第6話 花が届かないので、川の流れを戻します
その朝、花市場の花は少なくなっていた。
白百合も少ない。
黄色い小花も少ない。
赤い花も少ない。
いつもなら市場の端まで花の色でいっぱいなのに、今日は棚の隙間が目立っている。
市場の人たちは、みんな困った顔をしていた。
「今日は、ずいぶん少ないねえ」
ロゼッタさんが、花市場の顔なじみのおじさんに聞いた。
おじさんは、困ったように首を横に振った。
「花を育てている農家から、花が来ないんだよ」
「どうしてですか?」
「ああ。少し前に山崩れがあってな。家は無事だったらしいが、川に土砂が落ちたんだ」
私は籠を持ったまま、顔を上げた。
山崩れ。
それは大変だ。
「川?」
「ああ。山崩れで川がせき止められて、流れが変わっちまった。下の村に水が足りなくなってる。最初は何とかしてたらしいが、そろそろ限界なんだとよ」
「水が足りないと、花が困ります」
「そうだ。花畑にも水が足りない」
私は少なくなった花を見た。
花は水がないと元気がなくなる。
元気がなくなると、店に並べられない。
店に並べられないと、お客さんに渡せない。
それは困る。
「花だけじゃないよ」
おじさんはさらに顔をしかめた。
「畑もだ。穀物にも影響が出始めてる。王都から男衆が何人も駆り出されてるらしい」
「穀物にも」
私は少し考えた。
花が少ないのも困る。
でも、穀物が少ないのはもっと困る。
ご飯が少なくなる。
それは、とても困る。
ロゼッタさんも険しい顔になった。
「そりゃ大事だねえ」
「騎士団も出てるらしいが、川をせき止めてる岩が大きすぎるんだとよ。馬も人も使って引いたらしいが、びくともしないそうだ」
「岩ですか」
「ああ。とんでもなく大きくて硬い岩らしい」
私は黙った。
大きくて硬い岩。
馬も人も動かせない岩。
少し嫌な予感がする。
ロゼッタさんが、じろりと私を見た。
「ミリアちゃん」
「はい」
「今、少し行けるかも、みたいな顔をしたね」
「しましたか?」
「したよ」
「でも、まだ何も言っていません」
「顔で言ってるんだよ」
私は口を閉じた。
顔は難しい。
自分では見えない。
花市場では、どうにか仕入れられるだけの花を買った。
それでも、いつもの半分にもならない。
ロゼッタ花店へ戻る道でも、ロゼッタさんは何度もため息をついた。
「花が少ないねえ」
「はい」
「明日もこの調子だと困るねえ」
「はい」
「でも、危ない場所へ勝手に行くのはなしだよ」
「はい」
「返事が早すぎるねえ」
「そうでしょうか」
私は籠の中の花を見た。
少ないけれど、どれもきれいだ。
大事に売ろう。
そう思っていたら、ロゼッタ花店の前に見覚えのある人が立っていた。
黒に近い髪。
灰色の瞳。
きちんとした姿勢。
レオンハルト様だ。
今日は鎧を着ている。
仕事の顔だった。
「ミリア・ノクス」
「はい」
「力を貸してほしい」
ロゼッタさんが額に手を当てた。
「ほら来た」
「何がですか?」
「あんたを危ないところへ連れていく人だよ」
レオンハルト様は、少しだけ気まずそうに咳をした。
「危険はある。だが、必要だ」
「何をするんですか?」
私が聞くと、レオンハルト様は短く答えた。
「川の流れを戻す」
「川の流れを」
「ああ」
「花の配達ではなく?」
「違う」
「仕入れでもなく?」
「違う」
「川ですか」
「川だ」
私は少し考えた。
花畑に水が届かないと花が売れない。
お客さんを笑顔にできない。
それに、穀物にも関係がある。
「ご飯も困りますか?」
「ああ。放っておけば、周辺の畑にもっと影響が出る」
「ご飯は食べたいです」
「そこか」
「大事です」
「大事だな」
レオンハルト様はうなずいた。
ロゼッタさんは大きく息を吐いた。
「行くんだろうね」
「はい」
「だと思ったよ」
ロゼッタさんは私の肩を両手でつかんだ。
「いいかい、ミリアちゃん。川の流れを戻すのはいい。花や畑が助かるなら、それはいい。でも、山を崩すんじゃないよ」
「はい」
「川を変なところへ流すんじゃないよ」
「はい」
「余計なことをしない」
「分かりました」
「あと、レオンハルト様の指示を聞くこと」
「はい」
レオンハルト様が小さくうなずいた。
「私が責任を持つ」
「お願いしますよ。うちの子は、善意で山でも動かしそうだからね」
