六章 初日
晴れ渡る空はいつ見ても清清しい。台風一過によってあらゆる不純物が空から取り去られたのだろう。
始は、夏に福成すひとときの涼風を受けて、昼下りの住宅街を歩いていた。
日曜日だ。時折、家族連れがどこかへ出掛けていくのを目にする。買物するもよし、実家に帰省するもよし、アウトドアレジャをするもよし、インドアにてゲームに耽るもよし。各家庭が、各家庭なりの愉しみ方で、ときを過ごしていくのだろう。
始はと言えば、両親の旅行に連れていってもらえず、こうして一人の時間を無為に過ごしてしまっている体たらくであった。
ただ、妙な感を覚えたのだ。
……この感じ、前にも体験したような気がする。
いわゆるデジャヴである。
台風が横断した昨夜、クーラという名の世界的大発明たる逸品は始の家では故障しており蒸し暑くとも窓を開けるわけにはいかなかった。そんな時に掛かってきた一本の電話に出ると、相手は従妹の千歳だ。始に取って一従妹以上の存在である千歳からの予期せぬ電話は、天使の加護か神の慈悲のように不思議と蒸し暑さから救ってくれた。今日の朝、彼女に電話を折り返すはずだったが、少しばかり寝坊したのと「千歳の家に突然訪ねるサプライズ」を思いついて取りやめた。サプライズを原動力に彼女の家を目差して、意気揚揚と青天の下をスキップの勢いで歩く――。
これらのことを逐一体験していたような気がしてならなくなるほど始は人生の経験値を積んでいないが、どうしても既視感が消えない。
「まぁ、よくあることだよな」
と、まったく気にしなくなるのは前向きだからか、考えなしだからか、あるいは、どちらともだろう。
千歳の家がある地方に始が到着したのは、日も暮れ行く頃であった。久しぶりの一人旅とあってバス停を間違え、余計な時間を取ってしまったのが原因だろう。
……早く行かないと千歳が寝ちまう!
サプライズを画策しておいて相手が寝てしまって台無しなどあってはならない事態である。
始の一家が贔屓にしている旅館の真ん前の通りは、燈のない土曝しの山道と接している。千歳の家が山の中腹にあるので、そのいかにも危なげな山道を行くしかない。始が山道に足を踏み込んだときには、夜暗と遜色のない暗闇を山がフル装備していた。
勝手知らぬ者は足を踏み外して滑落するような細い山道。始は慣れた足取りだった。
……そういえば、ここら辺は魔物なんかが出易い地域なんだったっけ。いや、それは林だっけ。
ふと、そんなことを思う。
……あれ。誰から聞いたんだっけ。
気に留めることでもなかろうが、始はデジャヴ同様に気になり――、デジャヴ同様にすっかり忘れ去ってしまうのであった。
千歳の家に到着すると、直感オンリ少年こと始でもその明らかな異変に気づいた。
いつ訪ねても綺麗にされていた一戸建ての庭が、雑草の絨緞になっている。と、優雅に表現したが、草ボーボーである。
「おばさんが手入れを怠るわけないよな」
近所でもしっかり者として知られている叔母。それに、そんな叔母の娘である千歳は、人見知りは激しいが母譲りのしっかりした側面も持ち合せている。勉学においては年上の始が及ばない。無論、平均的学力かそれ以下の始と比べても大したことがなさそうだが、極めて優秀で名門私立中等部に入学を奨められたほどだ。と、長長と説明したが、つまりそんな千歳親子が、草が茂るまで放置するとは考えにくい。
格子の門を開き、庭の伸びきった草を踏み倒して玄関へ向かう。三階建てのいずれの部屋も燈が点いていない。人気もない。不気味な静けさすら漂う。
玄関扉をノックしようとしたとき、背後から声が掛かった。
「君はこちらのお宅にご用ですか」
「……お前」
背を振り返ると始が踏み倒した草の小路を歩いてくる長髪少年の姿があった。――その姿を目にし、始はそれまでにない激しい既視感を覚え、鋸で切られるような頭痛がした。
……なんだ。頭が、どっかおかしくなったのか。
「痛みますか」
額に手を当てて痛みに堪えていると、「微笑」を擬人化したような穏やかな雰囲気に満ち満ちた少年が、歩み寄っていた。
「記憶が混濁しているのでしょうね――」
「記憶……。混濁、って」
微笑み少年の言うことが何一つ解らず、始は到頭軒先のレンガ敷に膝をついて頭を抱え込む。
「っ――!」
見たことがないはずの光景、体験したことのないはずの恐怖や痛み――、それから、愕然とした叔母の遍く凶行。パラレルワールドを探訪したあとにも感じ得ないような違和感と、確信的な出来事の数数を、始は瞼の裏に焼きつけていく。いや。焼きつけられているかのような他力が加わって初めて得られるような感覚であった。
そうして、やがては思い出す――。
「これ……」
断末魔も上げられず、「左」の大地に広がる黒緋を見眇めて、意識を手放した瞬間をありありと思い出して、始はぞっとした。
