前編
聖女とは、神の愛し子。
神から授かった力で、人々を救う存在だ。
傷を癒やし、病を祓い、災厄から国を守る。
時に祈りで土地を豊かにし、時に戦場へ赴き、人々の命を繋ぐ。
聖女の誕生は、この国が神に守られている証。
その存在は時に、国王すら超える権限を持つ。
それが、この国の聖女だった。
聖女選定の日、神殿には大勢の人々が集まっていた。
白い花。
光り輝く祭壇。
祝福を待ち望む民衆の歓声。
その中心に立つ侯爵令嬢は、まるで最初から選ばれることが決まっていたかのように堂々としていた。
光に愛されている。
誰もがそう思うほど、美しかった。
一方で、隅に立つ少女は俯いていた。
自分が選ばれないことなど、最初から分かっていた。
癒やしの力はある。
祈れば小さな傷を和らげることもできる。
けれど、それだけだ。
大怪我を一瞬で治せるわけでもない。
光が舞うわけでもない。
花が咲くわけでもない。
奇跡と呼ぶには、あまりにも地味だった。
家族もまた、侯爵令嬢へ祝福の視線を向けていた。
選定が始まる前に向けられていた期待も、今はもう少女には向けられない。
それが当然なのだと、少女は思っている。
だから、視線を上げることができなかった。
「やはり、リュシエンヌ様でしょう」
「当然ですわね」
「聖女様に相応しいお方ですもの」
そんな声が聞こえるたび、胸の奥がじわりと痛んだ。
違う。
妬む資格なんてない。
自分にはできなかった。
怖かった。
血も、痛みも、人の苦しむ声も。
慰問へ向かう馬車の中で震えることしかできなかった自分とは違う。
だからきっと、選ばれるべきなのは彼女なのだ。
選定の結果が発表されるまで、長い時間はかからなかった。
祭壇に満ちていた光が、侯爵令嬢の足元へ集まっていく。
花弁のような光が舞い、人々が歓声を上げた。
「おお……!」
「なんと神々しい……!」
少女はその光景をただ静かに見つめていた。
綺麗だと思った。
悔しいという気持ちは不思議と薄い。
だって彼女は本当に努力していたから。
怪我人の慰問へ行けば、血の匂いに顔色を悪くしながら、それでも最後まで立ち続けていた。
騎士団の訓練所へ足を運び、治療の補助を学び、夜遅くまで神官たちと知識を共有していた。
聖女選定が始まってからなら、ただのアピールだと思えたかもしれない。
でも彼女は、物心ついた頃からずっとそれを続けていたという。
聖女になりたいから、ではない。
聖女になった時、誰かを救えるように。
そのために必要だから学んでいた。
少女にはそれができなかった。
怖かった。
苦しむ人を見るのも。
泣き声を聞くのも。
血に触れるのも。
勇気を出して手を伸ばした相手が、冷たくなっていくのも。
だから慰問へ向かう時は、いつも胃が痛くなった。
侯爵令嬢は、そんな彼女を責めなかった。
『怖いのは当然ですわ』
そう言って、優しく笑っていた。
『わたくしだって、最初は吐きましたもの』
けれど少女には、その言葉さえ眩しすぎた。
吐きながらでも向かえる人と、怖くて立ち止まるしかない自分。
最初から違うのだと思い知らされる。
「此度の聖女は――」
神官長が厳かに告げる。
「リュシエンヌ・アルベール侯爵令嬢に決定いたしました」
歓声が響いた。
人々は口々に祝福を贈り、侯爵令嬢もまた堂々とそれを受け止めている。
少女は小さく息を吐いた。
終わった。
これでようやく、比べられなくて済む。
少しだけ安心してしまった自分に、胸の奥がじくりと痛んだ。
選ばれなかった聖女候補たちは、それぞれ複雑な表情を浮かべていた。
悔しそうに唇を噛む者。
涙を流す者。
それでも笑顔を作り、侯爵令嬢へ祝福を贈る者。
