九話 祈りを込めて
どのくらいの時間が経っただろうか。
いつの間にか両親が旅行から帰り、先ほどおみやげを渡しに俺の部屋へやってきた。電気も点けずゲームに没頭する俺を咎めていたようだったが、生返事を返すことしかできなかった。
時計を見ると、すでに深夜の一時を回っている。昼間から飲まず食わず、ろくにトイレも行っていない。パソコンの前を離れているときに、オークが出現したら――と考えると、一瞬たりとも気が抜けない。
迷いの森は一筋縄では行かず、間違った道順を辿ると、すぐにスタート地点まで戻されてしまう。しかし、何度もリトライすることにより、少しずつではあるが前に進んでいる実感もある。もうすぐだ。レティシアを国へと返してやれる。
さらに数時間後、両親も床に入ったようで家中が静まり返る。レティシアがいたときの、あの喧騒が嘘みたいだ。数日間だけではあったが、何年も一緒にいたかのような錯覚に陥る。再び、レティシアに会うことができるのか。そんな不安が頭をよぎってしまう。
……いけない。どうも集中力が切れているみたいだ。
だから気がつかなかったのかもしれない。
ただの苔がびっしりと生えた岩だと思っていたものが、その巨大な体を揺らすと、レティシアに襲い掛かってきた。気が付いた時にはレティシアは巨大な岩の手にからめとられていた。
岩……? いや、違う。
岩肌のように見えたのは、尋常じゃないくらいに盛り上がった筋肉だ。苔のようなものは体表の色だった。黒や濃茶の箇所もあるため、本当に苔なのかもしれないが……。
レティシアを掴んだまま立ち上がると、周りの枝葉をへし折り巨体を揺らした。
オークだった。
通常のオークの五倍以上はあるだろう。その巨体を揺らしただけで、背の低い木は音を立ててなぎ倒され、えぐれた地面からは土ぼこりが舞い散る。
「オオオオオォォオォォオオオオオオオオォォォオオォォォオオ!」
巨大オークの咆哮は森全体を揺らし。画面を通してみている俺の体までも恐怖に震えさせる。
「こんな、やつ……どうすればいいんだ……」
思わず声が漏れる。
レティシアも抵抗を試みようとしているが、巨大オークの手に突き刺した剣は厚い筋肉に跳ね返される。少しは感触があったのか。巨大オークはレティシアを握ったほうの手を木に叩きつけた。その衝撃で、レティシアの手からは剣が滑り落ち地面に突き刺さった。
「レティシアっ!」
思わず、コントローラを放り出しモニターにかじりついてしまう。
ヒットポイントバーは無残にも消え去り、レティシアも巨大オークの手の中で全く動かない。
せっかくここまで来たのに……。
「くっ。殺せ!」
レティシアの言葉に体の力が抜ける。今になって、何時間もコントローラを握っていた手が、じんじんと痛み出す。ぐったりとしたレティシアを見つめていると、
・祈る
・暴れる
・屈する
これは……。
新たなコマンドが画面に出現していた。
これは、オークに負けたときに出るコマンドだ。
最初にゲームをプレイしたあの時は、結局どれを選んでも現状を打開することはできなかった。
どうすれば……。
しかし、このコマンドがわざわざ用意されていることを考えれば、何か突破口があるのかもしれない。
もうこれしか、頼るすべがない。
俺は『祈る』のコマンドを選択した。
『父上……母上……レティシアに力をお貸しください。この醜悪なオークを滅する力を!』
あの時と変わらないセリフだ。レティシアの体が淡い光に包まれたと同時に、ほんの少しだけヒットポイントが回復した
……こんなものは焼け石に水だ。その気になれば、この巨大オークは簡単にレティシアを葬り去ることができるだろう。
俺は次の選択肢『暴れる』を選択した。
同じだ……。手の中のレティシアは暴れもがくが、巨大オークは全く意に介していない。
やはりだめなのか。
最後に残るのは「屈する」のみ。おそらく、これを選択すれば、レティシアは巨大オークに凌辱されてしまうだろう。ゲームのシステム上、死んでしまうことはないだろうが、絶対に選ぶことはできない。
強くなったとはいえ、エロゲであるこのゲームを陵辱なしではクリアすることができないのか。
――目を逸らしてくださいね。
レティシアが元の世界に帰る前に言っていた言葉だ。あの時はいまいち意味が理解できなかったが、レティシアはこうなることを見越していた。俺に陵辱シーンを見られないために。
巨大オークはまるで人形遊びでもするかのように、レティシアのプレートメイルを一枚一枚、丁寧に脱がしていく。
最後の一枚をはぎとられ、レティシアの身を守るものは薄い麻のシャツのようなもの一枚となった。
「やめろっ! やめてくれ!」
声は届いていないと分かってはいるが、叫ばずにはいられなかった。モニターに食らいつく。だが、ただの画面だ。俺にはどうすることもできない。
ただ、コマンドの暴れるだけを選択し続ける。くそっ! くそっ!
