七章 気持
山道へ引き返そうとしたとき、ヒバリが始を手で制した。そのまま近場の茂みに誘導されて身を屈め、今までいた崖を覗くように窺う姿勢になる。
「ヒバリ、なんなんだ、いきなり」
「静かに。誰か来ます」
ヒバリがどこか緊張感を湛えた微笑を浮かべていた。
始は黙って、ヒバリの横に並んで、崖を視た。
しばらくして、山道から崖っぷちへ歩く人影が見えた。
……あれは。
千歳。一人、崖の近くに腰を下ろして、星空を見上げている。
「……なんでここに」
「覚えていませんか。一巡目の今日、彼女は自宅に一度も帰ってきていません」
「あ……」
ヒバリに言われて思い出し、始は、じっと千歳の様子を見つめた。このまま、明日の朝まで家に帰らないのかも知れない。
……前もこうして、ここに来てたのか。
今回の騒動でいい印象がなくなりつつあるが、この崖は始と千歳の思い出の場所――。もしや千歳はその思い出に耽るためにここへ来たのか。と、勘繰って始はドキドキしてしまった。
「確かここへは、君と千歳さんでよく来ていたんですよね」
「あ、ああ」
読心術でも弄したかのようなベストタイミングで尋ねられ、始は舌が縺れた。
「そ、そうだけど、それがどうかしたか」
始は口角を引き攣らせた苦笑でヒバリを睨みつけて言った。
「いえいえ、どうもしません」
と、ヒバリがクスクス笑い、始を細い目で見返す。
「君と千歳さんは、ここでいったいどのような語らいのひとときを過ごしたのか、とね」
「う、うるさいっ。ほっとけっ」
明らかにちゃかそうとしているヒバリを、小声ながら強く制した。
ヒバリにかまけて、崖への注意がなおざりになった間に、
「千歳がいない……」
「そのようですね」
始に続き、ヒバリが崖を窺い、「近くにもいないようです。魔力を感じません」
「隠れる必要はなくなったか。でも、どこへ……」
相手が千歳なら隠れる必要もなかったが。茂みから出て崖に戻り、もう一度、千歳が近くにいないか調べてみたが、どこへ行ったのか、姿を見つけるには至らなかった。
某が叔母である以上、千歳に危害を加えられる心配はない。いつまでもここにいるわけにもいかないので、千歳の動向は気になりつつも予定に従って旅館に行くことにした。
旅館のロビでチェックインを済ませ、一巡目と同じ部屋に案内され、同じ仲居に同じサービス要項を聞かさた。仲居が去ると、窓際の籐の椅子に腰を下ろすのも一巡目と変りなかった。
「さて、どうしような」
「何もしませんよ。待つだけです」
「暇だろ」
正直に言って始は溜息をついた。「一つ、見落としてたんだけどさ」
「なんですか」
「おばさんは、なんでオレ達がこのハンカチを捜してたって知ってたんだ」
始は千歳の物と見られるハンカチをポケットから出し、小テーブルに置いた。
「一巡目での話ですね」
ヒバリが足を組み、「叔母君は、ボク達が崖を調査しているのをどこかで見ていたのではないかと」
「それでハンカチの存在を知ったのか」
「魔物が襲ってきたのは、確か、ハンカチを見つけて間もなくだったはずです。真実味はあるでしょう」
「ああ。まぁ……」
「浮かない顔ですね」
ヒバリが腕も組み、片手は顎に当て、始の思考を読み取るような細い目を作った。
「何か、思うところでもあるのですか」
「もし、おばさんがオレをあのとき殺そうとしていたなら、ハンカチはもしかしたら罠だったんじゃないかって、考えちまった」
「なるほど」
首を垂れる始の言葉にヒバリがうなづいた。
「君はひとを疑わないタイプの人間ですから、そう考えた自分に嫌悪感すら覚えたのでしょうね」
ヒバリの洞察は見事に、始の心裏を射ていた。
「オレは……最低だ」
「そう思わせざるを得ない苦痛を、君は叔母君から受けたんですよ。致し方ないでしょう」
励ましなのか、ヒバリが始の考えを否定したが、やはり始は自分を嫌悪せずにはいられなかった。
「ひとを信じるってのは、こんなに難しいもんだったのか……」
「殺されたのですよ、君は。むしろ、疑う気持があってこそ正常でしょう」
「そうか……」
落ち込む始に、ヒバリがいつもの微笑と、わずかな嫌みを織り交ぜて語りかける。