「オレは、……死んだ、のか」
全てを思い出した瞬間に、頭の痛みは消え失せ、相反するような爽快感でいっぱいになる。勿論、体験した二日間の記憶については恐恐としたものだが、始はなぜだか生きている。しかも時間を遡っているのだ。度重なる既視感は体験してきたからだったとすっかり納得がいった。
「ヒバリ――、どういうことだ」
始は、この奇怪な現実をなんとか理解しようと、忘れていた二日間でしていたように、微笑の美少年に説明を請う。
が、彼も詳しく把握できていないようで、微苦笑で首を傾げてみせた。
「原因は不明ですが、確かにボク達は過去に戻っています。日付はボクと君が初めて出逢ったあの日……。また、記憶は封じられていたようですが、かなりロックが甘かったですね」
「そういうってことは、お前も記憶を」
「ええ。今の今まで」
と、ヒバリが微笑みに帰し、「君の顔を見た瞬間、思い出しましたよ」と、顔を寄せるので始は反射的に押し退けた。
「や〜め〜ろぃっ、気持わるいっ!」
「ふふふっ。君の態度が変わらないようで少しホッとしましたよ」
「記憶があるんだから当然だろ」
始としては、なるべくヒバリのような人間とは関わり合いになりたくないのだが。
「……時間が戻ってるってことは」
始は、ヒバリを窺う。
ヒバリが、うなづいた。
「ええ。君の叔母君は、恐らく南国にいる自分達の替玉を殺害する前であり、調べ回るボク達を殺害せんと動くでしょう」
「やっぱりか……」
叔母はまだ凶行に出る前だ。今なら止めることもできるかも知れない。
それはそうと、解らないことがある。
「優しかったおばさんは、なんでオレを殺そうとなんてしたんだ。意味解んねぇよ……」
ヒバリを窺いつつ、呟いた。
間を置いて、ヒバリが首を振る。
「解りません」
「本当か」
始は、ヒバリを見つめる。明らかに存在した間が、彼の情報の有無を物語っていた。
ヒバリが目を逸らして白状する。
「お察しの通り、解っています。……ですが、君には話せません」
「なんでだよ。オレは、部外者じゃないはずだ。聞かせてくれ」
「すみません……、部外者に情報を明かさないのは当然ですが、こればかりは『君にだけは』話すわけには、いかないのですよ」
と、言い、次いで「理由も話せない」とヒバリが断った。
意志が固そうなヒバリに、始は、
「解ったよ」
と、吐き捨てた。「仕方ねぇな……」
「すみません」
ヒバリが会釈する。
「いいよ、別に。お前のことは、一応、信用してる」
魔物から何度も守ってくれたこと、叔母から守ろうと前に出てくれたこと、忘れはしない。
「さて……、急がないとな」
と、始は話を切り換えた。
風が吹き、背伸びした草が擦れ合う。
「あの崖に行きましょう」
「……ああ」
始はヒバリとうなづき合い、ついこの前、魔物に襲われた崖へと、足を運んだ。
崖の前には、やはり規制線が横断していた。慣れた風と言うより、本当に慣れているので、始はテープを腕で易易除けて、崖へ歩み寄った。
……ここに、おばさんが持ち去った証拠がある。
枯れ木に刺さった布の切れ端のことである。
記憶を頼りに確認してみると、枯れ木は崖の端のほうに根差し、布の切れ端も、ちゃんと残っていた。
「ヒバリ。取ってくれ」
「やはりボクですか」
微笑で、「まぁ、いいでしょう」
始の要請に応えて、崖スレスレに生えた枯き木の枝にヒバリが手を伸ばした。
一筆書きできる地平線と水平線を崖から望める。月明りを乱反射させる水面が美しかった。一方で、崖の下に広がる林は真黒の闇で覆われて不気味なほどだ。あそこを駆けずり回ったこと、あそこで、死んだこと、過去に起きた未来の出来事を始は噛み締めた。
枯れ木の枝に刺さっていた布の切れ端をヒバリが手にして、崖から下を覗く始の許にやってきた。
「取れましたよ。確認しますか」
と、ヒバリから手渡された布の切れ端を、始はマジマジと観察した。
「これって、千歳……の、ハンカチに似てるな」
「千歳さんのハンカチですか」
「ああ、間違いない、と思う」
「確定か、不確定か、ハッキリさせてほしいところですが」
ヒバリがクスクス笑った。「ボクは君の記憶を信じますよ。実際、ここで君の叔母君に襲われ、その布切れは奪い去られてしまったのです」
「けど、それって、変だよな」
始は崖を背に立ち、ヒバリを振り向いた。
「千歳は事件に関与しちゃいない。なのに、おばさんがこれを隠す意味があるのか」
「自分に繋がるあらゆる証拠物件に過剰な反応を催してしまうのが犯罪者の心理です」
「犯罪者、か」
始は身をもって叔母の凶行を思い知ったが、未だに犯罪者だと思うには抵抗があった。
布の切れ端の謎が解けたところで「そうだ」と、始は一つ心配事に思い至る。
