五章 真相
ドタンッ!
騒がしく開いた襖を、始は振り向いた。
そこには、襖に手を掛けた状態で血相を変えたヒバリが佇んでいた。
しばし、始はヒバリの顔を見つめていた。組織からの連絡で、予想だにしない事を聞いただろうとは彼の表情から容易に想像がついた。なかなか訊くに及ばなかったのは、恐かったからだ。何か、途方もない話がヒバリの口から飛び出す確信めいた予感が、始の脳裏に押し寄せていたのだ。
訊くしかない。そして、聞くしかない。
始は、自分を物語のヒーロだとは思わないしヒーロのように優れた力もないと解っているがヒバリから話を聞くのは自分の数少ない宿命だと、悟った。
「何があったか話してくれるか」
始は、自分でも驚くくらいに冷静な声を発していた。
予想していた応答と違ったのか、ヒバリが口を半開きにして驚いたが、始の冷静な態度に呼応して平静を取り戻した。
「解りました。何を聞いても、最後までしっかり聞いてください。……緊急事態です」
ヒバリが襖を閉じ、颯爽と籐の椅子に戻る。小テーブルを神妙な顔で見下ろし、始とは目を合せず口を開いた。
「千歳さんのご両親が、渡航先で亡くなりました」
「っ!」
息を吞んだ。
やはり、途方もない話だった。いったい、どういうことなのか。
間もなくヒバリが話を継ぐ。「ご両親は、現場の状態から他殺と断定されたそうです。組織の人間が目を離した隙に、何者かによって……」
「マジかよ……!」
今の今まで、叔母を疑っていた始だ。疑いを持った相手の死という意表を衝いた事実を突きつけられた上で疑ったことの罪悪感を背負うのは惨い現実だった。
「自分を、責めないことです」
と、ヒバリが諭す。「ボク達が責務を全うしていれば君が苦しむことなどなかったんです。これは、ボク達のせいなんですよ」
「……でも、オレがおばさんを疑ったのは事実だ。消えないよ」
罪悪感を決定づけたのは、叔母が亡くなり、某ではないと判ったからではない。たとえ叔母が某でも、始は親戚を疑った罪悪感を覚えてやまなかっただろう。
「……どうすればいい」
始は、ヒバリを窺う。「千歳は、まだこのことを知らないだろう。伝えるべきなのか……」
いずれは必ず耳にしなければならない。が、始は自分の口から語れそうにない。
「ヒバリ……」
「ええ」
ヒバリが呼掛けに応じた。「ボクが話しましょう。組織がご両親の死を確認したのなら、組織の一員であるボクがお知らせすべき立場にあります。――そうしろと、『上』から命ぜられもしましたしね」
「そうか……」
「上」とは、組織の上層部ということだろう。
千歳は人見知りをする。ヒバリに対してはその色が濃かったことを始は思い出す。
「オレも行く。千歳が警戒するからな」
始の申し出を受けて、ヒバリがうなづいた。
「よろしくお願いします――」
ヒバリが会釈し、顔を上げる。その表情は、微笑に限りなく近いが、「浮かない顔」とも形容できた。
「無理すんなよ」
と、始は声を掛け、立ち上がった。
「行こうぜ。オレは、お前の味方になってやるからさ……無理すんな」
「君という人は……」
切なげな微笑を浮かべるヒバリ。
……元気、出ないな。いつから「しみったれキャラ」に成り果てたんだ。
始は、さっさと部屋を出ていく。
「ほら来いよ、置いてくぞ」
「せかせかとしてはいけませんよ」
急かされたヒバリが、ようやく腰を上げて、始に続いて部屋を出た。
旅館を出て千歳宅へと続く山道を行く。夜は燈がないので、ヒバリ持参の懐中魔導灯の円い光で、道を照らして進む。
「そんなもんがあるなら、林の中で使ってくれればよかった」
「不用意ですみません。夜まで活動するとは思っていなかったので、旅館に置いたままだったんですよ」
「役に立たんな」
「申し開きようもありません」
会釈だけして、取り戻した微笑を崩さない奴である。
それはさておき、肌寒い。夏真盛りとは言え日が落ち闇を纏った山林はひんやりとしている。昼間に広がった雲で陰っていたせいもあるか。
「今日は、天気が悪すぎるな」
「昼から、曇りがちですからね」
「雨でも降ったら、たまらないぞ」
徐徐に湿り気を帯びた風が流れてきた。二人とも、「これは一雨くるな」と、思い、――その通りになった。
「土砂降りかよッ!」
