八話 ピュアエンドに向けて
「レティシア。大丈夫か?」
レティシアの頬を軽くぺちぺちと叩く。ん……ぅ、とレティシアは悩ましく体をよじると薄く目を開ける。俺の顔を見ると顔が火照りだし、顔全体が朱に染まっていく。
「りょ、凌辱……」
レティシアは小さな手で顔を覆うと、ひ弱な声でそう漏らした。
「もういいんだ。ティアはレティシアの中に戻っていったよ」
「え?」
レティシアは体を起こすと、自分の体をぺたぺたと触りだした。ふと、胸のあたりを触れたとき、レティシアは穏やかに目を閉じた。ティアの存在を感じているのだろうか。
「ティアは私のことを嫌いにはなっていないでしょうか?」
「そんなことはないよ。レティシアの気持ちは伝わってるから」
「はい……ありがとうございます。ナオキ様」
レティシアが心を落ち着けるように目を閉じた。俺も安心してレティシアの顔を見つめたとき、視界の隅にもやのような黒い渦が見えた。それは、俺のパソコンのモニターの中心に発生していた。
レティシアも雰囲気を察したのか、俺の視線の先を追う。黒い渦を見たときに、驚いたように自分の手のひらを見つめた。
「力が……戻ってる?」
レティシアがこの世界に来た時に力が失われている、と言っていたのを思い出す。レティシアとティアに分かれたことにより、ゲートを通るための力まで失っていたと言うことだったのか。
「元の世界に戻れる」
レティシアが感情のない声でそう漏らした。
俺の胸が、ずきりと痛む。
レティシアがこのゲートをくぐった後、再びこっちの世界へ戻ってこられる保証はどこにもない。くぐった瞬間、ゲートが閉じてしまうかもしれない。そんな考えが脳内を駆け巡る。それはレティシアも同じようだ。不安そうな表情で、俺の顔とゲートを交互に見ていた。
「レティシア! これで帰れる。良かったじゃないか!」
俺は感情を外に出さず、できるだけ明るい声で言った。
レティシアも俺の隠したはずの感情に気が付いたようだ。口の端をひくつかせ、目には涙がたまる。不安を胸の奥に押し込めるように、俺に向けて偽りの笑顔を見せる。
レティシアも分かっている。このゲートは遠距離用に人間を運ぶためのものだ。本来、異世界に転移するためのゲートではない。
「ナオキ様……私」
俺はレティシアの次の言葉を手で制する。
「きっとまた会える」
それはティアが俺に言った言葉だ。根拠はないけれど、そう言うべきだと思った。俺はレティシアが悲しむのを見て、絶対に元の世界に返してやりたいと思った。レティシアも命を懸け祖国を守ろうと、オークの闊歩する森へ入っていったのだ。お互いの感情で目的を見失ってはいけない。
レティシアは俺の手を取ると自分の頬に当てた。安心したように、ゆっくりと息を吐いた後――俺の唇を奪う。
ほんの数秒のことだったと思う。でも、俺にはレティシアのぬくもりが永遠のように感じられた。
「ナオキ様」
レティシアがそっと耳打ちする。
「この続きは、またの機会に」
そう言うと、レティシアは床に転がったプレートメイルを身に着ける。その後、俺から離れゲートに近づいてゆく。黒い渦に手を触れると、モニターの枠を飛び越えゲートが両手を広げたくらいの大きさに膨れ上がっていった。
「ナオキ様。後はお願いします」
レティシアは元の世界へのゲートを見つめながら、体を震わせている。
「もし、私が国に帰れないと悟ったときは、遠慮なく目を逸らしてくださいね」
「レティシア? 何を」
レティシアの体は喜びに打ち震えているわけではなかった。肩の震えは背中全体へと伝わり、こぶしは砕かれんばかりに握られている。
もう一度振り返ったレティシアの表情は――花が咲いたような笑顔だった。
「それでは、また会う日まで」
一瞬だった。俺が言葉の真意を確かめる間もなく、レティシアはゲートへと吸い込まれていった。ゲートはレティシアを飲み込むと、すぐに小さくなっていき、消えていった。
モニターにはゲーム画面。つまりオークが闊歩する迷いの森の美しい風景だけが映っていた。すると、何もない空間に突如、黒い渦が出現した。次第に大きくなっていくと、一つの人影を吐き出した。黄金色の美しい髪の毛。レティシアだ。
「レティシアっ!」
つい、モニターに向けてレティシアの名を呼んでしまうが、本人に声は届いていないようだった。きょろきょろと周りを見渡しているのは、本当に自分の世界へと帰ってこれたのかが気になっているのだろう。
「レティシア……本当に良かった。これで――」
俺の胸に膨らんだ安心が、一瞬でどす黒いものに変わっていく。
――俺は何か、勘違いをしているんじゃないのか?
俺はレティシアがゲートを通り、元の世界に帰ることができればすべてが終わると思っていた。でも、それは勘違いだった。
レティシアはまだ、迷いの森を抜けていない。
俺の背筋に悪寒が走る。レティシアにとっての目的は元の世界に帰ることではない。
ふと、周りを見渡していたレティシアの表情が緊張したものに変わる。青々とした葉を付けた巨大の木の辺りに視線が固定されていた。
「……ン、ゴブオォ」
俺の体が凍り付いたように固まる。絶対に出会いたくなかった存在。
オークだ。
汚らしくよだれを垂らしたオークはレティシアを発見すると、にやりと顔をゆがめる。レティシアはオークに体を向けたまま動かない。
そうだ。俺がやらなければいけない。
こちらの世界にとって、モニターの中はゲームの世界なんだ。
俺は汗に濡れた手でコントローラをつかむ。初めてオークと出会ったときは、どうしようもできなかった。しかし、もう負けるわけにはいかない。
覚悟を決めて、コントローラを握り直したとき――俺は信じられない光景を見た。
大木の陰からもう二体のオークが地面を踏み鳴らし、レティシアの前に現れた。計三体。レティシアの二倍以上もあるオークは、獲物を見つけるといきり立ち、持っているこん棒を振り回したりと落ち着かない。
どうする? どうする? 俺の頭は正常に働かない。
その時、一体のオークが、その巨体には似合わぬ俊敏さでレティシアに詰め寄る。こん棒を頭上に振り上げると、レティシアに向け振り下ろした。防御をする間もなく、レティシアはオークの一撃を受けた。地面に叩きつけられたレティシアはうつ伏せになりピクリとも動かない。
目の前が真っ暗になる。
俺は何をやっているんだ!
あまりのふがいなさに、涙が頬を伝う。今、レティシアを助けられるのは自分しかいないのに……!
涙も拭かぬまま、モニターを見ると、すでにレティシアが立ち上がり臆することなくオークを睨んでいた。
俺も力の限りオークを睨みつけ、今度こそオークと対峙する。
三匹のオークが、森が震えるほどの咆哮を上げたかと思うと、どたどたと統率の取れていない動きでレティシアに迫る。
それは、一瞬だった。
俺が無我夢中でコントローラを操作したと思ったとき、レティシアの剣は光を帯びる。次の瞬間には、三体のオークのそれぞれの体は細切れに変わる。
レティシアが剣をさやに収めた頃には、オークたちは細かな粒子となり四散していった。
このレティシアの強さは?
ティアを受け入れたことによるレベルアップだろうか? それとも……。
ヒットポイントバーも先ほどのオークの攻撃では、一割も削られてはいなかった。これならいけるかもしれない。
陵辱なしの『ピュアエンド』
部屋の暑さも、額を流れる汗も気にならない。ただ、俺はレティシアだけを見つめていた。




