エピソード2 「神々の街エレティス」
エレティス――神々の街。
この世界について俺が最初に学んだことは。
一見かなり近そうに見える都市まで歩くという行為は、とんでもなく巧妙な視覚詐欺になり得る、ということだった。
「あとどれくらい?」
「一時間だ」
隣を見る。
「三十分前にも一時間って言ってなかった?」
「約一時間と言ったんだ」
「便利な言葉だな。“約”」
俺が助けた男は、隣で太い枝を杖代わりにしながら歩いていた。
名前はダリウス・ヘイル。
三十四歳。
行商人。
既婚。
子供が二人。
そしてどうやら。
俺の質問に一つ答えるたび、新しい疑問を五つ増やすという特殊能力の持ち主らしい。
幸い、脚の傷は見た目ほど深刻ではなかった。
グールの爪で肉を裂かれてはいたものの、重要な血管までは届いていなかったらしい。
ダリウスの荷物には軟膏と包帯。
それから、小さな青い液体の入った瓶があった。
そう。
ポーションだ。
HPが五十回復するのか聞きたくなる衝動を、俺は必死に抑えた。
異世界へ来て最初の数時間くらいは、完全な馬鹿だと思われたくない。
……まだ。
「それで……」
地平線の向こうで、ゆっくり大きくなっていく都市を見る。
「エレティス」
「エレティスだ」
「独立都市」
「そうだ」
「ダンジョンを中心に建てられた」
「正確には、その真上だな」
「神々が住んでる」
ダリウスが頷いた。
「大勢な」
俺は彼を見る。
「本物の神?」
「お前の言う“本物”が何を意味するか分からんが」
「ほら。不死身で、強くて、世界を作ったり、雷を落としたり、奇跡を起こしたり、神罰を下したりするタイプ」
ダリウスが眉を寄せた。
「そのうち幾つかならできる神もいる」
「全然安心できない答えだな」
「ただし、人の世界で神の力を完全に使うことは禁止されている」
そこで俺は顔を向けた。
「誰に?」
「他の神々に」
「……ああ」
数秒考える。
「なるほど。神が神を規制してるのか」
「そんなに変か?」
「俺の世界じゃ、政府が別の政府に馬鹿なことをさせないために政府が必要だった」
ダリウスが横目で俺を見る。
「未だに、お前が“俺の世界”と言うたびに冗談なのか本気なのか分からん」
「俺も、どこまで話していいのかまだ分かってない」
「グールが何かも知らずに森の中へ突然現れて、何もないところから大鎌を出して、その後で“ここは何という国だ”と聞いてきたんだぞ」
「そう言われると確かに怪しいな」
「かなりな」
「記憶喪失ってことにしてもいいけど」
「お前、神とは何かまで聞いたじゃないか」
「それだとかなり壮大な記憶喪失になるな」
ダリウスがため息をつく。
俺は笑った。
この男。
結構気に入ってきた。
道中はほとんどずっと話していた。
死んだことは言っていない。
謎のウィンドウに「GRIM REAPER」と認定されたことも。
この世界でそれが、
『伝説の選ばれし者』
を意味するのか。
それとも、
『卵を産む前に焼き殺せ』
を意味するのか分からない以上。
いくつかの情報は胸の内にしまっておいた方がいい。
ただ、ダリウスは非常に役に立った。
彼のおかげで、すでにいくつかのことは分かっている。
今いる大陸の名前はアステリア。
エレティスは周辺にあるどの大国にも正式には属していない。
それが可能なのは、何十柱もの神々が住んでいる都市へ攻め込むという行為が、ダリウス曰く。
『自分の国をクレーターに変える極めて独創的な方法』
だかららしい。
他にも。
人間。
エルフ。
ドワーフ。
亜人。
魔獣。
魔物。
魔法使い。
教会。
傭兵。
そして。
“神族”と呼ばれる組織が存在する。
それについては、まだあまり詳しく聞いていなかった。
興味がないからではない。
むしろ逆。
ただ。
前方にはすでに旅人や馬車、商隊が見え始めていた。
だったら。
まず自分の目で見てみたい。
森の小道は。
やがて巨大な石畳の街道へ合流した。
俺は足を止める。
「……すげえ」
荷車が両方向へ行き交っている。
馬。
いや。
脚に青い鱗が生えている、馬によく似た生き物。
