②
春の終わりを迎えた学園の中庭では、薔薇のアーチの下で幾つもの談笑が咲いていた。
貴族の子弟たちは、授業よりもむしろこうした時間に価値を置く。
誰と顔を繋ぐか。
どの家と縁を結ぶか。
どの派閥に属するか。
この学園は、社交界の縮図だった。
「リディア、今日は随分と人が多いな」
金髪の青年、アルヴェイン・グランツ公爵子息は、隣を歩く少女へ柔らかな笑みを向けた。
「皆様、もう夏季夜会を意識しているのでしょう」
リディア・フェルナー。
数年前に叙爵された新興伯爵家の令嬢だった。
元は平民。
商才で莫大な財を築いた父が爵位を得て、貴族社会へ参入した。
彼女自身は聡明で慎ましく、上流貴族の令嬢たちに見られるような傲慢さもない。 だからこそアルヴェインは惹かれた。
「貴族というのは窮屈だな。君のような人間まで値踏みの道具にされる」
「……ですが、そういう世界ですから」
リディアは少し困ったように笑った。
彼女の周囲には最近、妙な噂が流れていた。
公爵家嫡男であり、既に婚約者を持つアルヴェインに囲われている、と。
それでもアルヴェインは意に介さなかった。
嫉妬だ。
古い貴族たちが、彼女のような新しい血を排斥したいだけ。
そう信じていた。
「アルヴェイン様」
不意に、背後から澄んだ声が響く。
二人が振り返ると、一人の令嬢が立っていた。
銀糸のような髪を結い上げ、深い藍色のドレスを纏った少女。
学園の空気そのものが静まるような存在感。
セレスティナ・ローゼンハイム侯爵令嬢。
アルヴェインの婚約者だった。
周囲の視線が一気に集まる。
アルヴェインは眉を寄せた。
来たか。
ついに嫌がらせに。
「何の用だ、セレスティナ」
「少々、お時間をいただきたく」
淡々とした声音だった。
怒気もない。
感情も薄い。
それが逆に、アルヴェインには冷酷な圧力に見えた。
「リディアを責めるつもりなら無駄だ。彼女は何も悪くない」
「責める?」
セレスティナはわずかに首を傾げた。
「そのようなことをする理由が、わたくしにはありません」
「では何だ」
「リディア様へ確認したいことがございます」
リディアは緊張したように姿勢を正した。
「……私に、ですか?」
「はい」
セレスティナは彼女を真っ直ぐ見た。
「リディア様。貴女は、ご自身が現在どのような立場に置かれているか、正確に理解なさっていますか」
「立場……?」
「公爵家嫡男であり、既に婚約済みである男性と常に行動を共にしている。その意味を、です」
アルヴェインが口を挟む。
「だから何だと言う。私は彼女を大切にしている」
「ええ。問題はそこではありません」
セレスティナは静かに続けた。
「学園は、若い令嬢たちが将来の婚約相手と出会う場です。皆、その前提で交流しております」
周囲にいた令嬢たちが、わずかに視線を伏せる。
「ですが現在、リディア様は『公爵家嫡男に囲われた女性』として認識されています」
リディアの顔色が変わった。
「そ、そんな……」
「高位貴族の婚約者持ち男性と親密に振る舞う令嬢に、正式な縁談を申し込む家はありません」
「待て」
アルヴェインが低く言った。
「囲うなどと言うな。私は彼女を愛している」
「ええ。アルヴェイン様個人のお気持ちはそうなのでしょう」
セレスティナは否定しなかった。
「ですが貴族社会は感情で動きません」
その一言は、冷たい刃のようだった。
「仮に貴方様が婚約を破棄し、リディア様を正妻に迎えるとしても、ローゼンハイム侯爵家との関係悪化は避けられません。さらに『婚約者を捨て、平民上がりへ走った公爵家嫡男』という評判は社交界全体へ広がります」
「……」
「そして、もし迎えなかった場合」
セレスティナはリディアを見る。
「リディア様は“愛人扱いされた令嬢”として社交界に残ります」
リディアの唇が震えた。
「そんなつもり、じゃ……」
「もちろん承知しております。ですが、社交界において重要なのは事実ではなく、外聞です」
アルヴェインは苛立ったように吐き捨てた。
「古臭い価値観だ」
「はい。ですが、その古臭い価値観で貴族社会は成立しております」
静かな返答だった。
「特に新興貴族は、“下品である”と判断されれば即座に排斥されます。リディア様個人だけではなく、フェルナー伯爵家全体が“娘を高位貴族の妾として差し出した家”と見なされる可能性すらございます」
リディアの瞳が大きく開かれる。
彼女はそこで初めて理解した。
自分が笑われるだけでは済まない。
家族まで巻き込む。
父の築いたものを壊しかねない。
「……わたくしは嫉妬で来たわけではありません」
セレスティナは静かに言った。
「むしろ逆です。貴女が何も知らぬまま破滅するのを見過ごせなかった」
沈黙が落ちる。
アルヴェインは何か言い返そうとして、言葉を失った。
彼は初めて気づいた。
自分は恋愛だけを見ていた。
だが彼女たちは、家を背負っている。
恋愛の先にある現実を、セレスティナだけが見ていた。
「……では、私はどうすれば」
かすれた声でリディアが問う。
セレスティナは少しだけ考え、
「距離を置くことです」
と答えた。
「少なくとも公の場では。今ならまだ、“一時の噂”で収められる可能性があります」
アルヴェインが苦しげに拳を握る。
「私は……彼女を傷つけていたのか」
「はい」
即答だった。
「無自覚に」
その言葉は容赦がなかった。
しかし侮蔑も嘲笑もない。
ただ事実だけが置かれている。
セレスティナは一礼した。
「お話は以上です」
そして踵を返す。
引き止める者はいなかった。
中庭を去っていく背中は、最後まで淡々としていた。
残された二人は、ようやく理解していた。
あと少しで、自分たちは取り返しのつかない場所まで進むところだったのだと。