「君は馬鹿ですから、深く考えるべきではないと思いますよ」
「なんだよ、それ」
「君の考察には、穴があるんですよ」
「え」
始は顔を上げて、ヒバリの悠然たる顔を見た。
「簡単な話です。そのハンカチは千歳さんのものですよ。罠に掛けるにしては、少少リスクの高いアイテムといえます」
「でも、オレが死んでたら……」
「ええ、殺害を遂げれば自分に辿りつくことはないと叔母君が考えたとも思えます。しかし、隣にはボクがいたんです。いくら彼女が強くても、魔物を嗾けるのが精一杯です。自分の姿をわざわざ曝すのは不利ですしね」
「そんな状況になるような罠を仕掛けるわけがない、そういうことか」
「そうです」
と、ヒバリがうなづく。「よって君がいう、叔母君がハンカチを意図的に仕込んだとの推論は否定できます。ついでにいいますが、罠に掛けるつもりなら、事前によく似た色の別物を仕込めばいいだけです。いかがですか」
はっきり、そう言った。
始は首を垂れて、小テーブルをしばし見つめ、
「……ありがとう」
礼を呟いた。
ヒバリには親しい間柄の人間がいないらしく、関係を司ること一切を不得手・無理解だと言うが、今の彼の推察は始の心を随分軽くした。
「お前は、いい奴だよな」
「いえいえ……、お役に立てたなら幸いですよ」
やはり平素の微笑で、ヒバリが余裕のある様子を滲ませている。
……こいつ、意外に関係作りが上手じゃないか。
彼には友達もいないようだが、作ろうと思えばいつでも作れそうだと始は思ったのだった。
次はヒバリが、
「一つ、訊いてもいいですか」
と、声を掛けた。
「なんだ」
「詮索のようで気が引けますが、千歳さんとのことです」
「なんだよ、いきなり……」
色恋事ではないぞ(!)と、即座に反論できれば楽だが、嘘は言えない始である。
「べ、別に、変な関係じゃねぇからな」
「いえ、聞きたいのは関係ではありません」
と、ヒバリが失笑した。「それは聞くまでもありませんから」
「なっ!ど、どういう意味だっ」
始の顔は太陽の如く熱くなった。
「そのままの意味ですよ、ふふっ」
ちゃかすような含み笑いのヒバリ。「ボクが訊きたいのは、『千歳さんにどう思われているか君は知っていますか』と、いうことです」
始は思わず「ブッ」と、吹いてしまった。
「そ、そんなこと知るかよ!」
「大変な慌てぶりですね。気になっていたことなのでしょうね」
無駄に洞察力を発揮している。「ボクも、大変気になるところですからね……」
「お前、まさか千歳に気があるのか」
「まさか。ボクは彼女には興味がありません。ただ」
語尾に、ヒバリがまじめな声音を発した。「夜中に危険な崖へ一人でやってくる……。君との思い出がある崖ということですが、ボクには理解ができません」
「……そうか」
火照った顔を両手で打って、始は真剣に応える。
「千歳の場合、たぶん、一人きりで寂しかったからあそこに行ったんじゃないのかと思うぞ」
本当なら今朝、始が折返しの電話を入れる予定だったのだ。電話を待っていたであろう千歳は、一向に来ない電話より、思い出に耽けるため崖にやってきたと考えられなくない。
「そのあとはどこへ行ったのでしょう」
と、ヒバリが謎を口にした。
始も同じ疑問を持っている。崖へやってきたと思ったら、ちょっと目を離した間に姿を消していた千歳。
「一巡目では、彼女は明日の朝まで帰宅しません。崖から姿を消したあと、どこで時間を潰しているのか」
「思い出に耽るなら崖だけで充分だしな……」
と、やや自惚れた呟きをして、いくつか瞬きして、始は思い出した――。
「思い出といえば、崖以外にもいろいろ行ったことがあるな」
「崖以外にですか。どこですか」
ヒバリの興味を察した始は、「しまった」と、閉口した。
「お前に話してやることじゃないだろ」
と、一言、断りを入れる分には良心的。
「話したくないのなら無理にとはいいませんよ」
ヒバリがすんなり引き下がる。「『詮索』もここまでですね。あとは、組織からの連絡を待ちましょうか」
瞼と口を閉じ、ヒバリが背凭れにうっかかる。
……こいつ――。
