第1話 魔王の間の手前で、まず剣をしまえ
# 第1話 魔王の間の手前で、まず剣をしまえ
最後の階段を上りきった瞬間、若い勇者レオルは膝から崩れ落ちそうになった。
「はぁっ……はぁ……っ、くそ……まだ、終わりじゃない……!」
全身が痛い。
肩当ては砕け、左腕には浅くない裂傷。頬には乾いた血が張りついている。後ろを振り返れば、仲間たちも似たような有様だった。
神官の少女ミリアは、とうに祈祷杖を杖そのものとして使っているし、女剣士のサリサは息をするたびに脇腹を押さえている。荷物持ち兼斥候のトトに至っては、ここまで来る途中で三回泣いた。
「だ、だから言ったんだ……魔王城なんておかしいって……上の階からして空気が変だったもん……」 「うるさい、トト。ここまで来て帰れるか」 「帰りたいよう……」
帰りたいのは全員同じだった。
第五層の溶岩回廊。
第七層の呪鎧兵。
第九層の息をするだけで肺を焼く瘴気。
そしてついさっき突破した、黒い巨斧を振るう牛頭鬼の番人。
どれもこれも、王都の酒場で武勇伝にできるような地獄だった。
こんな城の最深部で、たった一人魔王を足止めしているという伝説の勇者は、いったいどんな化け物なのか。レオルにはもう想像もつかない。
だが。
「……見ろ」
サリサの声に、全員が顔を上げた。
長い階段の先。
重々しい黒曜石の回廊の果てに、巨大な両開きの扉が見える。
扉の表面には、禍々しい角と翼を持つ紋章。
間違いない。魔王の間だ。
「ついに、着いた……」 「えっ」
ミリアが間の抜けた声を出した。
「……えっ?」
レオルも、同じ声を出した。
魔王の間、その手前。
死の瘴気が薄れ、妙に空気が静かな一角に。
ぽつん、と。
喫茶店があった。
「…………は?」
誰もが立ち尽くした。
黒い石造りの最奥回廊に、場違いにもほどがある木製の看板。
扉の横には小さなランプが灯り、洒落た字体でこう書かれている。
Café Last Dungeon
しかも営業中だった。
店先には丸テーブルが二つ。入口脇の鉢には、なぜか白い花まで咲いている。
回廊に満ちていた血と鉄の匂いを押しのけるように、香ばしい、深く煎った豆の香りが漂っていた。
「罠、だよな?」 「罠でしょうね……」 「罠だろ」 「でもちょっといい匂いします……」
神官が言うな、とレオルは思った。
そのときだった。
からん、と軽い音を立てて店の扉が開いた。
「お、客か?」
出てきたのは、くたびれた男だった。
四十前後。
伸びっぱなしの無精ヒゲをぼりぼりと掻き、襟元の緩んだシャツに黒いエプロンを引っかけている。体格は悪くないが、英雄というより気だるい酒場の店主にしか見えない。
男は四人の惨状を見て、ふうんと気のない声を漏らした。
「第九層の瘴気を抜けて、ドグランのとこも越えてきたのか。若いわりにはやるな」 「ッ! き、貴様……! 何者だ!」
レオルが剣を構える。仲間たちも反射的に身構えた。
だが男は、あくびでも噛み殺すような顔で片手を振った。
「やめとけ。店の前だ」 「店……?」 「見りゃわかるだろ。喫茶店だ」 「そういう意味じゃない!」
叫んだのはサリサだった。もっともである。
ここは魔王城最深部。
魔王の間の手前。
そこで喫茶店だと?
