中編
「……遠路ご苦労だった」
低い声だった。
辺境伯は少女を見下ろす。
鍛え上げられた体。
鋭い目。
背中には大剣。
威圧感だけで呼吸が苦しくなる。
「しばらく休むと良い」
「……はい」
短いやり取りだった。
少女は俯いたまま、小さく肩を震わせる。
怖い。
歓迎されていない。
そう思った。
一方で辺境伯は、去っていく少女の背を見ながら僅かに眉を寄せる。
「……俺は、そんなに怖かったか」
「旦那様、顔怖ぇんですよ」
「今更!?」
ケラケラと軽口を言い合う声さえも、少女にとっては自分を笑う声に聞こえた。
辺境の教会は静かだった。
祈りの時間以外は掃除や洗濯、食事の準備を手伝うことが多い。
少女にとっては、そのぐらいが丁度よかった。
誰も大きな奇跡を求めない。
誰も期待してこない。
誰も比較しない。
……そう思っていた。
「聞いたか? 新しい聖女様、王太子殿下との婚約話があったらしいぞ」
食堂へ入ろうとしていた少女の足が、ぴたりと止まる。
「そりゃ当然だろ」
「あれだけの聖女様だ」
男たちは楽しそうに笑っている。
やっぱり違う。
選ばれる人は、最初から。
自分とは。
「けど秒で断ったらしいぞ」
「は?」
男の言葉に一瞬、周囲がポカンとなる。
「神の花嫁になるので、お断りしますわ! って言い切ったらしい」
「王太子殿下、普通に振られてるじゃねぇか!」
どっと笑いが起きた。
「しかも王太子妃様と仲良しなんだろ?」
「変に揉めるよりずっといいわなぁ」
少女は俯いたまま、食堂に背を向けた。
笑い声が遠い。
まるで別の世界の話だった。
別の日。
少女が井戸へ向かっていると、近くで話し声が聞こえた。
「どうする?」
「どうするって言われてもなぁ……」
辺境兵たちが困ったように頭を掻いている。
「相手は準とはいえ、中央の聖女様だぞ」
「下手なこと言えねぇよ」
少女の足が止まる。
「旦那様ですらあの調子だしな」
「そりゃ怖がられるって……」
小さな笑い声が混じった。
少女は俯いたまま、その場を離れる。
やはり歓迎されていないのだ。
怖がってばかりいる自分は、この土地でも迷惑なのだ。
数日後、教会へ中央から手紙が届いた。
封には聖女の紋章。
少女の指先が小さく震える。
『体調はいかがですか?』
丁寧な文字だった。
『土地によって合う合わないは必ずあります。無理をしていませんか?』
相手を思う優しい言葉ばかりだった。
だからこそ苦しかった。
『必要であれば、配置換えも可能です』
眩しすぎて、最後まで読むことができなかった。
こんなふうに誰かに気遣われる資格など、自分にはない気がした。
でもこれは定期連絡。
返事を書くのも仕事の一環だった。
だから――
「問題ありません」
それだけ紙に書いた。
小さな棘が積み重なっていく中、それは起きた。
その日の夕方、教会へ慌ただしい足音が響いた。
「怪我人だ!」
「聖女様を!」
扉が乱暴に開かれる。
運び込まれた男の腕は深く裂け、床へ血が滴っていた。
少女の顔色がさっと青ざめる。
血。
鉄の匂い。
荒い呼吸。
胃の奥がきゅっと縮む。
「頼めるか」
振り向けば辺境伯が立っていた。
小さく唇を噛み、悲鳴を押し殺す。
「……はい」
運び込まれた男は魔物に深く腕を裂かれていた。
少女は震える指で祈りを捧げる。
淡い光が傷口を包み、止まらなかった血がゆっくりと収まっていく。
「おお……!」
「良かった!」
「おい、生きてるか!!」
周囲から安堵の声が漏れた。
兵士が薄っすらと目を開く。
「……っ、ぁ……」
苦しそうに息を吐く兵士に、少女は俯いた。
完全には治せていない。
傷跡もきっと残っている。
やはり自分は――
「本物……聖女様……違う……」
掠れた声だった。
少女の顔が強張る。
「ありがと……う……」
続いた言葉は、もう耳に入らなかった。
血が足りなくなったのだろう、兵士はそこで気絶してしまった。
「誰か、こいつを運んでやってくれ」
「起きたら肉食わせていいですか?」
「ああ」
笑いながら兵士たちが撤収していく。
「感謝する」
そう言って辺境伯も仕事に戻っていった。
少女だけが、静かな教会の中に取り残された。
翌朝。
教会の外がいつもより騒がしかった。
少女は窓越しに外を見つめる。
兵士たちが輪になって笑っていた。
何かを言い合い、どっと笑い声が上がる。
仲間が傷付いても、翌朝には笑い合える強さ。
あれがきっと、辺境で生きる彼らの強さなのだろう。
少女にはないものだった。
少女はそっと視線を落とし、窓から離れた。
「おー! 本当に傷残ってねぇ!」
「やっぱり、本物の聖女様は違うぜ、いつもなら三日は寝込むのにさ!」
「いい肉食べたのもあるだろ!」
「今夜は酒飲めるな!」
「旦那様にまた怒られるぞ!」
兵士たちが笑い合う。
その光は、声は、少女に届かなかった。
その夜。
少女は小さな荷物を抱えていた。
大したものは入っていない。
着替えと、祈りの本。
それだけだった。
教会の人々は優しかった。
辺境伯も兵士たちも、怖かっただけで、本当は悪い人ではなかったのだと思う。
それでも。
少女はこれ以上ここにいられなかった。
静まり返った廊下を、足音を殺して歩く。
誰にも見つからないように。
誰にも迷惑をかけないように。
そっと扉を開けば、冷たい夜風が頬を撫でた。
少女は一度だけ教会を振り返る。
そして、そのまま闇の中へ消えていった。