スコールのような突然の激しい降雨だ。生身に打ちつけるとそこそこ痛い。
土が曝された山道に雨が降れば、自然に、山道の中央に茶色い小川ができる。崖側を歩くのは危険なので、壁に等しい左手の斜面側を歩く、いや、走った。歩いていては、千歳宅に着くまでに風邪を引くこと請け合いだ。
千歳宅に到着したのは、頭から足の先までずぶ濡れになったあとである。玄関の雨除けに急いで入り、扉をノックして千歳を呼び出してリビングに入れてもらうと、始とヒバリはタオルをもらって髪を拭った。濡れた服ではソファに座れないのでフローリングの床に座り込む。
「ありがとな、千歳」
始はソファ横の千歳に目を向け、礼を言った。――ヒバリが、しきりに部屋の中を見渡すので、始も眺めてみた。
「部屋、片づいたみたいだな」
昼には部屋が散らかっていると言われて、すぐさま外に出されてしまった。昼の玄関もそうだったが、昨日窓越しに観たときとは違い、埃っぽさがなくなっていた。
「うん。見ての通りスッカリだよ」
と、千歳が強張った微笑。馴染のないヒバリがいるので、気を遣っているのだろう。彼女は立ったままで応対している。
「あ、あの……お風呂、入る?」
「ああ、頼む。なんか、寒くなってきたよ」
「じゃあ、お湯、沸かしてくるね」
スタタッと、千歳が足早に浴室へ向かい、リビングに二人が残された。
「困りましたね」
と、言葉と裏腹に、ヒバリがクスクス笑って言う。「やはり、ボクは嫌われています」
「その頭のせいじゃないか」
雨に濡れたヒバリの髪は、寝癖以上のパーマネントウェーブぶりで、縺れに縺れた凧糸も真青なこんがらがりようである。知人でも、一発ではヒバリとは判らぬような変貌ぶりであろうから、馴染のない千歳は大層に驚いたはずだ。
「お前はもう少し髪に気を遣えよ」
「すみません。寝癖もそうなのですが、ボクは天然パーマなので濡れてしまうと、ね」
「ね」と、催促されても、始は天然パーマではないので理解できぬ。
浴室から廊下を抜けて、ジャーッと、水音が響いてしばらく待つが、千歳は戻らない。きっと、湯が浴槽に満るまで戻らないつもりである。
「ところで」
と、ヒバリが耳打ちした。「急ぎの話があります」
……顔近いって!
何かいい香りがするから腹が立つ。始はヒバリの頰を押し退けて、「なんだよ」と、耳を貸した。
押し退けられた顔を再び近づけて、ヒバリが、廊下を挟んでリビングに接した西の部屋を示した。始の記憶によれば、そこは千歳の両親の寝室である。
「千歳さんがいない今のうちに調べたいことがあります」
「(ったく顔ちけぇ。ってか、)おいおい、家捜しする気か」
始は再びヒバリを押し退けるが、それでも彼が耳打ちで事を伝えるのは、千歳に知られたくないからだろう。
「いったい、何を調べる気だ」
「彼女のご両親です」
「は」
何を言っているか解らない。
「とにかく、早急にお願いします」
俗に端正と形容されるような美顔が、擦り寄るようにさらなる接近を試みたので、始は慌ててうなづいた。
「わ、解ったよっ、だから寄りつくな気持ワルイっ!」
「感謝しますよ」
すっと立ち退くヒバリの美顔。始は心做しかドキドキしてしまって――、まさか同性愛に目覚めたのか。自分が知る自分が崩壊するような、カオスな気分に苛まれてしまった。
ヒバリがさっと立ち上がり、
「さっ、行きますよ」
雨水で張りつく服もなんのそので、さっさと叔父夫婦の寝室に向かう。浴室の千歳が来てしまわないかと始は冷や冷やしながらヒバリについていった。
始の叔父夫婦にして千歳の両親。生前彼らが使い、戻ってくるはずだった寝室の扉は襖。スライドさせると八畳和室。畳の芳しい香りが鼻孔をくすぐり昔懐かしい気持が蘇るようだ。と、落ちついてもいられない。
「早くしろよ」
「解っていますよ」
慣れた感じで部屋の中へ侵入するヒバリ。理由も解らず、家捜しの手引をしている始はビクビクして見守る。
ヒバリが懐中魔導灯で寝室内を照らし物色する間、始は入口で千歳が来ないか見張った。
計っていたのではないが、始の体内時計がおよそ十三秒を刻んだとき、室内のヒバリが声を漏らした。
「やはり……」
それと同時に、千歳が浴室からヒョコッと、顔だけ出した。
「あれ?ハジメ君、どうかしたの?」
そう言い、タイミング悪く廊下に出てきた。
……マズイっ!