自ら「詮索」だと言うのだから、事件解決に導く何かがそこにあると考えていたのかも知れない。――始にしては鋭すぎる洞察だったが、明日には命が危ういと判っているから、火事場の馬鹿力的に思考が働いたのだろう。
……まったく、なんでオレが気を遣わないといけないんだ。
内心文句を垂れながら、
「いいよ、話してやる」
こんな状況でもなければ話さなかったであろうことを、始は話すことにした。
「無理にとは――」
「いいから聞け」
ヒバリの声を遮って、始は口早に話した。
「崖の近くに神社があるんだ。小さい山だけど昔から山の神様が祭られてるって言い伝えがあるらしい」
「つまり、君と千歳さんは、その神社でよく過ごしていたと」
「ああ。崖に行く前によくお参りに。千歳によれば安全祈願だとさ」
「なるほど。崖は立地もそうですが、魔物もいますから、祈願も必要なのかも知れませんね」
納得の色を見せるヒバリ。
「お前は神社に何かあると思ったのか」
と、始も背凭れにどっしりと身を預けた。
「叔母君の行動は、千歳さんに何か繋がりがあるような気がするんですよ」
「どういうことだ」
「すみません。失言です……」
ヒバリが短く頭を下げ、苦笑した。
「ボクは一巡目で、叔母君から重要な情報を得ました。今の推測はそれに基づいたもので――」
「オレにだけは話せない。だろ」
「すみません」
また頭を下げるが、次はなかなか顔を上げなかった。
「いいって、別に……」
と、始は頭を掻いた。正直に言えば、ヒバリが叔母から聞いた話が気になる。だが、それを話さないとしたヒバリの決然たる姿勢は、到底崩せそうにないのだ。
「今から行くか。オレ達には時間がないだろう」
成行きはともかく、うなづき返したヒバリの希望に応えて、始は山中の神社へ案内することにした。
いい天気だ。昼は暑いほどだったが、日の落ちた星空の下は涼風を体感できた。山道に入れば、涼風と言うよりいっそ冷風になる。マイナスイオンをふんだんに取り寄せた、息をする度に生き返る心地のする冷風であるから寒いとは思わない。が、「くしゃみくらいは出そうだ」とは、始の感想である。
目的の神社は、規制線の横断する崖の手前、獣道を成した緩い下り坂を行った先である。夜なので、来たことのある始でも道を見失いそうになるが、そこは唯一の能力「勘」で切り抜けた。当然の話だが、昼間であっても山の獣道を入っていくものではない。非常に危険だ。
そんなところに夜に入って行ったのだから始もじつは冷や冷やしたものだったが――、歩を進めると、夜闇に浮き立つ朱色の眩しい鳥居が列を成しているのが見えた。
「あれだ」
視界に入れば、一分も歩かないうちに鳥居の下に到着した。身の丈二〇メートルはあろかという巨大な第一の鳥居を始め、大小の鳥居が石畳の参道を跨いで五〇近くも並べば威圧感すら感ぜられ、多くの者は畏縮してしまうだろう。
「これはすごい……」
と、漏らして感動したヒバリが鳥居を仰いで歩いた。「畏怖すら覚えますよ」
「そうか。オレはなんにも感じない。ただの鳥居じゃないか」
「ええ。しかし、鳥居一つ一つに、魔力が宿っています。神様がいるというのも、あながち嘘ではないかも知れません」
「神が住んでなかったら神の社なんていわないだろうけどな」
「ご尤もですが、未だかつて神の存在を証明できた者はいませんよ」
ヒバリがふふっと。「神など偶像だというのがボクの意見でしたが改めてもいいですよ」
「お前は意見を曲げない奴だと思ってたけど」
と、始は多分に嫌みを放ったが、
「さあ、なぜでしょうね」
と、ヒバリが微笑む。「ボク自身が判りません」
「っはは、なんだそれは」
思わず好意的な苦笑をしてしまって、「お前らしくもないな、感情的だ」
「そうですね。ボクも、こんなことは初めてですよ」
「変なの」
「変ですね」
ヒバリが理解できず首を傾げることというと他人との関わりによる事象なのだろう。始は、直感した。
「なぁ、お前、オレに気を遣ってんのか」
「どうしてです」
真顔で訊き返される。
「え、いや、どうしてって……」
もともと根拠がないので筋道を立てて応えるのは不可能である。
