?」
「だから」
彼女は一語ずつ、念押しするように言う。
「ここを通って扉の向こうへ行く人は、客だろうと挑戦者だろうと、まず一杯飲んでからにしてください」
「なんでそうなるんだよ!」
トトが素で叫ぶ。
「だって死ぬでしょう」
「理由が重い!」
勇者がくっくっと笑う。
「まあ、実際その通りだ。ここまで来た時点で、大抵の奴は削られすぎてる。瘴気もまとわりついてるし、判断力も落ちてる。そのまま扉を開けても、奥で待ってるのはただの全滅だ」
「だから一度座らせるんです」
少女が続ける。
「水分を取って、呼吸を整えて、最低限頭を冷やす。そのうえで、それでも挑むなら止めません」
レオルは言い返しかけて、黙った。
実際、自分たちはこの店に入る前、ろくに物を考えられる状態ではなかった。
魔王を倒す、その一点だけで無理やりここまで来たが、あのまま即座に扉を開けていたらどうなっていたか。想像したくもない。
サリサも同じことを考えたのか、難しい顔で腕を組む。
「……合理的ではある」
「でしょう?」
少女が少しだけ得意そうに胸を張った。
「それに」
「それに?」
「ちゃんと一杯飲んでいってくれた方が、売上にもなります」
「本音それかよ!」
今度は全員が突っ込んだ。
少女は悪びれもしない。
「当たり前じゃないですか。慈善事業じゃないんですよ」
「いや、でも魔王城最深部で商売を成り立たせようって方が無茶じゃ……」
「その通りです」
「認めるのか」
「認めたうえで何とかしようとしてるんです」
そこで彼女は、じろりと勇者を睨んだ。
「なのに店長が、気分で高い豆を使うし」
「うまいだろ」
「うまいですけど」
「じゃあいいじゃないか」
「よくありません。味がよくても、客が来なきゃ意味ないんです」
その声音が、さっきまでの営業口調から少しだけ外れた。
年相応に見える、しかしどこか年相応では済まない苛立ちと疲れがにじむ。
「最深部まで辿り着ける人数なんて限られてる。辿り着いても、そのまま討伐に向かう人もいる。帰りに寄ろうとして死ぬ人もいる。無銭で倒れる人もいる。なのに店長は『まあ何とかなる』しか言わないし……」
少女はそこで言葉を切り、こめかみを押さえた。
「……というわけで」
「無理やり戻したな」
「戻します。接客中なので」
彼女はすっと姿勢を正す。
「本日より、この店の二つ目のルールを定めます。魔王の間へ挑む者も、まず一杯。注文後、休憩を取り、挑戦の意思を再確認すること」
「勝手に決めていいのか?」
「店長」
「んー」
「異議ありますか」
「ない」
「はい、可決です」
「軽っ!」
勇者は気の抜けた顔のまま頷いた。
「いいんじゃないか。実際その方が死ぬ奴減るし」
「売上も少しは増えます」
「そこ大事か?」
「最重要です」
レオルは思わず笑いそうになって、慌てて口元を押さえた。
こんな場所で笑うなんて、自分はどうかしている。
だが、仲間たちを見るとサリサまでわずかに肩の力を抜いていて、ミリアに至っては困惑しながらもくすりとしていた。トトは「それ最初からそうしてほしかった……」とぶつぶつ言っている。
「……なあ」
レオルは改めて少女を見た。
「そのルール、今までなかったのか」
「慣例としてはありました」
「でも書いてなかった?」
「ええ」
「なんで」
「店長が『押しつけがましい』って」
「だって、選ぶのはそいつらだからな」
勇者が湯気の向こうで答える。
「俺はコーヒーを淹れる。飲むかどうかも、扉を開けるかどうかも、決めるのは来た奴だ」
「……」
レオルは少しだけ、その言葉に考え込んだ。
いい加減で、ふざけていて、つかみどころのない男だ。
なのに、ときどき妙に芯を突く。
少女はそんな勇者を横目で見て、小さく鼻を鳴らした。
「そういう格好つけたことを言うなら、せめてもう少し愛想よく接客してください」
「愛想かあ」
「あとメニュー名も増やしましょう」
「コーヒーがあれば十分だろ」
「十分じゃないから言ってるんです」
「大変だな、お前」
思わずレオルが口にすると、少女は即座に頷いた。
「大変なんですよ」
「そこで同意するんだ……」
「店長、このままじゃ本当にお店つぶれますから」
「つぶれないつぶれない」
「その根拠のない楽観論がいちばん怖いんです!」
そのやり取りに、ミリアがふっと微笑む。
サリサも呆れたように息をつき、トトは空になったカップを惜しそうに見ていた。
魔王城最深部。
魔王の間の手前。
世界でいちばん死が近いはずの場所で、なぜか交わされる店の心配。
おかしい。
やっぱり全部おかしい。
けれど。
「……もう一杯、頼めるか」
気づけば、レオルはそう言っていた。
少女が目を丸くする。
勇者も少しだけ眉を上げた。
「お、追加か」
「はい。あとで挑むにしても、帰るにしても……ちょっと、頭を整理したい」
「賢明ですね」
少女はすぐにいつもの調子へ戻ると、どこか満足げに頷いた。
「それではご注文ありがとうございます。これでようやく二つ目のルールに箔がつきます」
「箔って」
「初の明文化記念注文です」
「そんな記念あるかよ……」
勇者は笑いながら、再び豆を挽き始めた。
ごり、ごり、と静かな音が最奥に響く。
その向こうには、魔王の間へ続く扉がある。
命を賭けた決戦が、そのすぐ先にある。
それでも今だけは、四人ともまだ席を立たなかった。
まず一杯。
それは戦いの前の猶予であり、逃げ帰るための口実であり、そしてこのおかしな最深部で、自分がまだ人間として息をしていることを確かめるための儀式なのかもしれない。
入口脇では、新しい木札に少女がさらさらと文字を書きつけていた。
二 魔王の間へ挑む者も、まず一杯
その文字を見上げながら、レオルはぼんやり思う。
――自分たちはいったい、魔王を倒しに来たのか。
それとも、ひどく場違いで、妙に居心地のいいこの店の最初の常連になりに来たのか。
その答えはまだ、誰にもわからなかった。
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