「お前、まさか魔王の眷属か」 「いや?」
男は肩をすくめた。
「ただの店長」 「信じられるか!」 「まあ、そうだろうな」
まるで気分を害した様子もなく、男は店の扉の横に掛けられた木札を指先で叩いた。
そこには、丁寧な字でこう書かれていた。
店内戦闘厳禁
レオルは目を瞬かせた。
「……は?」 「ここじゃそういう決まりだ。客なら剣をしまえ。挑戦者なら外で待て」 「意味がわからん!」 「意味はそのままだよ」
男は面倒くさそうに、それでいて妙に慣れた口調で言った。
「店の中に入った時点で、誰でも客だ。勇者だろうが騎士だろうが魔族だろうが関係ない。喧嘩も殺し合いもなし。武器を抜いたらつまみ出す」 「そんな勝手な理屈が通るか!」
レオルが一歩踏み出した、その瞬間。
ぞわり、と。
首筋を氷の刃で撫でられたような悪寒が走った。
息が止まる。
足が、動かない。
目の前のくたびれた男は、さっきまでと同じように無精ヒゲを掻いていた。
ただ、それだけだった。
それだけなのに。
背後にそびえる魔王城そのものが、この男の機嫌ひとつで静かに牙を剥くような錯覚を覚えた。
「……通るよ」
低い声だった。先ほどまでの気の抜けた調子が嘘みたいに消えている。
「ここは店だ。ルールは守れ」
たった一言で、レオルの膝が笑った。
隣ではトトが小さく悲鳴を漏らし、ミリアは祈りの文句すら忘れた顔で硬直している。
サリサだけが歯を食いしばり、震える手で剣を握っていた。だが数秒後、その切っ先は床へと下りた。
「……レオル」 「くっ……」
若い勇者は唇を噛み、やがてゆっくりと剣を納めた。
「……入る」 「そうか」
男は、何事もなかったように店の扉を開ける。
「じゃ、いらっしゃい」
店の中は、外よりずっと静かだった。
木の床。
濃い色のカウンター。
壁には見たこともない風景画と、古びた剣が一本だけ飾られている。
最深部とは思えないほど整っているが、よく見れば家具の材質は魔王城の禍々しい石壁と微妙に噛み合っていない。無理やり日常をねじ込んだような空間だった。
そしてカウンターの奥には、ひとりの少女がいた。
「……あ」
レオルは思わず声を漏らす。
黒髪。
白い肌。
年の頃は自分たちとさほど変わらないように見える。
可愛らしい顔立ちだが、目つきだけが妙に鋭い。
そして何より、その少女は黒いフリル付きのエプロンを着けていた。
「おかえりなさい……じゃなかった。いらっしゃいませ」
言い直した少女は、じとっとした目で入口の四人を見た。
「ずいぶんボロボロですね。そこまで削られてよく最奥まで来られましたね」 「お、お前は……店員か?」 「見ればわかるでしょう」 「いや、でもここ魔王城だぞ!?」 「そうですね」 「なんで!?」
もっともである。
少女は呆れたように小さくため息をつき、手にしていた布巾をカウンターに置いた。
「店長。また新しいのが来たんですか」 「来たな」 「四人」 「四人だな」 「座らせるんですか?」 「客ならな」 「ふうん……」
少女は一行を観察するように眺め、やがて淡々と言った。
「なら、そこの席どうぞ。血は椅子に擦りつけないでくださいね」
「おい、何なんだ本当に!?」 トトが半泣きで叫ぶ。
「魔王の間の前だよなここ!?」 「はい」 「その奥に魔王がいるんだよな!?」 「いますよ」 「いるのかよ!」
少女はこくりと頷いた。
「います。普通に」 「普通に言うな!」
カウンターの内側で、店長と呼ばれた男がくくっと喉を鳴らした。
「まあ座れよ。立ってると疲れるだろ」 「疲れてるのは確かですけど!?」
ミリアが半ば自棄で椅子にへたり込む。
それを見て、サリサも警戒を解かないまま腰を下ろした。レオルも逡巡の末、正面の席に座る。最後にトトがびくびくしながら続いた。
不思議なことに、椅子へ体重を預けた途端、張り詰めていた神経が少しだけ緩んだ。
死ぬほど疲れていたのだ、と今さら気づく。
店長はカウンターの向こうへ回り、手慣れた動きで湯を沸かし始めた。
ごぽ、ごぽと静かな音がする。
「……お前、名前は」 レオルが尋ねる。
「ん? 俺か」 男は振り返り、少しだけ口の端を上げた。
「勇者だよ」
一拍遅れて、全員の思考が止まった。
「は?」 「だから、勇者」 「…………」 「そんな顔するなよ。本物だって」
あまりにも軽い調子で言われて、かえって冗談にしか聞こえない。
だが、先ほど入口で浴びせられた圧を思い出すと、否定もできなかった。
レオルは喉を鳴らした。
「……伝説の、魔王を足止めしている勇者?」 「伝説かどうかは知らんが、まあ長いこといるな」 「長いことって……どれくらいですか」 ミリアが恐る恐る聞く。
勇者は豆を挽きながら、気楽に答えた。
