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第10話  「たとえ結婚が必要でも、方法はいつだってある」


小さく背筋が震えた。


正確には、恐怖ではない。


「じゃあ……」


「つまり、あなたの魂に、神の加護そのものを直接拒絶できるほどの権能が宿っているのなら……」


エレシュは俺を上から下まで見た。


「あなたが一体何なのか、私にもさっぱり分からないわ」


「専門家も俺と同じ結論に辿り着いてくれて安心したよ」


「真面目な話をしてるの!」


「俺も真面目だよ」


「笑ってるでしょう」


「これが俺の真面目な顔」


「違うわよ!」


「まだ俺のことを理解しきれてないだけだ」


「もう!」


エレシュは両手で頭を抱えた。


「こんなのあり得ないわ」


「この二十四時間、そういうことばっかりだったけど」


「私はあなたに刻印を与えられない」


「みたいだね」


「刻印がなければ、あなたを登録できない」


「みたいだね」


「登録できなければ……」


「冒険者になれない」


「そういうことよ」


沈黙。


俺はシャツを着た。


「まあ」


エレシュはまだその場に立ち尽くしていた。


「試してくれてありがとう」


「……え?」


「別の方法を探してみるよ」


パーカーも着る。


「ギルドに何か特別な手続きがあるかもしれないし」


「待って」


「ん?」


「行かないで」


彼女を見る。


エレシュは拳を握り締めていた。


「あなたは私の神族の一員になるって言ったでしょう」


「屋根があるとも言ってたね」


「屋根はあるわよ!」


「まだ本拠地を見てないけど」


「そこは今どうでもいいの!」


部屋の中を行ったり来たりし始める。


「刻印……権能……拒絶……」


ぶつぶつと独り言を呟いている。


俺はそれを眺めていた。


別に気にしなくていい、と言おうかと思った。


ただの一回の挑戦だ。


俺の問題を解決する義務なんて、彼女にはない。


けれど。


エレシュは今回の失敗を、完全に個人的な敗北として受け取っているらしい。


突然。


足を止めた。


目を見開く。


「待って」


「何?」


「厳密に言えば、神族を作るのに刻印は必須じゃないわ」


「マーラは必要だって言ってたけど」


「今の制度ではね」


「法律の抜け穴を探し始めた人の台詞に聞こえる」


「違うわよ!」


エレシュがこちらを向く。


「神の刻印が標準になったのは何百年も前なの。冒険者の成長に便利だから」


「なるほど」


「でも、神族そのものはそれより前から存在していた」


「じゃあ昔はどうやって所属を登録してたの?」


ゆっくり。


エレシュの口元に笑みが浮かんだ。


「契約よ」


「全然安心できない言葉になってないけど」


「古代の“所属契約”」


壁際へ向かう。


そこには儀式用らしい本が並んだ、小さな棚があった。


エレシュはその中から、とんでもなく分厚い一冊を取り出した。


ふっ、と息を吹きかける。


大量の埃が。


そのまま顔面に直撃した。


「げほっ! げほっ!」


俺は黙って彼女を見る。


「ずいぶん歴史のある伝統だね」


「うるさい!」


本を開く。


ページ。


さらにページ。


何枚もめくる。


「……あった」


指差した。


俺も近づく。


記号そのものは完全には読めない。


けれど集中すると……


言葉の意味が頭へ入ってきた。


《神聖所属契約》


神と人との間に結ばれる誓約。


力を与えるものではない。


魂を書き換えるものでもない。


ただ。


一人の人間を、その神の庇護下にある正式な構成員として認める。


「なんで今は使われてないの?」


「刻印ならこれと同じことができるうえに、成長まで促せるから」


「じゃあ客観的に見て、完全に劣化版じゃん」


「そうよ」


「素晴らしい」


「でもあなたには、その優れた方が使えないでしょう!」


「それはそう」


続きを読む。


「何かデメリットは?」


「ないわ」


「エレシュ」


「重要なものはない」


「エレシュ」


「ちょっとした形式上の条件があるだけよ!」


「例えば?」


「十分な霊的親和性を共有していないといけないの」


「それってどういう意味?」


エレシュが俺の胸を見る。


次に。


自分の胸へ手を置いた。


「互いの司る領域に相性が必要なの」


ああ。


死。


冥界の女神。


Grim Reaper。


「じゃあ、運が良ければいけそうだね」


「そう願ってるわ」


「相性がなかったら?」


「契約が成立しないだけ」


「何か爆発したりする?」


「たぶんしないわ」


「また“たぶん”」


「神族に入りたいの? 入りたくないの?」


考えた。


五枚の硬貨。


仕事なし。


神族なし。


加護を受ける方法も、今のところ見つかっていない。


そして目の前には。


自分の魂の中に神の力すら拒絶する何かがあると分かった後でも。


俺を追い出すどころか。


何百年も前の本を引っ張り出して、別の方法を探してくれている女神がいる。


「やろう」


エレシュが瞬きをした。


「……本当に?」


「俺を必死に勧誘してたのはそっちじゃなかった?」


「必死じゃないわよ!」


「そこそこ必死」


「レン」


「はいはい」


手を差し出す。


「何をすればいい?」


エレシュが笑った。


その笑顔は。


今までとは少し違っていた。


芝居がかっていない。


もっと素直な笑顔だった。


「私の手に、あなたの手を重ねて」


言われた通りにする。


小さな手。


冷たい。


「私の後に続いて」


「だんだん結婚式みたいになってきたな」


エレシュの顔が一気に赤くなった。


「結婚式じゃないわよ!」


「一応確認しただけ」


「黙って復唱して!」


笑いを堪えるように唇を結ぶ。


「どうぞ」


エレシュが息を吸う。


表情が。


厳かなものへ変わった。


「我、安息を司る者、境界を守護する者、エレシュ――」


俺も繰り返す。


「我、レン・クロガネ――」


「違う! あなたは自分の部分を言うの!」


「先に説明してほしかったな」


「神の儀式は初めてなの?」


「いや……週末によく来てる」


エレシュは一秒だけ目を閉じた。


「こう言って。『我、レン・クロガネ。己の意志が己のものである限り、エレシュの名のもとを歩むことを受け入れる』」


その言葉は。


気に入った。


永遠の服従でもない。


隷属でもない。


自分の意志。


俺は繰り返した。


「我、レン・クロガネ。己の意志が己のものである限り、エレシュの名のもとを歩むことを受け入れる」


部屋の温度が。


下がった。


エレシュが続ける。


「私は、あなたの魂を求めない」


彼女を見る。


そこは。


特に気になった。


「私は、あなたの自由を求めない」


声が。


部屋の中へ響くように聞こえた。


「私は、あなたの運命を求めない」


うん。


この古い伝統。


かなり好きだ。


「あなたを我が眷属の一人として認める。そして、あなたが私の名を背負う限り、私の神族もまた、あなたの居場所となる」


その瞬間。


何かが起きた。


俺たちの重ねた手の間に。


黒い一本の線が現れる。


さっきの加護とは違う。


俺の中へ入り込もうとしているわけではない。


ただ。


繋いでいる。


それだけ。


そして。


俺の胸の奥で――


あの存在が。


反応した。

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