廊下を寝室方面へ歩いてくる、と、言うよりは始のほうに歩いてくる千歳。
一巻の終りと始は覚悟を決めようとしたが、ヒバリが懐中魔導灯の光を消してどこぞに隠し、いけしゃあしゃあと寝室から出てきた。
「失礼しました。お手洗がどこか判らなかったもので、間違えてお邪魔してしまいました」
ビクッとして一歩後退る千歳にヒバリが会釈している。平素の微笑が鼻につくが、ごまかしは完璧だった。
「そうなんですか……。あ、あの、お手洗はあっちです……」
千歳が指差すほうへ、始はヒバリを押し出した。
「だ、だからいっただろ。勝手の知らない他人の家を一人で動き回るなっての」
と、フォロっぽいことを言いつつ。
「すみませんでした」
と、ニコニコ笑ってヒバリがお手洗に入っていった。
苦笑気味の千歳が寝室の襖を閉じた。
「見掛けによらず、そそっかしい人なんだね、ヒバリさんって」
「らしいな」
千歳が全く怪しんでいないので、始はホラ劇場を演ぜねばならない。
「なんでも自分一人でやれると思ってる勘違い男なんだよ、アイツは」
「そうなの?」
なぜか千歳が遠い目で始を視て、「ハジメ君、気づいてないんだ……」
「は。何がだ」
「ううん。なんでもないよ」
ニコリと笑って、千歳が踵を返し、「お湯、見てくるね」と、浴室へ戻った。
……危なかった。
ヒバリの不審な行動を気づかれずに済み、始はホッと胸を撫で下ろすと、リビングに引き返してフローリングに胡座を掻いた。――ヒバリは寝室で何かを見つけて「やはり」と漏らしていたが、いったい何を見つけたのか。そして何が「やはり」なのか。
……アイツの考えることなんざ全く判らないけど、気になるな。
叔父夫婦が亡くなったあとだ。彼らの寝室を探り、何かを見つけたヒバリの考察が、気にならないはずがない。
雨が一層激しさを増し、窓ガラスを打つ雨音が、耳障りなくらいになった。
室内は魔導灯があるので明るいが、外は真黒。一寸先は闇とはこのことか(?)