「君は直感だけは素晴らしい。ですが、もう少し裏づけも得てから口にすべきですよ」
「悪かったな」
と、文句ったらしく言ってやったところで、始は今し方の彼の言葉が引っかかった。
……直感だけは素晴らしい、って、いったよな。
裏を返せば、始の直感が当たっているとも取れる。
「なぁ、ヒバリ」
始は足を止めた。立ち並ぶ鳥居の中間点を過ぎて間もなくのことだ。
「なんです」
前へ行きすぎたヒバリが足を止めて、始を振り向いた。
「お前さ……」
と、始は呆れた目差を掛けた。「なんでそう気持を話そうとしないんだ。お前の気持、……理解してやれるかも知れないのにさ」
「理解、ですか」
目を背けてしまったヒバリが、いつもとは違い照れたような微笑を浮かべた。――木木から洩れる月明り。下手な異性よりよっぽど美しく場に映える横顔。
「……ボクは、君に話したいことが、たくさんあります」
しばらく木の葉の擦れる音しかしなかった。そんなときのヒバリの言葉は、言葉通り自分を強く律した風で、胸が痛むほどに苦心が伝わる。
「決して、話せません。それが、君に取っての幸せだとボクは思うから……。ですが」
ヒバリが、不意に余裕綽綽といった顔に戻った。「それで君に気を遣っていると思わせてしまったのなら、すみません」
「いや、別に、謝ることはないけどさ……。一ついわせろ」
始は、ムンッと胸を張って告げる。「オレの幸せはオレが決める。お前の尺度で勝手に決めるな」
ヒバリがやや目を向け、控え目に応えた。
「そう、ですね」
と、呟く。「ボクは一番大切なことを、見落としていたのかも知れません……」
木木が、泣く。
「始……、……聞いてほしいことがあります」
ヒバリの面構えは、並並ならぬ決意を秘め、半ば気迫すら漂った。――思い返してみたら、ヒバリが始を名前で呼ぶのは希しい。前に呼んだのは、突然空中に投げ出されたときだったか。
彼が重要な話を口にしようとしていることは、雰囲気でも解ったが、名前を呼んだか否かでも承知した始である。神妙な面持で、「なんだ、いってみろ」と、応えたのはそれゆえだ。
始の両眼をまっすぐ捉えて、ヒバリが語る。
「君があのとき死した方が幸せだとする理由を、ボクは叔母君から聞きました。それは、彼女の主観であり、君の主観ではないことなど、ボクは、今の今まで気づくことができませんでした……。申し訳ありません」
直立から深深とお辞儀するヒバリ。そのままの体勢でさらに言葉を口にした。
「飽くまで叔母君の話を基にした推測ですが、お聞きください」
「……ああ」
仰仰しく下手に出たヒバリに、わずかに圧されつつも始は耳を貸す。
顔を上げたヒバリが、躊躇いながらも告げる。
「叔母君は先刻通り君を殺害するつもりです。理由は……、千歳さんのためでしょう」
「千歳の……」
「驚くでしょうが、次に話すことは事実です。耳を疑わず聞いてください」
前置きをしてヒバリが告げようとしたとき、一陣の風が吹き抜ける。落ち葉や砂煙が巻き上がり、始はヒバリとともに一瞬体が浮くような突風を感じた。次には風がピタリと治まる。
ふと、二人が風下、拝殿の方角を見やると、そこには影が立っていた。影が、始とヒバリを見つめている。
「あれは……!」
林の中で出遭った、あの影である。
……おばさん!
始は思わず身構えた。次に会ったときは殺される。ヒバリにそう聞かされていたからだ。
「林の……おばさんだ」
と、呟く始に、ヒバリが首を振って応える。
「いいえ、……、違うと思います」
「え……」
ヒバリの言葉に始は目を見張る。
よくよく見てみる――。月光に霞んだそのシルエットは、確かに叔母のものとは違う。一巡目に出遭った某と叔母を同一と観ていたが、いま目にしている一五〇センチほどの影とは、微妙な身長差で別人だ。決定的なのは髪型。叔母は腰上一〇センチほどのロング。ロングはロングでも、影は腰ほどもあるストレートロング。叔母と相対したとき、始は動揺でそこまで気が回らなかった。
「あれは、」
月明りが三次元に照らし出した影を、ヒバリが言葉で指す。「――千歳さんです」
始は、ヒバリの言葉に疑いを持つより先に自分の眼を疑った。
……馬鹿な!
