5.次は絶対ぶん殴る
「……何なんだよ、あいつ」
沈黙が落ちた。シルフィアが息を整えながら言う。
「分からない……だが」
視線を上げ、カイルが答える。
「今のは、明らかに異常だ」
『うむ』
魔剣エクリプスが低く唸る。
『あの気配……只者ではない』
『面白いでありんすな』
聖剣セラフィクスがくすりと笑う。
『久しぶりに、骨のある相手でありんす』
「笑ってる場合かよ……」
カイルはこめかみを押さえた。シルフィアは、しばらく黙っていた。そして。
「……いいねえ」ぽつりと呟く。
「は?」
「強いやつだ」
ニヤッと笑う。
「ああいうの、嫌いじゃねえ」
「……君なあ」
カイルは呆れた、だがその横顔を見て、言葉を飲み込む。シルフィアの目は、まっすぐだった。恐怖じゃない。逃げた悔しさと――次は勝つという確信。
「……帰るぞ」
カイルが言う。
「ここにいても、もう何も分からない」
「だな」
シルフィアはあっさり頷いた。そして歩き出す。
「次は絶対ぶん殴る」
『だから我を棍棒扱いするなァ!!』
いつものやり取り、だが、どこか空気が違っていた。確かに何かが動き出している。その予感だけが、残った。
◆
夜。シルフィアは一人、外に出ていた。帝都の外れ。静かな場所。風が吹いている。遠くで、街の灯りが揺れている。
結局、あの後、シルフィアはカイルの屋敷に転がり込んだ。もちろんカイルは嫌がった。だが、それ以上にシルフィアの身を案じていた。
カイルはカイルで帝国に滅ぼされたベールウェストの王女に、ある種のシンパシーを感じているらしい。カイルの祖国、ジグムント公国は国名こそ残っているが、国としての実体はないに等しい。
屋敷こそ貴族街にあるが、その内情は質素だ。通いのメイドを三人雇っているだけで、カイルと聖剣セラフィクスの二人暮らし(?)だ。カイルからは、絶対外に出るなと言われていたが、息がつまる。
ベールウェストでもよく城外へ遊びに出ていた。今ごろベールウェストの民はどうしているのだろうか。今さら案じてみてもどうすることもできないが。
「……なあ、エッくん」
『エッくんと呼ぶな』
魔剣エクリプスの返事はにべもないが、シルフィアは気にしない。王女様は鷹揚なのだ。
「さっきのやつ」
空を見上げる。星が瞬いている。今宵は三日月が美しい。風のせいで雲の動きが早い。
「強かったな」
『うむ』
あの傲慢な魔剣が珍しく、素直に認めた。
『だが、勝てぬ相手ではない』
「だよな」
シルフィアは笑う、そして、拳を握る。
「まずは――」
目を閉じる。脳裏に浮かぶのは――
燃える城。崩れる壁。血に染まる地面。
「……ベールウェストだ」
小さく呟く。
「あたしの国だ」
失った場所、だが、まだ終わってはいない。
「取り戻す」
静かな声。だが、強い。
「全部、取り戻すんだ」
目を開く。その先にあるのは――ただ一つ。
「そのために」
シルフィアは笑った。
「大帝とマーリングをぶっ飛ばす」
夜風が吹いた。その誓いを、誰も聞いていない。
だが、確かに、世界はそれを受け取った。
◆
シルトベルト帝国宮廷。玉座の間は、闇が澱み固まったかのように静まり返っていた。広い。ただ、広い。
人の気配はない。あるのは、重く沈んだ空気だけ。玉座に座る男――ビスマークは、動かない。肘をつき、指を組み、目を伏せている。
難しい顔だった。考えている。世界のことか。それとも――
「遅かったな。……いや、予定通りか」
ぽつりと、呟く。その瞬間、音もなく。玉座の間の一角が、歪んだ。影が、滲むように現れる。人の形。だが、気配が薄い。そこに「いる」のに、存在が曖昧だ。
ビスマークは視線だけを向けた。
「で、どうであった」
短い問い。影は、答える。声はない。だが、何かが伝わる。言葉ではない。情報だけが、直接流れ込むような感覚。ビスマークの眉が、わずかに動いた。
「……そうか」
しばらくの間が両者のあいだを通り過ぎる。
「やはり適合者か」
低く、確信めいた声。影はさらに何かを伝える。今度は、ほんのわずかに空気が軋んだ。ビスマークは、目を細める。
「ほう……ベールウェストの残り火か。よくぞ、ここまで燃え残ったものだ。面白い、怒りは悪くない。管理しやすいからな」
興味。それと、ほんのわずかな愉悦。だが、すぐに消える。感情は、表に出さない。
「かまわぬ、ベールウェストの王女はそのまま泳がせておけ」
断定。迷いはない、しかし、影が抗議の声を上げる。
「そうか、適合者の体が欲しいか。いいだろう。好きにするがいい」
そして。
「約束の時は近い。この世界はな、壊れるようにできている。運命ならば受け入れるしかあるまい」
その言葉だけが、やけに重く響いた。影は、応じる。そして――消えた。
まるで最初から、何もなかったかのように。静寂が戻る。再び、広すぎる空間。ビスマークは、しばらく動かなかった。指を組んだまま、考え込む。
「……適合者、か。ベールウェストの姫よ。存分にあらがって見せるがいい」
小さく、呟く。その声には、わずかな含みがあった。期待か。それとも、確認か。やがて、ふと、視線を横に向ける。そこにあったのは――一枚の肖像画。
少女の絵。まだ幼い。だが、どこか気の強そうな目をしている。ビスマークは、しばしそれを見つめた。何も言わない。ただ、見る。やがて。ぽつりと。
「……そうか、リリスの誕生日が近かったな」
その声は、先ほどまでとは違っていた。ほんのわずかに、柔らかい。だが――次の瞬間には、消える。表情が戻る。無機質な、帝王の顔に。
「……父親か……何をいまさら」
ビスマークは自嘲めいた呟きを漏らす。沈黙。長い、長い沈黙。やがて、ゆっくりと目を閉じる。
玉座の間は、何も変わらない。光は差し込まない。音もない。ただ――闇だけが、そこにあった。
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