少女はただ、静かに俯いていた。
悔しくないわけではない。
けれど、それ以上に安堵の方が大きかった。
もう期待されない。
もう比べられない。
そう思うと、肩の力が抜けていく。
選定後、聖女候補たちは家族のもとへそれぞれ駆け寄っていった。
「残念だったけれど、よく頑張ったわ」
「お前は我が家の誇りだ」
涙を流しながら抱きしめられている少女もいる。
「今回の経験も無駄ではない」
「私たちの一番はあなたよ」
優しく頭を撫でられ、安心したように笑う者もいた。
少女はその光景を少し離れた場所から見ていた。
「……やはり、駄目だったか」
父親の声が静かに落ちる。
責める声音ではない。
ただ、期待が外れた事実を確認するような声だった。
「申し訳、ありません……」
少女は小さく頭を下げる。
母親は何も言わない。
視線を合わせることすらなく、気まずそうに目を逸らしていた。
「アルベール家が相手ではな」
「仕方ないですわね」
慰めるでもなく。
怒鳴るでもなく。
ただ、静かに失望されていた。
その空気が少女には何より苦しかった。
「聖女候補の皆様は、こちらへ」
神官の声が響く。
少女は逃げるように顔を伏せ、その場を後にした。
聖女候補たちが通されたのは、豪奢ではないが、落ち着いた空気の漂う控室だった。
そこにいたのは、新たな聖女に選ばれたリュシエンヌ・アルベール侯爵令嬢と神官長。
そして侯爵令嬢の後ろには、彼女を支えるように家族たちが控えていた。
娘一人に全てを背負わせるつもりなど、最初からないのだと分かる光景だった。
「皆様」
前に出た侯爵令嬢が静かに口を開いた。
先ほどまでの華やかな空気とは違う、落ち着いた声だった。
「わたくし、一人でこの国を背負うつもりはありません」
ざわりと空気が揺れる。
「皆様が受け入れてくださるなら、ともに試練を乗り越えた方々と、この国を守っていきたいと思っています」
その声は穏やかだった。
けれど、不思議と力強い。
「此度より、聖女候補の皆様には各地へ赴いていただきます。土地ごとに必要とされる祈りも、癒やしも違うからですわ」
少女は顔を上げなかった。
「当然ながら、合わない土地もあるでしょう。定期的な配置換えも行います。必要であれば支援も惜しみません」
侯爵令嬢は選ばれなかった候補たちをゆっくり見回した。
「皆様は不要ではありません」
真っ直ぐな声だった。
「どうか、わたくしとともに。この国を守ってくださいませ」
優しい声だった。
救いのような言葉だった。
けれど少女の耳には、ほとんど届いていなかった。
不要ではない。
そんなはずがない。
選ばれなかった時点で、自分はもう聖女ではないのだから。
周囲の歓声が遠く聞こえる。
侯爵令嬢はきっと、正しい。
強くて、優しくて、努力を惜しまない。
神に愛されるに相応しい聖女だ。
だからこそ余計に、自分が惨めだった。
少女はそっと拳を握る。
爪が食い込む痛みだけが、妙に鮮明だった。
配属先が読み上げられていく。
北部。
東部。
沿岸都市。
小規模教会。
聖女候補たちは緊張した顔をしながらも、それぞれ神官から説明を受けていた。
「配置換え申請はいつでも可能です」
「定期連絡も行いますので、不安があれば必ず相談を」
配属先の説明を、少女はぼんやりと聞いていた。
何も頭に入ってこない。
「貴女の担当は辺境地区、ルーヴェ教会です」
名前を呼ばれ、少女は小さく頷いた。
「……はい」
少女は知らなかった。
逃げ道は最初から用意されていたことを。
助けを求めることが許されていたことを。
けれどその時の少女には、もう何も聞こえていなかった。