巨大な牙を運ぶ荷車。
小型のトカゲのような生き物を入れた檻を積んだ馬車。
武装した男たちが、乾いた血に覆われた荷車の横を歩いている。
その少し先で。
俺は。
「……あいつ、猫耳生えてない?」
ダリウスが視線を追う。
「ラシャ族か?」
「ラシャって誰」
「猫系の亜人だ」
「じゃあやっぱり猫耳じゃん」
その男が俺たちの横を通り過ぎる。
背が高い。
筋肉質。
自分の身体とほとんど同じくらい巨大な剣を背負っている。
髪の間から黒い耳が二つ出ていた。
尻尾もある。
俺が見ていることに気づいた。
「何か文句でもあるか?」
「ない」
親指を立てる。
「いい耳だな」
ダリウスが顔を覆った。
猫耳の男は。
三秒ほど俺を見る。
そして豪快に笑った。
「観光客か」
そのまま歩いていった。
「思ったより上手くいったな」
「亜人をじろじろ見るのはやめろ」
「文化に適応しようとしてるんだ」
「耳を指差さなくても適応はできる」
「覚えておく」
歩き続ける。
エレティスへ近づくほど。
街道そのものが人の川のようになっていった。
冒険者だらけだった。
聞かなくても分かる。
鎧。
剣。
槍。
杖。
弓。
用途の分からない装備。
怪我をしている者。
全身埃まみれで帰ってくる者。
見たこともない素材でぱんぱんになった巨大なバッグを背負う者。
六本脚のワニのような生物を何人かで運んでいる一団が通り過ぎた。
別のグループは三メートル近い巨大な角を運んでいる。
「それ全部ダンジョンから?」
ダリウスが頷く。
「大部分はな」
もう一度エレティスを見る。
城壁はすでに視界のほとんどを埋めるほど巨大になっていた。
「じゃあ、相当デカいダンジョンなんだな」
「どれほど大きいかは誰も知らん」
「そういう台詞って大体、“めちゃくちゃデカい”って意味だよな」
「タルタロスの詳細地図だけで建物が丸ごと必要になる」
俺の足が半歩止まった。
「……建物?」
「それでも探索済みの範囲だけだ」
「…………」
口元が上がる。
面白くなってきた。
◇◆◇
エレティスの城壁は。
近くで見るとさらに圧倒的だった。
白い石。
高さは三十メートルを軽く超えている。
一定間隔で配置された塔。
いくつかの区画には、色とりどりの旗が翻っていた。
そして正門は。
複数の商隊が同時に通れるほど巨大。
門のアーチ上部には文字が刻まれていた。
知らない文字だ。
……なのに。
意識を集中させた瞬間。
意味が分かった。
――ERETHIS。
瞬きをする。
「ん?」
もう一度見る。
文字そのものは相変わらず見覚えがない。
なのに。
意味だけが、最初から読めたかのように頭へ入ってくる。
「便利だな」
「何が?」
「何でもない」
異世界転移の特典の一つだろうか。
誰がこれを用意したのか知らないが。
言語パックまで付属していることには感謝しておこう。
異世界冒険の最初の半年を文法学習に費やす展開は、効率が悪すぎる。
俺たちは列の一つへ並んだ。
衛兵が身分証を確認している。
一部の冒険者は金属製のプレートを見せていた。
商人たちは小さな税を払っている。
俺たちの順番が来ると。
ダリウスは一枚のカードを提示した。
衛兵が包帯を巻いた脚を見る。
「何があった?」
「西の森でグールに襲われた」
衛兵が眉を寄せる。
「そんな近くで?」
「旧区画から追ってきたらしい。そこの若者に助けてもらった」
衛兵が俺を見る。
俺は片手を上げる。
「どうも」
「身分証」
「ないです」
「神族への登録は?」
「それも」
「冒険者証」
「残念ながら、今のところ同じ流れが続いてます」
衛兵の眉間の皺がさらに深くなる。
ダリウスが口を挟んだ。
「辺境の隔離された地域から来たらしい」
俺はダリウスを見る。
ダリウスも俺を見る。
ありがとう。
衛兵は数秒間、俺を観察した。
「名前」
「レン・クロガネ」
「職業」
「現在、無職」
衛兵が紙から顔を上げる。
「入城目的」
考える。
「ホームレスになるのを避けるため?」
ダリウスがまた顔を覆った。
衛兵が俺を見る。
