第1話 「死んだと思ったら、死神になっていた」
もし自分の人生をたった一言で表せと言われたら、たぶんこう答える。
――普通。
不幸じゃない。
素晴らしくもない。
普通。
そして、公平に考えれば、それは別に悪いことでもなかった。
俺は十八歳。
食卓を囲むたびに内戦が勃発するわけでもない、それなりに話の通じる家族がいて。
人生を退屈させない程度にはバカな友人が何人かいて。
成績は自慢できるほど良くないけれど、親に将来を心配されるほど悪くもない。
悲惨な幼少期を送ったこともない。
彼女に背中から刺されたこともない。
マフィアに借金もない。
そして俺の知る限り、古代から続く暗殺組織の隠された後継者だったりもしない。
俺の人生は悪くなかった。
それこそが、問題だった。
「……何か面白いこと起きないかな」
パーカーのポケットに両手を突っ込みながら、俺は歩道を歩いていた。
空は快晴。
気温もちょうどいい。
周囲には普通に人が歩いている。
何も爆発していない。
誰も叫んでいない。
都市の上空に異次元ゲートが開いたりもしていない。
退屈だ。
店のショーウィンドウに映った自分を横目で見る。
黒髪に緑色のメッシュ。
たぶん初対面の人間には「反抗期かな?」と思われる髪型だ。
実際は単純に俺が気に入っているだけなのだが。
母親も数か月前には質問するのを諦めた。
「まあ、文句を言える人生でもないんだけど」
歩きながら呟く。
夢ならあった。
むしろ、かなりある。
旅行したい。
いろんな国を見てみたい。
スカイダイビング。
いつかウイングスーツもやってみたい。
本物の山にも登りたい。
洞窟ダイビングにも挑戦したい。
飛行機の操縦も覚えたい。
あとは、普通の人間なら崖の下を覗いて、
『無理』
と即答するような場所から飛び降りてみたい。
俺だったらたぶん、
『いくらですか?』
と聞く。
昔からエクストリームスポーツが好きだった。
別に死にたいからじゃない。
むしろ逆だ。
そういう瞬間こそ、一番「生きている」と感じる。
身体中の本能が、
お前は救いようのない大馬鹿だ。
と叫んでいるのに、それでも飛び出す。
……まあ。
少なくとも退屈はしない。
ただ、一つだけ小さな問題があった。
「最近、死神が俺の趣味を個人的な挑戦だと勘違いしてる気がするんだよな」
比喩ではない。
ここ二か月で、俺は死にかけた。
スマホを取り出す。
メモを開く。
「……三十二回」
そう。
数えていた。
最初のうちは面白かったのだ。
一回目。
車が制御を失って、俺の立っていた歩道へ突っ込んできた。
避けた。
まあいい。
事故なんて起こる。
三日後。
六階から植木鉢が落ちてきて、俺の頭のすぐ後ろで粉々になった。
少し珍しい。
その翌週。
嵐の中、目の前に電線が落ちてきた。
その次は建物から金属板が剥がれ落ちてきた。
その次は配管が爆発した。
巨大な犬が家から逃げ出し、俺の脚をことさら美味しそうな肉だと判断したらしい。
冷蔵庫がトラックから落ちてきたこともある。
あれについては聞かなかった。
橋から自転車が飛んできたこともあった。
あれについては当然聞いた。
誰にも説明できなかった。
そして事態は悪化の一途をたどった。
気づけば、統計的にあり得なくもない事故という領域を抜けて。
完全にアニメのギャグシーンへ突入していた。
ピアノ。
そう。
クソでかいピアノだ。
正確には俺の真上には落ちなかったが、十分すぎるほど近かった。
それ以来、クラシック音楽が聞こえるたびに上を見る癖がついた。
二十七回目に至っては、ヤギとバイクと……今でも軍用ドローンだったと確信している何かが関わっていた。
証拠はない。
だが疑いもない。
スマホをしまう。
「だからまあ……もし本当に死神なんて奴がいるなら、最近ちょっと暇すぎると思う」
前を歩いていたおばさんが、ゆっくり振り返った。
俺を見る。
俺は片手を上げた。
「あなたに話しかけたんじゃないです」
おばさんは歩く速度を上げた。
理解できる。
俺はそのまま歩き続けた。
本来なら心配するべきだったのだと思う。
たぶん。
けれど三十二回も死にかけ、その全部を生き延びると。
恐怖はだんだん、奇妙な対抗心へ変わってくる。
まるで死そのものが、どんどん馬鹿げた挑戦状を投げてきているような感覚だ。
そして今のところ。
勝っているのは俺だった。
笑う。
「ほら、死神。三十二対ゼロだぞ。もうちょっと本気出したらどうだ?」
そのとき。
何かが聞こえた。
笛のような音。
最初は微かだった。
ヒュゥゥゥゥゥゥゥ……
足を止める。
周囲の人々も、次々と空を見上げ始めた。
俺は目を閉じた。
「……嘘だろ」
音が大きくなる。
ヒュウウウウウウウウウウウウ――!