ふと、始はリビングの片隅の木製の小さな台に目を向けた。電話機を置いた台である。始は今の悪天候を、一昨日の台風とダブらせ、思い出す。
……あのときは千歳が電話をくれて、暑さを紛らわせたんだっけ。
クーラが故障中で蒸し暑い室内。千歳からの電話は風鈴の如く始に涼やかさを届けた。
「そういえば、電話機は魔導の力で動くんだっけ……」
ヒバリに二日同行しているので、魔導に少しばかり興味が湧かないでもなかった。この時代は、魔導の時代と言ってもいいほど日常に魔導が浸透している――。例えば、先の懐中魔導灯や電話機に始まり、部屋を照らす電灯、テレビ、パソコン、携帯端末、冷蔵庫や洗濯機や湯沸かし器、車、潜水艇まで、機械を合体させて魔法の力を制御し操る〈魔導〉の賜物である。過去にはロケットなんてものを動かして宇宙まで行ってしまったというからすごい。
……魔導依存度、高いな。
いつの時代からかそうなっていたらしい。少なくとも始が生まれた頃から電話や冷蔵庫は存在していた。魔力がない、いわゆる〈無魔力〉の人間が、魔力を持った人間とともに開発した技術が魔導なのだと、始は学校で習った気がする。自慢なのは、その開発者の一員に、始の両親がいたらしいことだ。が、いったい何をしたのかは記憶が定かでない。何せ、学力は並の並であり、ほどほどにサボっているからして。おまけに当時は魔導に興味がなかったので、両親から話を聞くこともなかった。
「ま、使えりゃ、なんでもいいか……」
無魔力の人間がなぜ魔導機器類を一般生活で使えるのかという疑問は、全くもって持たない始である。ただ単に、ソコの、魔導を駆使したらしい電話機のお蔭で一夏のひとときにおいて始は随分救われたという気持があるだけだ。
感慨に耽るように電話機を見ていると、ヒバリがなんの悪気もない顔で戻ってきた。
始の横に座るなり、
「想像通りでした」
と、言い出す。叔父夫婦の部屋で彼が漏らした言葉など始はとっくに忘れて、
「なんのことだ」
と、テキトーに訊き、後悔することになった。
「――千歳さんのご両親は偽者が存在していたのですよ」
「……は」
なんだって、と、首を傾げざるを得ない。
ヒバリがしたり顔。始に、三度の耳打ちで説明する。
「組織から連絡のあった彼女のご両親の死について、ボクは少し引っかかっていました」
「引っかかった、って」
「時を司る魔法を駆使する某が千歳さんの『母君』だとしたとき、母君が亡くなったとき某はどのような手段で、こちらと遠く離れた南国とを移動したのか……。時を司る魔法の中には、一瞬にして別の場所へ移動する空間転移の魔法もありますから、某はそれを使ってこちらと南国とを往き来してボク達を襲い、そのあと千歳さんのご両親も殺害したと考えるほかありません。順番は逆かも知れませんが」
「……う〜んと」
さっぱり解らない。始は、端的な説明を横目で要請した。
ヒバリが苦笑した。
「ボクはですね、――千歳さんの母君が某ならともかく、それ以外の人物が某とは思えないのですよ」
一寸の沈黙を介して、ヒバリが告げる。「南国へ向かった千歳さんのご両親は替玉、殺害されたのもこの替玉です。よって、ボクの考えが正しければ真の某はまだ存命している。そして、真の某とは……」
そこまで言って唐突に口を噤む。それからそっと耳打ちをやめて、ヒバリが背後へ目を向けた。――始もつられて背後を振り向く。
「いやはや、本当に現れるとは……」
ヒバリが微笑で立ち上がる。その立ち姿勢からは、緊迫した空気が多分に滲み出ていた。
始も、弾かれるように立ち上がった。一歩、ふらつきながら、なんとか地に足をつける。
「……おばさん」
目の前にいたのは、千歳の母であり、始の叔母であった。
今の今までそこには誰もいなかった。この家の中には始とヒバリと千歳の三人きりだった。だが今は、もう一人が、確かに存在した。
「久しぶりね、始君。半年ぶりくらいかしらね」
「おばさん、いつから……」
「そうね。さっき、いいえ、『今』かしら」
長い髪を指先で横へ払い、叔母が微笑む。いつもの、見守っているような優しい目差はそのままに、どこか狂って微笑んでいる風に見えた。
「……おばさんなのか」
「何が」
叔母が首を傾げる。――浴室から響いていた水音が止まった。千歳が浴槽に湯を溜め終えたのだろう。
ヒバリが窺う。
「あなたがこの家で時の魔法を使って、とある痕跡を風化させた。違いますか」
子どもにごねられて困ったように叔母が苦笑を浮かべた。
「わたしは何もしていないのよ。いっておくけれど本当よ。わたしはこの家の風化には関わっていない」
と、言ってから、「けれど」と、言葉を継いだ。「崖であなた達を魔物に襲わせたのはわたし。林で魔物を嗾けたのも、わたし」
どこか科学者のような言回しの叔母。
始は夢でも見ている心地がしてならなかったが、確かな現実だと判ってしまう。それは感覚的に、直感的に、摑んでしまうものだ。
「さて、そろそろ……終わらせましょうね」
叔母がその言葉を呟いた直後、始とヒバリを圧縮した空気が吹き飛ばした(!)