俺も見る。
やがて。
何かを書き込んだ。
「仮登録。期限は三日だ。期限が切れる前に、ギルド、認可された神族、もしくは市民管理局で正式登録しろ」
小さな木札を渡される。
「失くすなよ」
受け取る。
「失くしたら?」
「罰金」
「絶対失くしません」
次元が変わっても。
どうやら普遍的なものは存在するらしい。
金は。
必ず逃げ道を見つける。
門をくぐる。
そして。
俺は。
立ち止まった。
ダリウスは数歩進んでから気づいた。
「レン?」
すぐには答えられなかった。
なぜなら。
初めて。
本当の意味でエレティスを見たから。
「…………」
「大きいと言っただろ」
「“大きい”で済ませたの、かなり犯罪的な説明だったぞ」
大通りは。
普通の街なら大きな幹線道路と呼ばれるほど広かった。
三階。
四階。
五階。
石造りの建物が両側へ果てしなく続いている。
店先から看板が吊り下がっている。
店。
酒場。
工房。
武器屋。
宿屋。
大量の人々の間を馬車が走る。
数えるのを諦めるほど多くの種族がいた。
長く尖った耳を持つ女が、短剣の値段についてドワーフと喧嘩している。
小さな角が生えた子供が、人間の少年を追いかけている。
全身を毛で覆われた巨大な男二人が、大きな樽を運んでいた。
狐の尻尾を生やした少女が果物を売っている。
「エルフ」
控えめに指差す。
「そうだ」
「ドワーフ」
「そうだ」
「狐娘」
「そうだ」
「これに感動しなくなるまで、結構かかりそうだな」
ダリウスが笑う。
「そのうち慣れる」
慣れたいかどうかは。
正直分からなかった。
感動できるというのは。
それ自体が特別なことだ。
歩き続ける。
二十メートル進むごとに匂いが変わった。
焼き立てのパン。
肉。
熱した金属。
香辛料。
香水。
動物。
そして時々。
どう考えても死んでから日数が経ちすぎた魔物由来の臭い。
音もすごい。
とにかくうるさい。
商人の呼び込み。
鍛冶職人が金属を打つ音。
冒険者の口論。
馬車。
音楽。
そして。
ポーションを売る女の声。
「回復用下級ポーション! 一個百二十ヴァリスだよ!」
「ヴァリスって通貨?」
ダリウスが頷く。
「銅貨、銀貨、金貨、それと鋳造ヴァリスだ。日常の取引はほとんどヴァリスだな」
「飯はいくら?」
「何を食べたい?」
「最初に俺を食べようとしないやつ」
「五から二十くらいだ」
ポケットへ手を入れる。
スマホ。
元の世界の硬貨。
レシート。
ガム二つ。
「……これは価値ないよな」
ダリウスが硬貨を見る。
「綺麗な細工だな」
「金だったんだけど」
「銀か?」
「違う」
「なら多分、価値はないな」
硬貨をしまう。
「最高」
異世界へ来た。
超常的な力も手に入れた。
そして現在の総資産は。
ガム二個程度。
優先順位は決まった。
金が必要だ。
◇◆◇
さらに街の奥へ進んでいくと。
一つのことが。
どんどんはっきりしてきた。
この街の何もかもが。
冒険者と関係している。
地図だけを専門に売る店。
魔物の腺を買い取っている錬金術師。
骨や結晶で補強された武器を並べる鍛冶屋。
毛皮の買取価格を叫ぶ商人。
巨大なオークション会場の前には列までできている。
そして。
小さな青い石を何人もの人間が秤で量っている店の前を通った。
「あれは?」
「魔石だ」
「魔物から?」
「そうだ」
ダリウスが煙突の付いた建物を指差す。
「照明や道具、暖房、魔道具……いろいろなものに使われる。エレティス最大の輸出品の一つだ」
改めて街を見る。
昼間なのに。
街灯には小さな結晶が組み込まれていた。
馬車の中には魔法的な機構らしきものが使われているものもある。
ある建物には巨大な時計が取り付けられており。
その動力源らしい青い石が内部で輝いていた。
「つまりタルタロスって、冒険者が名声を得るためだけに潜る場所じゃないんだな」
「タルタロスが、この街を生かしている」
それには興味を引かれた。
ダリウスが続ける。
「魔物から素材が取れる。下層には地上に存在しない鉱石もある。薬草。魔石。遺跡。古代の魔道具」