ため息をつく。
顔を上げる。
そして。
空から車が落ちてきているのを見た。
ただの車じゃない。
青いスバル・インプレッサ。
パラシュート付き。
数秒間、俺の脳はあらゆる思考を放棄した。
巨大な紅白のパラシュートを頭上ではためかせながら。
日本の誇る工業製品が、ゆっくり俺に向かって降下してくる。
「…………」
瞬きをする。
「マジで?」
車体が揺れた。
パラシュートがバランスを崩す。
そして突然。
ゆっくりだったインプレッサの降下が止まった。
いや。
止まったのではない。
落ち始めた。
真っ直ぐ俺に向かって。
「マジでぇぇぇぇぇぇっ!?」
周囲から悲鳴。
俺は横へ飛ぶ。
インプレッサが地面へ激突した。
ドゴオオオオオオオンッ!!
アスファルトが震える。
大量の埃が舞い上がった。
どこかで警報音が鳴り始める。
俺は数秒間、歩道に倒れたまま動かなかった。
身体は全部ついている。
指を動かす。
続いて脚。
問題なし。
ゆっくり身体を起こす。
数メートル先では。
半壊したスバル・インプレッサが、アスファルトに突き刺さっていた。
数秒遅れてパラシュートがふわりとその上へ落ちる。
まるで証拠隠滅を試みているかのようだった。
沈黙。
立ち上がる。
パーカーについた埃を払う。
空を見上げた。
「……それが切り札か?」
周囲の人間が、完全に頭のおかしい奴を見る目で俺を見る。
気にしない。
空を指差した。
「パラシュート付きのスバルだぞ!? 次は何だ!? カタパルトから戦車でも飛ばしてくるのか!?」
何も起こらない。
俺は笑った。
「三十三対ゼロ」
一歩、後ろへ下がる。
足が。
地面を踏まなかった。
「ん?」
下を見る。
マンホールの蓋が。
ない。
「……あ」
落ちた。
その瞬間、俺は二つのことを理解した。
一つ。
パラシュートを背負っていないときの重力は、思った以上につまらない。
二つ。
死神を煽るべきではなかった。
「……クソ」
暗闇。
◇◆◇
目を開けたとき。
最初に見えたのは葉っぱだった。
たくさんの葉。
緑色。
風に揺れている。
しばらく動かず、それを眺める。
妙に落ち着く光景だった。
数秒前までマンホールに落下していたことを思い出すまでは。
瞬きをする。
「……ここ、どう考えても下水道じゃないよな」
身体を起こした。
俺は草の上に寝ていた。
周囲を見渡す。
どこまでも森。
巨大な木々。
太い根。
見覚えのない植物。
湿った土と、少し甘い何かの匂い。
建物はない。
道路もない。
そして何より。
マンホールもない。
頭を触る。
異常なし。
首。
つながっている。
腕。
脚。
全部動く。
「よし」
立ち上がる。
「可能性を整理しよう」
指を一本立てる。
「一。俺は死んだ」
二本目。
「二。気絶していて、脳の損傷か何かで変な夢を見ている」
三本目。
「三。誰かが俺の知らないうちに街の地下へ巨大な森を建設した」
数秒考える。
「三番だったらかなりすごいな」
スマホを探す。
ポケットの中にあった。
画面も無傷。
「お」
起動する。
圏外。
「……すごさ半減」
コンパスを開く。
回る。
回る。
まだ回る。
「最高だな」
スマホをしまった。
怖くはなかった。
まだ。
どちらかと言えば、好奇心と不安が混ざった奇妙な感覚の方が強い。
もし本当にここが。
知らない場所なのだとしたら。
ゆっくりと口元が上がる。
「……まあ」
周囲を見渡す。
「やっと面白いことが起きたってことか」
数歩進む。
そこで足を止めた。
木々の間に何かがいる。
ウサギ。
あるいは、少なくともウサギにかなり近い何か。
長い耳。
灰色の毛。
額に小さな角。
「なるほど」
そいつが俺を見る。
俺も見る。
「ユニコーンウサギか」
ウサギは葉っぱをかじった。
「今日はもっと変なもの見てるからな」
そのまま歩こうとしたとき。
妙なものに気づいた。
そいつの中に。
光があった。
体表ではない。
身体の内側。
胸の中心辺りに、小さな白い炎が浮かんでいる。
目を細める。
炎は消えない。
横へ移動してみる。
身体越しでも見えた。
「……これは初めてだな」
ウサギが逃げ出した。
俺は目で追う。
小さな白い炎も一緒に遠ざかり、茂みの向こうへ消えた。
次の瞬間。
鳥の声が聞こえる。
顔を上げる。
鳥にもあった。
それぞれ、小さな炎が。
小さく。
明るく。
微妙に違う。
白いもの。
薄く青みを帯びたもの。
木の幹を走るリスの胸にも、小さな光の球があった。