「うぁっ!」
「……すごい力です!」
次の瞬間には、壁に叩きつけられて背中を強打し、立てなくなる。と、思われたが、その程度では済まなかった。吹き飛ばされた二人は壁にはぶつからず、いつの間にか千歳宅を脱し、雨の降りしきる空中にその身を投げ出されていた。
「なっ……!」
始は下を見て、ゾッとした。
崖が見える。昼に調査し、魔物に襲われた崖が見える。しかし、崖の真上の空に投げ出されたのではなく林の直上、標高三〇〇メートル前後の空中に、突如として投げ出されてしまったのだ。
……ど、どういうことだ!さっぱり解らない!
気が動転して、体が動かず、落ちるままに宙を一直線に落下していく。
下方中央が窪んだ球体――雨――とともに落下している。雨のほうが速く落下しているのは空気抵抗が少ないからだろうかと科学的観察をする余裕もない。
「始、しっかりしてください!」
「っ!」
ヒバリの声だった。
始は体を捩ってヒバリの声が聞こえた方を辛うじて向いた。そこには、微笑のヒバリがいた。始と同じく、突然空中に投げ出されたにも拘らず、全く動じていない。――あと数秒で林に落下してしまうだろうに、泰然自若の体である。
「ボクに摑まってください」
手を差し伸べるヒバリ。彼には何か、助かる手立てがある。始は、藁にも縋る思いで手を伸ばした。
雨に濡れて摑み損ねそうになったヒバリの手を、始は摑んだ。意外にも小さく、お世辞にも逞しいとは言えないヒバリの手も、始の手を摑み返した。
すると、ヒバリの両腕の籠手から大量の水が溢れ出して巨大な翼の形となり、形に恥じぬ目覚ましい羽ばたきでホバリング、林への突入を回避した。無論、ヒバリの手を取った始も、空中を飛んでいる。
「た、助か、った……」
「君は、ボクの存在を忘れすぎですね。大体のことはなんとかしてあげられるのですよ」
白波に打ち寄せるような音を立てて水の翼が羽ばたく。じきに、林の開けた場所に二人は降り立った。豪雨の吹きつけた大地は、ぬかるんでいて靴に泥がくっつき重くなるが、空中でハラハラするよりずっといい。
「雨の日で、助かりました。ボクの力が最大限に発揮できますからね」
と、ヒバリが水の翼をどこへともなく消し去る。雨に濡れて、髪型が一層くねくねしてしまっているが、水も滴る美少年と形容すれば、ギリギリ差障りがないだろう。
「助かったよ」
と、始は会釈した。「今回ばかりは、命の危機を感じた……」
「ボクの仕事ですから、お礼など不要ですよ。それより……」
ヒバリが毅然と林の奥、闇の奥底を見据えた。
ヒバリの見据えた先から現れたのは、薄暮の如き闇を纏った始の叔母に外ならない。
「やっぱり、あのくらいでは死んではくれないのね……。命は、強いモノのはずだものね」
なぜか悲しげに、叔母がそう呟く。大雨と強風にさんざめく林を切り裂くような澄んだ声であった。
「君は、ボクの後ろに……」
ヒバリの誘導で、始は彼の後ろに退き、様子を見守る。口出ししたいのはやまやまだが、始にも判る。――叔母は、今度こそ始達を殺すつもりでいる。
「始君。あなたは今わたしに殺されるほうが、幸せよ」
と、叔母が言う。
「意味が解らない。なんでオレが死ななきゃならないんだ」
始はヒバリの端から叫んだ。「オレの最後を勝手に決めないでくれ!」
「あなたに取っては、それが幸せなのよ」
と、叔母が、ひどく寂しげに、意見を曲げなかった。
「聞き分けてちょうだい……」
「勝手に決めるな!お、オレは、死ぬ気なんかないんだ!」
ヒバリが前にいてくれるとは言え、始はいつでも逃げ出せるように、片脚を後ろに引いていないと安心できなかった。