「千歳」は「千歳」だが、身長も、顔も、言えば体格も、大人っぽくなっている。ただ、それが「千歳」なのだということは、始なら解らないはずがなかった。
影、もとい大人の姿を取った千歳が歩み、数多の鳥居をおもむろにくぐる。その雰囲気は崖で見かけた千歳とはまったくの別物。
……これは、おばさんからも感じてた、アレだ。
重い、重い、殺意。
思えば林で出遭った影も同じ雰囲気を纏い、迫ってきた。あのときは始が近づこうとすると踵を返した。あれが千歳だったのなら、影であった彼女は始に顔を見られるわけにはいかなかった。
だが、今度は違う。月光が落とす鳥居の陰影の合間合間で、千歳の顔をはっきりと視認できた。
逃げることは、最早あるまい。
「ハジメ君」
「っ……!」
大人しいままの、大人びた千歳の声に、冬の滝に打たれたかのような衝撃と悪寒が走る。背中が凍りついたように、瞬発力を削がれるようだ。
「しっかりしなさい!」
ヒバリのその声がなければ、始は一向に動けずにいただろう。
「逃げますよ。鳥居の魔力が彼女の魔力に同調して増幅しています。これは、非常に分が悪いです」
魔力云云が見えない始だが、何か嫌なことが起きるのではないかと、漠然とした不安感が急激に心を支配するのは感じていた。
「わ、解った」
始はなんとか応えたが、まったく足が動かない。歩み来る千歳から目が離せない。これが現実なのだと受け入れるためには、それが必要だったのだろうか。
動けずにいた始を救ったのも、ヒバリにほかならない。ガシッと始の腕を摑んで石畳を走って引き返す。始もつられる形でようやく走り出した。
「す、すまない」
「構いません」
一言応えたヒバリはいつもの微笑だった。
足許を確かめる暇もない。始とヒバリは獣道を走る。月明りもわずか陰り、足許を確認しようにも前方以外は闇に塗れて見通せそうにない。
数十の鳥居が列立する参道を抜けて、千歳が始達の走る獣道に突入する。その動きは地に足が接していないかのように、異様に滑らかで速い。
……どうして分ってくれないの……。
始はヒバリに引かれて走るうちに、心身の平常を取り戻し、自ら前を走った。
「こっちだ、抜け道がある」
「こちらですね」
ヒバリが片手を後ろへ振り抜き、籠手から大水を放ち、後方の千歳の足を止めた。始は抜け道がある山の斜面を滑り、ヒバリを呼ぶ。
「こっちだ!」
「了解です」
始のあとに続いて、ヒバリが落差五メートルを飛び降り、華麗に着地してみせた。
山の斜面にぽっかりと、土を掘っただけのような穴。落差一メートルほどの狭い穴の中へ始は滑り込むと、ヒバリも迷わず次いだ。
……待って……。
穴の中はさながら迷路のようで、枠組の木材が壁と天井に張り巡らされている。――ここはその昔、地下資源を発掘していた坑道なのだ。
ところどころ天井や壁が崩れて足場が悪く、歩きにくくなっている。中腰の状態で前屈みになって進む。
「驚きました。君がここの存在を知っているとは」
「ここは千歳とよく遊んでたところの一つだよ。おかしくはないだろ」
「やはり知りませんか。ここは過去、魔力を多量に内包した〈精霊結晶〉が採掘されていた坑道なんですよ」
「へぇ~。スゴイな」
始は何がすごいか全く解らないが、表現は間違っていなかった。
「精霊結晶は、我我魔導師が魔導の力を揮うとき必要になる大事な物です。ボクでいうとこの籠手、この中に、精霊結晶を入れて初めてボクの魔力で魔法の力を引き出すことができるのです。遅蒔きの説明になりましたが、それを俗に、〈魔導〉といいます」
魔導は、魔物を思いのままに投げ飛ばしたり、空を飛ぶための翼のような物にするほどの強力な力だ。精霊結晶は、それらを操る為に必要なのだそう。
「けど、ここは廃坑だろう。こんな、熊が冬眠に利用するだけみたいな場所、出入りがあるとは思えないけど……。それを遊び場にして知ってただけですごいのか」
「そこは、すごい、ではなく意外なんですよ。千歳さん……、彼女は体が丈夫でないと組織からの情報にありますから、このような空気の悪いところに入っていくのは……なかなか厳しいはずですよ」
「ん……、そう、だな――」
前に進んで始は口を閉じた。これほど埃っぽいところに千歳を連れ歩いていたのだと、始は言われて初めて気づいたのだ。
始の心境を察したのか、ヒバリが話を切り換えた。
「この坑道は、どこに出るのですか」
光のない坑道内。ヒバリが懐中魔導灯で前を照らしている。
「出る先によっては注意が必要です。無論、千歳さんの知っている出口では先回りされる可能性があります」
「出口は沢山あるから推測で先回りされるなら運がなかったってことだろ。そんなことより……」
……逃げないで。
「どうして千歳から逃げなきゃならない状況になってるんだ」