「……その可能性は考えている」
「考えないでおくれ」
ロゼッタさんは、もう一度ため息をついた。
私は、動きやすいように袖を整えた。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい。ちゃんと帰ってくるんだよ」
「はい」
王都の北へ向かう道には、人が多かった。
荷車。
騎士。
汗を拭く男の人たち。
縄や木材を運ぶ人たち。
みんな、山の方へ急いでいる。
いつもの花を運ぶ道とは、少し空気が違った。
焦っている。
困っている。
そういう感じがした。
レオンハルト様は歩きながら説明してくれた。
「山崩れで川の流れが変わった。水は別の低い谷へ流れ始めている」
「川が、道を間違えているんですね」
「そう言えなくもない」
「戻してあげないといけませんね」
「ああ」
川も困っているのかもしれない。
いつも通っていた道がふさがって、別の場所へ流れてしまっている。
それなら、戻した方がいい。
山道を進むと、やがて水の音が聞こえてきた。
けれど、音が変だった。
いつもの川の音ではない。
荒れている。
ぶつかっている。
苦しそうな音だった。
開けた場所に出ると、私は目を見開いた。
大きな川の流れが、途中で乱れていた。
巨大な岩がいくつも崩れ落ち、その中でも特に大きな岩が川をふさいでいる。
水は行き場を失い、横の低い場所へ流れ込んでいた。
その先には、畑ではなく、ただの岩場が続いている。
あれでは、花畑にも、穀物畑にも水が届かない。
「これは……困ります」
「ああ」
男の人たちが何人も縄を引いていた。
「せーの!」
「引け!」
「もっと力を入れろ!」
太い縄が、巨大な岩にかけられている。
十人。
二十人。
もっと多い。
みんなで引いている。
でも、岩は動かなかった。
地面にめり込んでいるようにも見える。
防衛騎士の一人がレオンハルト様に駆け寄ってきた。
「副団長!」
「状況は」
「まったく動きません。木材をかませても割れます。馬を増やしても、縄が切れます」
「負傷者は」
「軽傷者が数名。重傷者はいません」
「よし。全員、下がらせろ」
防衛騎士は私を見た。
そして、すぐに目を見開いた。
「あの、まさか」
「そのまさかだ」
レオンハルト様が言った。
「ミリア・ノクスに試してもらう」
ざわ、と周囲が揺れた。
「あの花屋の娘か?」
「馬車を持ち上げた」
「魔物を投げた」
「ドラゴンも飛ばしたって聞いたぞ」
いろいろ聞こえた。
私は少し下を向いた。
有名になるのは、まだ慣れない。
でも今は、川の方が大事だ。
「ミリア」
「はい」
「まず押せるか試してほしい。ただし、無理はするな」
「分かりました」
私は巨大な岩の前に立った。
近くで見ると、本当に大きい。
馬車どころではない。
魔物どころでもない。
ドラゴンほどではないかもしれないけれど、地面に半分埋まっている分、ひどく重そうだ。
岩の表面には、灰色の中に黒い筋が走っていた。
硬そうだ。
私は両手を岩に当てた。
「押します」
「全員、離れろ!」
レオンハルト様の声で、人々が下がる。
私は足を踏ん張った。
押す。
動かない。
もう少し力を入れる。
足元の土が沈んだ。
さらに押す。
地面がめきめきと音を立てた。
でも、岩は動かなかった。
「……動きません」
私は手を離した。
岩はそこにあった。
何事もなかったように。
少し腹が立つ。
花が届かないのに。
水が戻らないのに。
ご飯も困るのに。
この岩は動かない。
「君でも無理か」
レオンハルト様が低く言った。
「押すのは難しいです」
「押すのは?」
「はい」
私は周囲を見回した。
崩れた斜面。
割れた木。
濡れた土。
流れを変えられた川。
その中に、同じ模様の岩があった。
灰色の中に、黒い筋が走っている。
川をふさいでいる岩と、よく似ている。
なぜか、それを見た瞬間、これだと思った。
私はそちらへ歩いた。
「ミリア?」
「はい」
「何をするつもりだ」
「ぶつけます」
「何に」
「あの岩に」
レオンハルト様は一瞬だけ黙った。
「待て」
「はい?」
「いや、待たなくていい。全員、さらに下がれ!」
防衛騎士たちが慌てて人を遠ざける。
私は同じ模様の岩に手をかけた。
こちらも大きい。