レティシアの体力も底をつきかけている。定まらない視線が俺を見たような気がした。
「頼む。お願いだ。やめてくれ」
祈る。
祈っても無駄だと言うことは分かっている。つらい。目を背けてしまおうか? このまま、パソコンの電源を切ってしまえば、レティシアの陵辱は見なくてすむ。そして、ゲーム自体をアンインストールして忘れてしまえばいいのだ。俺は強制終了をしようと、パソコンの電源に手を伸ばす。
……そんなことできる訳ない。
俺はいったい何を考えているんだ。
レティシアは俺にとって、すでに何者にも代え難い存在だ。忘れる? 忘れられるものか。
異世界にいるレティシアに対し、俺のできることはほとんどない。だったら、祈る。
「レティシアっ!」
叫ぶ。
無様でもいい、みっともなくたって、俺にはこれしかできない。
俺はコマンドの「祈る」を選択する。
『父上……母上……レティシアに、力をお貸し、ください』
先ほど祈ったときと同じ言葉をレティシアはつぶやいた。
それでも、俺は祈る。
祈る、の効果による回復はもうない。レティシアは何もつぶやかなくなり、コマンドを選択しても反応がない。
俺はモニターのレティシアに触れた。ぐったりと巨大オークの手の中でうなだれているレティシアの体が、一瞬震えた気がした。
レティシア……俺は、何度目かの祈るを選択した。
「……キ、様」
今までとは違う反応だった。
「ナオ、キ様」
確かに俺の名を呼んだ。
レティシアが辛そうにうなだれた頭を持ち上げる。俺が手を触れている場所を見た気がした。
「レティシアっ!」
もう一度、祈りを込める。
「ナオキ様っ!」
レティシアの絶叫に近い叫びが、森にこだました。巨大オークの周りにつむじ風が舞い上がったと思うと、鋭利な刃となり巨大オークに迫る。鬱陶しい虫を払うようにオークは腕を振り回す。刃となった風は巨大オークの皮膚を切り裂く。鮮血が飛び散った。巨大オークがひるんだのを見逃さず、レティシアは両手を振り上げた。巨大オークの腕めがけ手を振り下ろすと、風の刃が腕を切り裂いた。巨大オークの腕は力をなくし、だらりと垂れ下がった。
巨大オークの腕から逃れると、レティシアは地面に突き刺さった剣を手に取る。
「ウゴオォオオォォオォォオオォオオオオ!」
森全体が吹き飛んでしまうかの絶叫。それをものともせず、レティシアは草原を散歩するような足取りでオークに近づいてゆく。つむじ風がレティシアの周りで巻き起こると、陽光を浴びた黄金色の髪の毛が、天を貫かんばかりに逆立つ。その姿を見た巨大オークはひるみ、後ずさる。そのすきを見逃さず、レティシアは大地をえぐる程の脚力で巨大オーク目掛け体を飛翔させた。
レティシアは自身を一つの剣に見立て、巨大オークに向かって体当たりを仕掛ける。恐れおののいた巨大なオークは、気の毒になるくらい体を小さくさせる。それを物ともせず、レティシアは巨大オークの体を貫いた。
あまりの衝撃のためか、付近の木はその身を大きくのけぞらせ、葉は上空へと舞い上がる。レティシアの立っている付近だけ、木はなぎ倒され、上空にはぽっかりと青い空が見えていた。その穴から差し込む太陽の光がレティシアを照らす。凛としてたたずむレティシアはまるで神話の中に出てくる英雄のようにも見えた。
巨大オークは体をのけぞらせたまま、断末魔をあげることもなく、指先から光る粒子となり風にさらわれていった。巨大オークの体が跡形もなく消え去った後、迷いの森が歪み景色が変わる。幻惑が解けていく。レティシアの目の前には森の外へと続く道がまっすぐに伸びていた。
レティシアは空を仰いだ。数分、空を見上げたままだったが、手の甲で目を拭うと、一度こちらを振りかえる。口が少しだけ動き、何かを言っているようにも見えたが、俺の耳にはその声は届かない。
颯爽と森の外へと歩いていくレティシアの背中を見ていると、嬉しいような、悲しいような、そんな気持ちが胸を埋め尽くした。
レティシアの去った森は静寂に包まれ、暖かそうな陽の光だけが俺の目に映っていた。