「それは、……君が殺されるからですよ」
「判らねぇけど……解ってるよ、そんなこと!」
千歳に命を狙われる理由など思い当たらない。叔母に狙われた理由もいまいち理解できない状況にあって、さらにわけが解らない事態が発生してしまったのだから混乱も止むなしだ。
「先程の話の続きをしましょう。それで、君は理解できてしまうでしょう」
ヒバリの声調が、明らかに変わっていた。鳥居の下での躊躇いがちながらも決意を感ぜさせた声と同じだ。
始は全てを知りたい――。いまさら事実から逃げることはできない。なぜ、叔母に狙われたか、なぜ千歳にまで狙われることになったのか、知りたい。
「話してくれ」
狭い坑道を抜け、多くの分岐路がある開けた空洞に差しかかる。迷っている暇はない。すぐさま次の坑道を選び、走る。比較的広めの坑道で崩壊もさほどひどくない。目一杯に走りながら、
「では、話しましょう」
ヒバリの話が始まる――。
そのときだ。
「なっ――!」
走っていた始の前に、突如として千歳が現れた。見紛うことはない。千歳は壁から現れた。
二人とも、はたと立ち止まる。
「なぜ逃げるの……」
千歳がゆらっと顔だけ向けて、始に問うた。「ねぇ……どうして」
「それは……」
足の膠着が再発しそうになる。そんな始の腕を引いてヒバリが道を引き返す。無論、全速力の疾走だ。
「じっとしていてはいけません。即座に逃げねば」
「わ、解ってる……」
と、言いつつも、始は千歳が気になり、後ろを振り向く。が――、そこに千歳の姿がない。暗いとはいえ坑道は一本道。すぐに見えなくなるはずはなかった。
「千歳は魔法で移動してるのか。壁からなんて反則だ」
「……」
始の問に、ヒバリが応えない。
「おいヒバリ、なんかいえ」
「すみません。なんと応えればよいか、考えていました」
「魔法か、そうじゃないかの二択だろ」
「そう、ですね。答は二択です。しかし、難しいのですよ」
ヒバリが先行して、分岐路のある開けた坑道に戻った。考える間もない。立ち止まらず、二つ隣の道へ駆け込む。
ヒバリが難しいことを言うのはいつものことだが、今回は殊更難しい応答に聞こえた。
「どういう意味だ」
「君の提示した魔法か否かという選択肢では応えられません」
ヒバリが言い、急に立ち止まる。始は、彼の背中にぶつかる寸前で急ブレーキを掛けて、なんとか人身事故を防いだ。
「急に止まるな!」
「静かに」
「お、おう」
「何か来ます……」
「千歳か」
「いいえ。ですが……」
懐中魔導灯を始に渡して前方を照らすように命じたヒバリが、籠手を調整して構えた。――魔物か。始でなくてもそれくらいは想像がつく動作だ。
しばらくすると、
ゴゴゴ……。
坑道を振動させて何かが迫る。
始は、懐中魔導灯を翳しつつ、やはり、一歩、後退ってしまった。
次の一瞬で振動は地震のような激しさに変わり、発生源も姿を現した。
ガキッ!
ヒバリが両腕の籠手で受け止めた振動の発生源は、巨大な猪のような魔物――、見た目は叔母が使役したあの魔物だが、体が仄かに青白く光っていて以前とは様子が違う。
「この猪――」
ヒバリが籠手から水の激流を放ち、魔物を木端微塵に消し飛ばし、「脆いですね」
地面に転がり落ちる魔物の残骸は、氷のように溶けて消えていく。
「千歳の仕業なのか」
「生命体の呼吸を感じない一方、千歳さんの魔力を感じました。恐らく彼女の魔力で一時的に具現化した生命体、いえ、魔法なのでしょう。属性は氷、下手に受けると……」
ヒバリの籠手が部分的に凍りついている。
「……本気で殺す気なのか」
「ええ……。そして、魔物的魔法は、彼女の眼にもなっているでしょう」
ヒバリが後ろを向く。
始も背後を振り向いた。
そこには、今まで気配もなかった千歳の影。
「見つけたよ、ハジメ君」
「っ……」
狂喜を含んだ口許がいやに吊り上がって見えた。今まで見てきた千歳の笑顔と何も変わらないはずだが、先入観からか、背中に冷たい感覚が這いずり回っている。
「逃げ場はないということですか……」
ヒバリが始の前に出た。
……ヒバリ。またオレの前に……。
職業柄か前に出ていくヒバリに始は申し訳なく思うが、引き下がるしか。
……本当に、これでいいのか。
「千歳さん。ボクには、彼を守る責任があります。好きにはさせません」
「邪魔をしないで……。あなたは関係ない」
……千歳は、オレだけを殺す気なのか。
そこで、始は大きな疑問が生じた。ヒバリの話では、一巡目に叔母が始を殺したあとヒバリも殺した。彼女は千歳の為に、そんな凶行に及んだのだとヒバリが漏らしていた。
当の千歳は、ヒバリを殺してまで事を成そうとは考えていないようなのだ。千歳と叔母とでは、行動に明らかな違いがある。