「そう。……じゃあ」
と、叔母が右手を天に掲げた。
「逃げるといいわ。逃がす気はないけれどね」
豪雨のカーテンを割いて、ゴッと突風が吹く。
「うっ!」
腕を翳して突風を防ごうとした始を、身を煽るような風が襲うことはなかった。腕を下ろして恐る恐る様子を窺うと、ヒバリの籠手から溢れ出した水色の光が、雨粒を纏めあげて壁にし、突風を完全に遮断していた。
突風がやむと同時に雨粒の壁も弾けて消えた。
「お忘れいただかぬように」
ヒバリとは思えぬほどの、低い声だ。
「一般人を犯罪者の魔手から守るのは、大事な役目ですからね」
「邪魔はしないで。あなたは部外者よ」
何かの決意が漲る低い声。叔母の声音も、始の知る優しい声音ではなくなっていた。
「あなたが仕事でそうしているなら、今すぐ退きなさい。命の保証はできないわ」
叔母の脅し。ヒバリがむしろ前に出て退かない構えだ。
「保証など要りませんよ。いつも、命を賭す覚悟で任務を遂行しているのですからね」
雨が、わずかに強まる。
土を含んだ雨が撥ね上がり、視界が霞む。
「なら、容赦は要らないわね」
叔母が眇め見て、始とヒバリに、右掌を向けた。瞬間、豪雨の中だというのに目が眩むような真赤な炎が二人を襲う。
「炎ですか……」
先程と同じようにヒバリが雨粒の壁を形成して炎を遮断した。炎が消えた瞬間、籠手を翻し雨粒の壁を消して反撃に転じようとしたヒバリだが、そこで動きを止めた。
「……これが狙いでしたか」
灼熱の炎は雨粒を蒸気と化し、一帯を濃密な霧で包み込んでいた。鎮火はしたが、一メートル先も見通せない霧中では方角も摑めない。
「おばさん……」
「感傷に浸っている暇はありませんよ」
「解ってる……、けど」
始は未だに状況を信ぜられない。
「呆けていてはいけません」
ヒバリが注意喚起する傍から、何かが濃霧を駆け抜け、彼を捉えた。
「っ!」
魔物だ。ヒバリが、崖から落として滅したはずの猪型の魔物が、彼を押さえ込む。
「おばさんが操ってるのか……」
「疑う余地など、とうにないでしょう」
籠手で受け止めた魔物に、ヒバリが雨粒を固めてぶつける。魔物が怯んだ隙に圧縮した放水で両断、消滅させた手際は見事である。
「大丈夫か」
と、始は訊いた。
「ええ、大丈夫ですよ」
心配をさせまいと気丈に振る舞い、微笑もしてみせるヒバリだが、始は気づいてしまった。――ヒバリの左腕はダランと垂れている。折れてしまったのだろう。猪型の魔物の不意打ちをなんとか防いだが、碌に構えていなかったために防御しきれていなかったのだ。
「ヒバリ、無理するな。逃げる手だってあるだろう。こんな霧なんだ。おばさんだって、こっちは見えない」
「無茶をいいますね。君は忘れている、いいえ、気づいていて、いわなかったのでしょう」
見透かした目だ。
やはり、隠しようがない。始だってもう解っている。
――魔物は叔母が操っている。ヒバリに迷いなく魔物を体当りさせた時点で、叔母にはこちらの姿が見えている。
濃霧を掻き消すどころか、なおさら濃くするように雨が降り頻る。
「どうすりゃいいんだ……」
戦闘なんて経験のない始だ。この場を無事にやり過ごす手立てなど考えつくはずもない。
「恐らく逃げても無駄でしょう」
ヒバリもそう言った。ただ、彼には彼の考察がある。
「彼女は、時の魔法を操ります。ボク達が千歳さん宅から、空中に瞬間移動していたのも、時の魔法でしょう。だとすると、逃げても、またここへ戻されてしまうのが落ちですよ」
「お前でも手立てがないのか」