「おばさんの記憶はどうなってんだろうな」
「いい点に気づきましたね」
ヒバリが大袈裟に賛美の拍手。
「恐らく戻っていないと思われます」
「根拠は」
「ボク達の行動が先読みできるはずなのに、この布切れを放置するはずがありません」
左手をひらひらさせて微笑むヒバリ。「記憶が戻れば、危険因子であるボク達を殺しに来ることも間違いない。要するに、叔母君がボク達の前に姿を現したときが、彼女の記憶が戻ったとき、と、いうことにもなりますか」
「あんな思いは、金輪際したくない」
「ええ。死ぬのは一度きりで願い下げですよ」
彼の言葉を耳にして始は少少戸惑った。
「お前まで、やられたのか」
神妙に訊いたのに、対するヒバリは微笑のままであった。
「致し方ないでしょう。ボクでは君の叔母君には適いません」
「そうなのか」
ヒバリには魔物をものともしない強い力があった。だが、生身の人間であることも忘れてはならない事実なのだ。
……猪に、腕を折られてたしな。
ヒバリの腕は今はなんともないらしいが、どうしても気になってしまう。
「どうかしましたか」
視線に気づいて、ヒバリが笑む。「ボクの腕なら時間が戻った時点で治っています。なかったことになっているんです、助かりますねぇ」
「まぁ、そうだよな……」
何せ死んだことすらなかったことになっている。ヒバリによれば、時間が巻き戻ったことで叔母の凶行に曝されるということ自体がなかったことになった、と。
ただ、「なかったこと」が「起こらない事」と同義ではないことくらい、始にも解る。
「どうすりゃいいんだ。オレにはおばさんを止める手立てなんかありゃしないぞ」
額に手を当て、項垂れる。
ヒバリがおもむろに口を開く。
「君は……もう関わるべきでは、ないのかも知れませんね」
「は。何、いってんだ。こんなとこで退けると思ってんのか」
「そういうと思いました。しかし、ここでしっかりと考えておくべきことです」
警告だ。
「君は、間違いなく叔母君の標的です。それは事件の関与何如を問わず、もはや決定項といえるでしょう」
一拍の息継ぎをして、ヒバリが提案した。
「君は組織の許で匿ってもらうべきです。ボクが手引しましょう」
ヒバリが携帯電話を取り出したが、始は「待て」と取り上げた携帯端末を折り畳んで、要求する。
「要らない。お前が、オレを守れ」
「ボクでは叔母君から君を守れないと、『一巡目』で判ったはずですよ」
一巡目とは、なくなった二日間のことである。
「ああ。だから、チャンスをやるよ。汚名挽回のな」
「……『返上』の間違いですね、ふふっ」
口許に手を当てて、嫌みっぽく含み笑いをするヒバリ。
始は小恥ずかしさに顔を赤くした。
「いいだろ、どっちでも。とにかくチャンスをやるっていってるんだ……拾わない気か」
顔は赤いが、真剣に問うたのだ。
ヒバリも、それなりに「真剣」な微笑を浮かべた。
「名誉挽回の機会を与えてもらうのです。無下にはしませんよ」
「それでこそお前だ。オレは、お前以外の連中がゾロゾロと身辺警護するのなんて、嫌だからな」
「少しはボクを認めてくれているんですね」
ヒバリが不敵に微笑むと、微風が心地いい。
「解りました。君は、ボクが守ります。前回で得た経験もあります、――組織に連絡し準備万端を整えて、事に臨みましょう」
「武器でも取り寄せるのか」
始は携帯端末を返した。ヒバリが折り畳まれた携帯端末を素早く開いて耳に当てた。
「まあ、そんなところです。――ヒバリですが、――」
電話相手と繋がったらしく、ヒバリが始に丁寧に会釈し、会話を中断した。
「――ええ、緊急を要する案件です。できる限り早急に搬送してください。――ええ、そうです。それを、お願いします」
なにやら、ところどころに難しい言葉を交えてヒバリが組織の仲間に武器(?)の搬送を要請していた。その次に、始にも解る話題があった。
「――渡航した『早瀬夫婦』と周辺の人物から絶対に目を離さないでください。彼らは殺害される危険性があります」
「早瀬夫婦」とは、始の両親ではなく、千歳の両親のことだろう。周辺の人物も監視対象にしたのは、替玉が無関係な人間から選出されないとも限らないからか。
「この事件の裏には、早瀬千歳さんの母君が深く関与している、……はい、皆への伝達を徹底してください。――ええ、よろしくお願いします」
ヒバリが通話を断ち、始を窺う。
「ボク達は旅館で待ちましょうか」
「そうだな……」
今はヒバリが要請した武器(?)を待つのがいいだろう。他に何をすればいいのか判らないというのもあるが。
できれば殺害される替玉を助けに行きたいがそちらは今からでは間に合ない。ヒバリ所属の組織に任せるのがいい。役割分担である。
こうして、始達は崖を去ることにした。
――六章 終――