「何年だっけな」 「六年です」 少女が即答した。 「そんなに経ってたか」 「経ってるんですよ。だから王都でも怪しまれてるんじゃないですか?」 「いやあ、魔王も強くてなかなか勝てなくてなあ」 「棒読みですね」 「強いのは本当だぞ」 「まあ、それはそうですけど」
そこで少女はぴたりと言葉を止めた。
そして、しまった、という顔をした。
レオルたち四人も、ぴたりと固まる。
「……おい」 サリサがぎこちなく口を開く。 「今の言い方だと、お前……まるで」 「まるで?」 少女は首を傾げた。
「魔王本人みたいだぞ」 「……」
数秒の沈黙。
少女はすっと視線を逸らした。
「気のせいでは?」 「気のせいじゃないだろ!?」 「店長」 「んー?」 「この人たち、勘がいいです」 「そうかあ」 「褒めてません」
勇者は吹き出すのをこらえるように肩を震わせ、それから四つのカップを静かに並べた。
立ちのぼる香りは、これまで嗅いだどんな薬草茶とも違う。
深く、苦く、けれど不思議と気持ちを引き寄せる匂いだった。
「まあ、落ち着け」
勇者はそう言って、まだ何も飲んでいない四人の前に湯気立つカップを置く。
「ここじゃ戦えない。だが、ここを出りゃ好きにしろ」 「…………」 「魔王に会いたいなら、あの扉の向こうだ」
そう言って、彼は親指で店の奥を示した。
カウンターのさらに向こう、半開きの内扉の先に、先ほど外から見えた黒曜石の大扉へ続く通路があるらしい。
レオルは思わず、目の前の少女を見る。
少女は眉をひそめた。
「何です」 「いや、お前……」 「接客中です」 「……は?」 「今はバイト中なので」
意味がわからない。
だが、この場所では意味がわからないことの方が普通らしかった。
勇者は頬杖をつき、のんびりした顔で言った。
「とにかくだ。ここにはルールがある。店内戦闘厳禁。以上」 「それだけか?」 「それだけだ」 「雑すぎるだろ……」 「簡単でいいだろ」
レオルは何か言い返そうとして、やめた。
目の前のカップから立ちのぼる香りが、思考を鈍らせる。
疲労で痺れた指先が、じわじわと温かさを求めていた。
「……飲んでもいいのか」 「客ならな」 少女が答える。 「毒は?」 「最深部まで来た相手に、そんな回りくどいことしませんよ」 「それもそうか……」
恐る恐る、レオルはカップを持ち上げた。
一口。
熱い。苦い。
だがその直後、肺の奥にこびりついていた瘴気まで洗い流されるような感覚が抜けていく。
「……うまい」
思わず漏れた言葉に、勇者が少しだけ得意げな顔をした。
「だろ」 「なんで誇らしげなんですか」 少女が冷たく言う。 「うちの看板商品ですからね」 「うちって言ったな」 「……言ってません」 「言っただろ」 「気のせいです」
レオルは混乱していた。
頭も体も限界だった。
魔王討伐に来たはずなのに、今は魔王城最深部の喫茶店で、伝説の勇者と、どう見ても怪しい少女に挟まれてコーヒーを飲んでいる。
意味がわからない。
だが、たしかに少しだけ、生き返った気がした。
「さて」
勇者が手を叩く。
「休憩したら、どうする?」 「どうする、って……」 「客として帰るか。挑戦者として扉を開けるか」
店内の空気が、ほんのわずかに張りつめた。
少女――魔王かもしれない何か――は、無表情のまま四人を見ている。
その目の奥に潜むものを、レオルはうまく読み取れなかった。店員の無愛想さなのか、捕食者の余裕なのか。
サリサが息を吐く。
「……少なくとも、ここでは斬れないんだな」 「斬るなら外」 勇者が言う。 「店を壊したら弁償な」 「魔王城で喫茶店やってる奴が何を言う……」
トトが青い顔でカップを抱えたまま震えている。
ミリアは祈るべきか飲み干すべきか迷っていた。
レオルは、奥の扉を見た。
あの向こうに魔王がいる。
王国のために倒すべき敵が。
――本当に?
ちらりと少女を見る。
少女はむすっとした顔で言った。
「何ですか。その顔」 「いや……」 「接客中の店員をじろじろ見ないでください」 「……お前、本当に何なんだ」 「バイトです」 「絶対違うだろ」 「でも今はバイトです」
勇者が噴き出した。
レオルは頭を抱えたくなった。
この最深部はおかしい。
勇者もおかしい。
店員もおかしい。
だが、剣を抜いたところで、きっと今は何ひとつ思い通りにはならない。
だからせめて、この一杯を飲み干してから考えるべきだと、そう思った。
そしてその判断こそが、彼らが後に知ることになるこの店の第二のルールへとつながっていくのだが――そのときのレオルたちは、まだ知る由もなかった。
読んでくださりありがとうございます!
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