ヒバリに対する失望ではない。落胆でもない。ヒバリに全てを託すことしかできない自分の非力さを痛感して拳を固めるしかなく――、ただただ虚しさが席巻したのだ。
そんなときだ。
始の身体が、車両に轢かれたように回転して吹き飛んだ。そのまま、受け身も取れず地面に叩きつけられた。
……な、なんだ……!何が……。
ヒバリが駆け寄る。
「……か……!……りっ!」
ヒバリが呼びかけているが、始にはほとんど聞こえない。耳に、泥でも入り込んでしまったのか。始の視界は、左にぬかるんだ大地、右には黒ずんだ林、中央にヒバリが横倒しに立っている。
……オレが、倒れてるだけか。
意識は不思議とはっきりしているのに、体が動かない。生暖かい大地を全身に感じながら、ボ~ッとヒバリを視る。
……ダメだ。なんで、動けないんだ……。
始の疑問は、らしくもなく取り乱したヒバリの顔と、じきに左の視界に広がってきた黒緋で解決した。
……血、か。オレ、怪我して……。
はっきりしていた意識が、回線を断った電話のように途端に切れる。
……し、ぬ……――。
足許に倒れた始を、ヒバリは、無念を直隠しにして見つめる。
強烈な雨が、あるいはぬかるんだ大地が、彼を中心に広がる緋色を薄め、暈す。
「不意打ちとは……ボクの手落ちですね」
雨か、それとも、身から零れたものか、ヒバリの頰を、ひたすらに雫が伝う。
「あなたが気に病むことはないわ」
濃霧の中からぬっと姿を現す、始が「叔母」と呼んできた女性。
「わたしには勝てない。あなたには解っていたはずよ。世界魔導師団最高幹部〈水の魔導師〉飛鳥雲雀」
「……一般人一人、まともに救えないボクに、そんな肩書は無用ですよ」
ヒバリは微笑で、女を睨むような眼光を放った。
「聞かせてもらいましょうか。その気はありませんでしたが、ボクも、『彼』のようになるのでしょう……」
守れなかった始を見下ろし、ヒバリは苦笑を漏らした。
「冥土の土産にしますよ」
「そうね――」
女が、炎のようにぼんやり揺らめく光を、右手に込めた。次には、その光を紫の鋭い刃に変え、一閃――、ヒバリを斬り裂いた。
ドシャッ!
ぬかるみに倒れるヒバリ。始の真横に、上下反対に倒れる。泥混りの雨水が、幾重の弧を描いて盛大に撥ねた。
二人を見下ろして、女性が語る。
「わたしはあなたを巻き込むつもりなんてなかったわ。でも、邪魔をするなら誰であろうと、排除する。あなたが任務に忠実であるように、わたしは、わたしの信じたものの為に、わたしの心に忠実でいる。――あの子の為に、始君には亡くなってもらわなくては困るの……」
「そう、でしたか。なるほど……氷釈しましたよ……」
「そう……、あなたはそれだけの傷を負って、まだ喋ることができるのね――。昔のわたしだったらきっとモルモットにしたわ。今のわたしには、命の重みがいたく解る。実験の為のモルモットなんて、必要ないわ」
「……でしょうね」
か細い声で、ヒバリは女に応えた。
「貴女は、もしか……この為だけに生まれたのかも……知れません」
「そう。今のあなたと同じ……、運命は宿命に変わり、もう覆らないのよ……」
殺人鬼とは思えぬ、慈愛に満ちた目差を女性がヒバリに、――否、始にも、向けている。
「ごめんなさい……。わたしの自己満足に終わるかも知れない、でも、こうするほか手段がなかったのよ。ごめんね……」
女性が首を垂れた。「罰は、受けるわ」
土砂降りの中、雨に打たれる女性のさまは、あまりに凛としすぎて物悲しさすら漂った。
濃霧が薄れいく頃――。
女性が立ち去るのを、ヒバリは息絶える間際に、視認した。
――五章 終――