でも、地面には埋まっていない。
持てる。
私は岩を持ち上げた。
周囲から声が上がる。
「持ったぞ!」
「岩を?」
「岩を持ったぞ!」
私は岩を抱え直した。
落とさないようにする。
花を包む時ほどではないけれど、なるべく丁寧に。
「いきます」
私は岩を、川をふさいでいる巨大な岩へぶつけた。
ごん、と鈍い音がした。
大きな岩に、細いひびが入った。
「あ」
割れた。
少しだけ。
なら、もう一度。
私は同じ岩を持ち上げ、もう一度ぶつけた。
ごん。
ひびが広がる。
もう一度。
ごん。
黒い筋に沿って、ぱき、と音がした。
もう一度。
ごん。
巨大な岩の表面が割れ始めた。
「ミリア、少し下がれ!」
レオンハルト様が叫んだ。
私は一歩下がった。
直後、巨大な岩の一部が崩れた。
川の水が、そこから勢いよく流れ出す。
「まだ塞がっている!」
防衛騎士が叫んだ。
「はい」
私はもう一度、岩をぶつけた。
今度は少し強めに。
ごん、ではなく、どん、と音がした。
ひびが一気に走る。
巨大な岩が、ばきばきと音を立てた。
そして、とうとう砕けた。
細かく砕けた岩の間を、水が勢いよく通り抜けていく。
せき止められていた川が、元の道へ戻っていく。
最初は細く。
すぐに太く。
そして、どっと音を立てて流れ出した。
「戻った……」
誰かがつぶやいた。
水が、元の川筋を走っていく。
横の谷へ流れていた水も、少しずつ勢いを失っていった。
川の流れが戻った。
私は胸をなで下ろした。
「よかったです」
その場にいた人たちは、しばらく黙っていた。
それから、わっと声が上がった。
「川が戻ったぞ!」
「やった!」
「これで畑に水が行く!」
「花畑も助かるぞ!」
男の人たちが手を叩いて喜んでいる。
防衛騎士たちも、ほっとした顔をしていた。
レオンハルト様は、砕けた岩を見て、それから私を見た。
「……押しても駄目で、ぶつけたら砕けたのか」
「はい」
「なぜ分かった」
「同じ模様だったので」
「それだけか」
「はい」
レオンハルト様は額を押さえた。
「君に理由を聞くべきではなかったな」
「すみません」
「いや、助かった」
彼は砕けた岩の方を見た。
「これで水は戻る。あとは小さな石を取り除き、川筋を整えればいい」
「花は届きますか?」
「届くだろう」
「よかったです」
「穀物もな」
「はい。ご飯も大事です」
「そうだな」
レオンハルト様は少し笑った。
水の音が、だんだん落ち着いていく。
苦しそうだった川の音が、少しだけ普通に戻った気がした。
私はそれを聞いて、ほっとした。
川も、元の道に戻れてよかった。
その日の夕方。
ロゼッタ花店へ戻ると、ロゼッタさんが店先で待っていた。
「ミリアちゃん」
「はい」
「川の流れを戻してきたって聞いたよ」
「はい」
「岩を砕いたって?」
「はい」
「山は?」
「崩していません」
「川は?」
「元の場所に戻しました」
「よろしい」
ロゼッタさんは深く息を吐いた。
「まったく。花が届かないからって、川の流れを戻しに行く花屋なんて聞いたことがないよ」
「花屋なので」
「理由になってないよ」
「でも、花が届くようになります」
「それは助かるけどね」
ロゼッタさんは、少しだけ笑った。
「それに、畑も助かるんだろう?」
「はい。ご飯も助かります」
「大事だねえ」
「はい」
私は大きくうなずいた。
翌朝。
花市場には、少しだけ花が戻ってきていた。
まだ数は少ない。
それでも、昨日よりずっと明るく見えた。
「ミリアちゃん!」
市場のおじさんが手を振った。
「川、戻ったよ。助かった」
「よかったです」
「今日の花はいいぞ。まだ少し疲れてるが、水を吸えば元気になる」
私は花を見た。
白百合。
黄色い小花。
淡い紫の花。
どれも、少しだけ茎が曲がっている。
でも、水を吸えばきっと立ち直る。
「この子たち、売れます」
「そうかい」
「はい」
私は花を選んだ。
ロゼッタ花店へ持って帰って、水を替えて、茎を整えて、店先に並べる。
お客さんが花を買ってくれる。
誰かが少し笑ってくれる。
それを想像すると、胸の奥が温かくなった。
川の流れを戻したことより。
岩を砕いたことより。
たくさんの人に驚かれたことより。
花がまた届いたことの方が、私はうれしい。
やっぱり私は、花屋が好きだ。