「…………」
自分の胸を見る。
何もない。
「……それはちょっと不公平じゃないか?」
集中してみる。
その瞬間。
何かを感じた。
暗い。
深い。
まるで自分の中に、固く閉ざされた扉があるような。
けれど理解するより先に、感覚は消えた。
「よし。魂が光ってるウサギ。魔法の森。そしてネットなし」
もう一度スマホを見る。
「最後のが一番きついな」
歩き続ける。
方向なんて分からない。
なので、極めて高度で科学的な方法を用いて進行方向を決めた。
太陽があっちにある。
だから反対へ行った。
たぶん二十分ほど歩いた頃。
悲鳴が聞こえた。
「た、助けてくれ!」
足を止める。
また悲鳴。
今度は唸り声も一緒だった。
「……面倒そうだな」
走った。
枝が腕に当たる。
根を飛び越える。
茂みをかき分ける。
そして小さな道へ出た。
男が一人、木を背にして倒れていた。
旅人らしい服。
リュック。
脚から血。
そして、その前に。
「……おお」
少なくとも俺の知るどの動物園にも展示されていない生き物がいた。
前屈みの状態で一メートル半ほど。
暗い灰色の肌。
異様に長い腕。
爪。
黄色く濁った牙が並ぶ口。
一言で説明するなら。
『ゴブリンを作りたいんですけど、精神的に病んでる人にデザインさせたらどうなりますか?』
という質問に対する答えだった。
そしてもう一つ。
炎がある。
ただし。
こいつの炎は違った。
遥かに大きい。
赤い。
胸の中で、脈打つように揺れている。
旅人が後ずさる。
「く、来るな!」
怪物が爪を振り上げた。
考えるより先に身体が動いた。
走り出す。
「おいっ!」
怪物が振り向く。
素晴らしい。
完全にこっちを見た。
……もう少し考えてから動くべきだった気がする。
「どうも」
怪物が咆哮する。
「うん。俺も自分が何してるのか全然分からない」
怪物が突進してくる。
避ける。
爪が顔から数センチの場所を通過した。
俺はよろめきながら後退する。
「武器は持ってないのか!?」
旅人が叫んだ。
「三十分前までゴブリンなんてゲームの飾りだと思ってたんだよ!」
「な、何を言っている!?」
「何でもない!」
再び怪物が襲ってくる。
今度は両手で手首を受け止めた。
失敗。
とんでもなく力が強い。
足が地面を滑る。
牙が近い。
近すぎる。
「……よし」
歯を食いしばる。
「何かデカいのが欲しい」
その瞬間。
自分の中で、何かが動いた。
さっきの感覚。
扉。
ただし今度は。
開いた。
冷たい。
肉体的な寒さではない。
何かが直接、身体の中を突き抜ける。
足元の影が広がった。
怪物が止まる。
俺も止まった。
右腕を、未知の感覚が駆け抜ける。
本能のままに手を開く。
「……何だ?」
指の周囲から黒い煙が現れた。
広がる。
渦巻く。
凝縮する。
そして。
何かが掌にぶつかった。
柄。
黒い。
長い。
反射的に握り締める。
残りの部分が闇から姿を現した。
二メートル近い長い柄。
黒い金属装飾。
その先端に。
巨大な湾曲した刃が生まれる。
黒。
周囲の光さえ吸い込んでいるような、深い黒。
大鎌。
怪物が一歩後ずさった。
俺は武器を見る。
「…………」
怪物を見る。
そしてもう一度、大鎌。
「なるほど」
わずかに笑う。
「これはかなり状況が良くなったな」
怪物が甲高い声を上げ、飛びかかってきた。
大鎌の使い方なんて知らない。
一度も訓練したことはない。
そもそも大鎌が何キロくらいあるのかさえ知らない。
なのに。
握った瞬間。
身体が使い方を知っていた。
回転する。
刃が怪物の胴体を通り抜ける。
抵抗はなかった。
骨も。
肉も。
まるで煙を斬ったかのようだった。
怪物が俺の背後へ着地した。
動かない。
「……外した?」
その瞬間。
怪物の胸にあった赤い炎が。
真っ二つに割れた。
怪物が倒れる。
死んだ。
沈黙。
大鎌を見る。
「……少なくともエクストリームスポーツの予定表にはなかったな」
刃から黒い煙が立ち始める。
しかし、それを観察するより先に。
怪物の死体から何かが出てきた。
光る球体。
赤い。
今まで見た炎よりずっと大きい。
怪物の上に浮かぶ。
そして。
俺の目の前に文字が現れた。
何かに投影されているわけではない。
ただ。
そこに存在していた。
«《魂魄を検知しました。》»
「…………」
顔を動かす。
文字もついてくる。
«《魂魄を検知しました。》»
«魂を刈り取りますか?»