「お願いです……。退いてください」
ふわりと一歩近づく千歳に、ヒバリが対する。
「……決して負けません。彼はボクが守りきります!」
……ヒバリ。
決意漲る言葉に、始は胸を打たれた。
「ヒバリ、もういい」
始はヒバリを押し退け、前に出た。
「千歳、何が目的か解らないけど、こいつは巻き込まないでくれ」
「ハジメ君」
千歳が首を傾げた。「その人のことが、好きなの……」
「は。な、何をっ」
突拍子のない問掛けを受け、始は口角を引き攣らせる。「んなワケあるかっ!」
焦り気味に言う始に、むむっと口を一文字に結んで応える千歳。
「……好きなんだね」
「いっ!いやいや、オレはお前が――」
「もういいっ!」
始も初めて聞くような大声で千歳が拒絶し、右手を振るった。途端、炎の波が打ち寄せる。
「っぐ!」
両腕で顔を覆った始の前に出ていくヒバリ。瞬時に籠手から発した水の壁で、業火を防ぐ。
「今のうちです。奥へ」
「あ、ああっ」
ヒバリの合図で、始は坑道の奥へと駆け出す。しばらく水の壁で守りを固めていたヒバリも、業火が止むと水の壁を消して追いついた。
「一目散に奥へ。先程の話の続きは、無事に生き延びたあとです」
「解った!」
ヒバリの話の続きが気になる。始はとにかく全力で坑道を駆け抜けた。
……ったく、嫌な感じだな。
何より嫌なのは、千歳に「ヒバリが好き」などと思われてしまった事だ。
……なんで、選りに選って男に嫉妬するんだよ、千歳っ!
もう、命を狙われたことも、一度は命を落としたことも忘れて、千歳がいだいた勘違いをどう解消するかで頭がいっぱいになっていた。
「余念はあとにしてください」
と、横を走るヒバリが悟った。無論、始は突っ撥ねた。
「煩ぇっ、お前のせいだよっ」
「おや、そうなんですか。何か悩ますようなことをいいましたか」
「あぁ~、もうっ、まじめに受け応えすんな。腹立つ~!」
ヒバリが思いきり首を傾げているが、始はとことんまでに突っ撥ね続け、やがては月明りの射す外へと飛び出した。
「どうやら、坑道を脱しましたね」
「あ~、そうだな」
「なんです、まだ考え事ですか。似合いませんね」
「うるせぇよ、ほっとけぇ、もう……」
半ば泣き目で応えた始は、ヒバリの前を行く。
「こっちだ」
と、少しぶっきらぼうな声を放って走る。幸い、始が知っていた分岐路の一つで、坑道を出た先からどちらへ行けば旅館へ辿りつけるか判っていた。
「急ぎましょう。旅館に着けば、逃げ遂せたも同然です」
「ホントか。千歳に追いつかれたらアウトなんだろ」
「ええ、まあ。しかし今頃ボクが組織に注文した〈魔導具〉一式が届いているでしょう。それがあれば、まず安心です」
「すごい自信だな」
と、始は腹いせで言ったが、
「自信ではありません。確信です」
と、この通り、ヒバリがまじめな応答で軽やかにスルーした。説明もする。
「組織で開発した魔導の中で、魔力や魔法を遮断する装置があります。それがあれば、千歳さんでもボク達に手を出すことはできなくなります」
「なるほどな……。千歳は力は弱っちぃからな」
魔法が主力で腕力のない千歳が相手なら、旅館に戻れば安全なのは確かなようだ。
と、なれば、あとは全力で逃げるだけである。が、――気になっていることがあった。
「ヒバリ。話の続きは」
「……千歳さんがなぜ壁から現れたのか。あと、なぜ君を殺そうなどとしているのかですね。後者がより重要でしょう。そちらを説明すれば、氷釈、解決します」
「よく解らないけど、よろしく頼むぞ」
「ええ、無事に逃げ遂せたら」
一目散に暗闇の林を駆け抜ける。懐中魔導灯があるからいいが、なければこうはいかなかっただろう。
だが、それでも、始達の前に千歳が現れたのだ。
……あり得ない。
千歳は体が丈夫なほうではない。全力で走っていた始達に追いつくのはあり得ない。
「もう逃がさないよ、ハジメ君」
「っ……」
いっそ、不気味であった。
「千歳……、お前、いつからそんなに丈夫になったんだ」
思わず問いかけると、
「丈夫だったら、ここにはいないよ……」
呟くような声で千歳が応えた。
いったいどういう意味だ。と、訊く前に、ヒバリに腕を摑まれ、左へ引っ張られるように走り出す。
「構ってはなりませんよ」
「って、いったって……」
「命を落としますよ!」
鬼気迫るヒバリの語気。
それだけなら押し黙ることはない。始が黙ってしまったのは、「守られる立場」だからだった。ヒバリは、始を守るための最善の行動を執っている。それは彼の責務だということだがしかし、始を守りたいという気持が伝わってきたのだ。
……今は、ヒバリのいう通りに行動しよう。
申し訳ないし、始自身、命を落としたいとは思わないのである。
……どうして?