巨大な黒い鉱石を山積みにした荷車が横を通る。
「鍛冶師はああいうものを使う」
別の通りを指差す。
「あっちは錬金術師が買う」
光るキノコが詰まった袋を、大勢の男たちが荷下ろししていた。
「商人がそれらを売買する」
そして。
遠くの塔を指差した。
「遠征を組織するのが神族だ」
また。
その言葉。
「神族」
「もっと早く聞くと思っていたが」
「先に見たかった」
ダリウスが頷く。
その答えが気に入ったらしい。
「神族というのは、一柱の神を中心に形成される組織だ」
「教会みたいな?」
「そういう神族もある」
「ギルド?」
「そういうところもある」
「会社?」
「それもある」
「全然説明になってないぞ」
ダリウスが小さく笑う。
「一種類じゃないからな」
歩きながら話す。
「神が人の世界へ留まることを決めたとき、神族を作ることができる。その神から“刻印”を授かった者たちが、眷属となる」
「刻印?」
「加護だ」
近くを歩いていた冒険者集団を、ダリウスがさりげなく示した。
全員。
マントに同じ赤い紋章がある。
「刻印は人間の潜在能力を引き出す。成長を早め、身体能力を高め、技能を発現させることもある」
「レベルアップ?」
ダリウスが俺を見る。
「そうだ」
「やっぱりな」
「なぜ最初から分かっていたみたいな言い方なんだ?」
「長い話」
レベル。
ウィンドウ。
ますます。
俺の人生が危険なほどゲームに近づいてきている。
ただ。
グールのことを思い出す。
血。
ダリウスの恐怖。
あれは。
間違いなく現実だった。
忘れてはいけない。
どれだけ面白そうに見えても。
死ぬことはある。
もう一度。
そして正直。
一週間に一回くらいならまだしも。
馬鹿みたいな死に方はもう十分だ。
「全部の神族がタルタロスへ潜るのか?」
「いや」
ダリウスは歩きながらいくつかの建物を指差した。
巨大な複合施設。
看板には槌の紋章。
「ヴォルンド神族。鍛冶師が中心だ」
次。
金色の扉を備えた豪華な建物。
「ミダス神族。商業と金融」
青い窓が無数に並ぶ塔。
「トート神族。魔術研究」
そして。
高い壁に囲まれた巨大な敷地。
内部では男女が武器を使って訓練していた。
「アレス神族。主に軍事と傭兵だ」
少し眉を寄せる。
「つまり、神が経営してる企業みたいなものか」
「企業?」
「神族みたいなもの。ただし神の代わりにスーツ着た金持ちのおっさんがいる」
ダリウスは。
質問しないことを選んだ。
賢明だと思う。
そのとき。
右側で爆発音が響いた。
振り向く。
窓から煙が噴き出している。
煤だらけのドワーフが顔を出した。
「できたぞおおおおおおっ!」
もう一度爆発。
ドゴンッ!
「できてなかったああああああっ!」
俺たちはそのまま歩いた。
「……この街、好きだわ」
◇◆◇
そのときだった。
最初の一柱を。
見た。
いや。
正確には。
“何かが違うものを見ている”と。
理解した。
金色の髪をした青年が。
武装した何人もの人間を引き連れながら通りを歩いていた。
見た目は二十歳くらい。
多く見積もっても二十五。
実用性を完全に捨てたような上品な白いローブを身につけている。
それだけなら。
今日ここまで見てきたものに比べれば、別に珍しくはない。
ただ。
その胸の中には。
光があった。
いや。
違う。
人間には全員。
炎がある。
街へ来る途中で、それはすでに確認していた。
小さいもの。
大きいもの。
色もそれぞれ違う。
しかし。
あの男は。
違う。
炎というより。
太陽だった。
目を細めなければならないほど眩しい。
巨大な黄金の光が。
身体のほとんどを埋め尽くしている。
そして。
俺の内側にある何かが。
反応した。
大鎌が現れたときと同じ感覚。
圧力。
次の瞬間。
視界に文字が浮かんだ。
«《Divine Soul detected.》»
――神性魂魄を検知。
俺は足を止めた。
同時に。
男も。
足を止める。
ゆっくり。
こちらへ顔を向けた。
視線がぶつかる。
その瞬間。
男の笑顔が。
ほんの一瞬だけ。
消えた。