«YES / NO»
旅人を見る。
男はまだ木を背にしたまま、荒い息を吐きながら。
目を見開いて俺を見ている。
再び表示を見る。
「……絶対あとで何か問題になるやつだな」
赤い球体が漂う。
「まあ、マンホールで死んだ直後なんだけど」
指を伸ばす。
YESに触れた。
その瞬間。
赤い球体が大鎌の刃へ吸い込まれた。
凍りつくような感覚が腕を駆け抜ける。
新しい情報が表示された。
«《魂魄の収穫に成功しました。》»
«【収穫した魂】»
«下級グール ×1»
「グールか」
死体を見る。
「なるほど。だからあんな歯してたのか」
表示が消える。
直後。
新しいものが現れた。
«《権能を認証しました。》»
文字が変化する。
大きく。
暗く。
«【GRIM REAPER】»
«――死神――»
俺の笑みがゆっくり消えた。
«現在同調率:1%»
しばらく。
その文字を見つめる。
死神。
魂を刈る者。
死。
スバルを思い出す。
マンホール。
その前の三十三回。
「…………」
ゆっくり空を見上げた。
「……これでお前が勝ったことにはならないからな」
旅人が妙な声を漏らした。
振り返る。
「大丈夫か?」
「お、お前……いったい……何者なんだ……?」
まだ手にしている巨大な黒い大鎌を見る。
死体を見る。
そしてもう一度、男を見る。
「現在、回答候補をいくつか検討中です」
大鎌が黒い煙になって消滅した。
男の顔色がさらに悪くなる。
「でも、その前に」
近づく。
男の身体が強張った。
その横を通り過ぎる。
枝をどける。
そして。
足を止めた。
少し先で森が終わっていた。
その向こうには。
広大な平原。
畑の間を一本の道が伸びている。
何台もの馬車が。
地平線の先にある場所へ向かって進んでいた。
都市。
いや。
巨大都市。
白い城壁が何キロにもわたって建物群を囲んでいる。
塔がいくつも空へ伸びる。
神殿のような建物。
何に使うのか想像もできないほど巨大な構造物。
そして中心には。
雲を貫くかのような、黒い塔がそびえ立っていた。
あれほど離れているにもかかわらず。
都市の奥底にある「何か」を感じた。
奇妙な感覚。
何千もの。
いや。
何百万もの小さな声が。
理解できないほど遠くから囁いているような。
最後にもう一度。
表示が現れた。
«《死神権能》»
«同調率:1%»
心臓が少し速く鳴り始める。
恐怖ではない。
興奮。
俺は。
何か違うものを望んでいた。
退屈な日常を壊してくれる何かを。
異世界。
怪物。
無数の塔が立ち並ぶ巨大都市。
影から現れる大鎌。
そしてどうやら。
俺は今。
死神になったらしい。
これからは、願い事をするときもう少し慎重になった方がいいかもしれない。
「なあ」
旅人が顔を上げた。
俺はまだ都市を眺めている。
「あ……ああ」
地平線を指差す。
「あの街、当然名前があるんだよな?」
男が瞬きをした。
「エレティスを知らないのか?」
エレティス。
俺は笑った。
「知らない」
両手をポケットに入れる。
「というか、この世界について何一つ知らない」
ようやく肩越しに男を見る。
「だから、あそこまで歩く間」
巨大な都市を指差した。
「この世界のことを教えてくれないか?」
旅人は黙ったまま俺を見つめた。
次に。
グールの死体を見る。
俺の大鎌が消えた場所を見る。
そして再び俺を見る。
「……どこまで知りたい?」
俺は歩き出した。
「全部」
この場所で目覚めてから初めて。
確実に理解できることが、一つだけあった。
俺の前の人生は。
終わった。
そして不思議なことに。
悲しくはなかった。
悪くない人生だった。
完璧じゃない。
それでも。
俺の人生だった。
そして今。
新しい人生がある。
宇宙が俺をマンホールで殺した挙げ句、知らない世界へ放り込むことを決めたのなら。
まあ。
せっかくだ。
楽しませてもらおう。
最後にもう一度。
エレティスの巨大な城壁を見る。
笑みが浮かぶ。
「……どこまで面白くなるか、見てみようじゃないか」
その背後。
森の奥。
俺たち二人のどちらにも見えない場所で。
何かが。
ゆっくりと黒い目を開いた。
そして。
その胸の中には。
炎が。
一つも存在していなかった。