始は、ヒバリの先を走り、
「あそこだ!」
と、斜め前の木木の隙間を示した。五階建ての旅館の平らな頭が覗いている。
「了解しました。一気に行きますよ」
ヒバリが再び前を行き、始を引っ張りつつ籠手から激しい流水を放つ。流水は、地面を撃ち、反動で始達の体が二〇メートルも一気に空中へ持ち上がる。
「わだぁっ!」
「摑まってください!」
「あ、ああっ!」
ヒバリの腕を辿って、彼の肩に縋りつく。手もそうだが、肩も背中も頼もしくはない。
……普段なら、こんな奴に頼るのは負けた気がしたりするんだろうけどなぁ。
今回は、肉体的には頼もしくないヒバリに助けられてばかりだ。負けた気も起きない。そもそも同等の強さではない。張り合う気もなくなるというものだ。
「おっと」
ヒバリが空中で器用に身を翻す。始の顔のすぐ脇を、真赤な火球がメジャーリーガも真青な速度で飛んでいった。
「ひっ、火て!」
火球が飛んできた方向を見やると、そこにはまたしても千歳がいた。今度は空中。魔法で飛んでいるのか。
「……どうして?」
「え……」
千歳が空を飛んでいることより、その表情があまりに切ないことに驚かされる。
「……ハジメ君は、あのとき約束してくれたよね……なのに、どうして……?」
「あのとき……」
千歳の言う「あのとき」を始は必死に思い出そうとする。けれども、思い出せない。
……いったい、なんのことだ。
もしか、「あのとき」のことを思い出せれば千歳がこのような凶行に及んでいる理由が解るかも知れない。でも始には思い当たる記憶がない。
「今は逃げることだけを考えましょう」
「……あ、ああ」
ヒバリの言う通りである。
始はヒバリにしっかりしがみつき、彼の放った流水の圧に堪えた。UFOのような機械的滑空をし、千歳がいる空域を避けて旅館方面へ突き進む。
「そうはさせない……」
千歳が追う。その動きは滑らかで、ヒバリとは対称的な、鳥の如き自然な飛行に見えた。しかも、
「速い!」
ヒバリの二倍以上の速度で、あっという間に距離が詰められてしまう。ただ、ヒバリが浮力に用いた水が辛うじて千歳の隣接を妨げていた。
「ヒバリ、どうする!」
「どうもしません。旅館へ一直線です!」
沈着冷静なヒバリにして、どこか急いたかんばせであった。
……それだけこの状況が危険だってことだ!
無論、空を飛んでいるだけで危険だが、それ以上に千歳の接近が危険である。
「止まって!」
業が沸いたのだろう。凄まじい勢いで、千歳が火球を連発する。
「うわぁっ!」
全てが始を狙っている。ヒバリが火球の弾道を見切っていなければ、全弾が始の身体を撃ち焼いていたことだろう。
「ヤバイっ……ヤバイって!千歳、やめろっ!」
「嫌、やめない!」
はっきりとした拒絶だ。それほど殺したいのか。火球が勢いを増す。
「くっ!」
ヒバリが最小限の動きで火球を回避するが、徐徐に旅館から視線が逸れる――。
「いけません、誘導されています。反撃しますが……いいですか」
と、ヒバリが窺う。
「殺さない程度に何とかしてくれ!」
と、始は即座に応えた。
「了解しました。では――」
ヒバリが身を翻し、旅館方向へ背面飛行を続けつつ千歳と向かい合う。
「すみませんが、ここでやられるわけには、いかないのですよ」
両腕の籠手から鋭い水流を放つ。弧を描いた激流は、両サイドから千歳を捉え、数十メートル後退させる。始の心配を余所に、まともに攻撃を受けてまったくの無傷のようだが――、足止めにはなった。
千歳が再び飛行を開始したときにはヒバリが旅館のガラス窓を突き破って客室に着地した。始を下ろすと、組織から届けられていた爪が四本立った長細い箱型の「障壁装置」を起動。旅館全体を包むように魔力を遮断する透明な壁が展開したのだった。
――七章 終――




