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魔王の血を引く花屋は、花を守りたいだけなのに世界を救ってしまいます  作者: momotarou


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4/15

第4話 花を摘みに来ただけなのに、ドラゴンを飛ばしました

 私は今、断崖絶壁を登っている。


 見下ろすと、王都の外れの森がずいぶん小さく見えた。


 風が強い。


 岩肌はほとんど垂直で、普通の人なら登るどころか、見上げただけで帰りたくなると思う。


 でも私は、岩に指をかけ、少しずつ上へ進んでいた。


 今日はロゼッタ花店の定休日。


 だから私は、休みを使って花を摘みに来た。


 月眠花――つきねむりばな。


 この時期にだけ、王都北の崖に咲く花だ。


 怒りや興奮を静める香りを持つ。

 香りをかぐと、不眠に悩む人でも、深く眠れるようになる。


 とても貴重な花だ。


 なぜなら、咲いている場所がこの崖だから。


 誰も登れない。

 だから、ほとんど市場に出回らない。


 でも私は登れる。


 岩に指をかけると、少しめり込む。

 そのまま体を引き上げる。

 また次の岩に指をかける。


 ゆっくり。

 静かに。

 崖を壊さないように。


 このことは、ロゼッタさんには内緒だ。


 誰も登れない崖に花を摘みに行くなんて言ったら、きっと心配する。


 だから私は、少し散歩に行くとだけ言ってきた。


 嘘ではない。


 花を摘みに行く散歩だ。


 それにしても、不思議だ。


 月眠花がどこに咲くのか、私はなぜか知っている。


 誰かに教わったわけではない。

 本で読んだわけでもない。

 市場で聞いたわけでもない。


 でも、分かる。


 どんな花なのか。

 どんな香りなのか。

 どこに咲くのか。

 いつ咲くのか。


 花のことは、昔から何となく分かった。


 ロゼッタさんには、


「花屋なので」


 と説明している。


 けれど、ロゼッタさんは納得していない。


「花屋でも、誰も登れない崖の花までは分からないよ」


 そう言われた。


 そうなのかもしれない。


 でも、分かるものは分かる。


 私は岩をつかみ、もう一段上へ登った。


 崖の中腹より少し上。


 岩の割れ目に、淡い銀色が見えた。


 月眠花だ。


 夜明け前の月みたいな色をした小さな花が、細い岩の隙間に咲いている。


「よかった」


 私はそっと手を伸ばした。


 その時だった。


 崖の上の方から、地響きがした。


 どん、と岩が震える。


 月眠花の花びらが、かすかに揺れた。


 私は顔を上げた。


 崖の上、開けた岩場で、何か大きな影が動いている。


 黒い翼。

 長い首。

 太い尻尾。

 赤く光る目。


 ドラゴンだった。


 王都の防衛騎士団の怒鳴り声が聞こえた。


「王都へ近づけるな!」


「足を止めろ!」


「正面に立つな! 尻尾に気をつけろ!」


 騎士たちは必死に動いていた。


 でも、ドラゴンは大きすぎた。


 尻尾を振るだけで、騎士たちが吹き飛ばされそうになる。

 翼を広げるだけで、土埃が舞い上がる。

 爪が地面をかくたび、岩が割れる。


 私は月眠花を見た。


 淡い銀色の花びらが、ドラゴンの足音で震えている。


 まずい。


 このままだと散る。


 この時期にしか咲かないのに。


 私は崖を登る速度を上げた。


 岩をつかむ。

 体を引き上げる。

 また岩をつかむ。


 誰かに見られたら、また騒ぎになるかもしれない。


 でも、今はそんなことを気にしていられなかった。


 最後の一段を越え、岩場へ出た。


 騎士の一人が私に気づいた。


「な、なんだ、あの娘は!」


「危ない! 下がれ!」


 下がれと言われても、下がるわけにはいかない。


 ドラゴンの足元に、月眠花がある。


 ドラゴンが前脚を上げた。


「あ」


 私は走った。


「待て! そっちは危険だ!」


 騎士の声が聞こえた。


 でも、待てない。


 あの花は、怒りや興奮を静めて、眠れない人を眠れるようにする貴重な花だ。


 それを踏まれるのは困る。


 私はドラゴンの足元に滑り込んだ。


 花を守るように両手を広げる。


「暴れないでください。花が散ります」


 ドラゴンが私を見下ろした。


 赤い目がぎらりと光る。


 たぶん、怒っている。


 かなり怒っている。


 ドラゴンは尻尾を振り上げた。


 巨大な尻尾が、私の方へ迫る。


 騎士たちが叫んだ。


「危ない!」


「逃げろ!」


 私は片手を伸ばした。


 尻尾をつかむ。


 ずしん、と腕に重みが来た。


 重い。


 かなり重い。


 さすがドラゴンだ。


 馬車より重い。

 魔物より重い。

 石壁よりも、たぶん重い。


 でも、持てないほどではない。


 ドラゴンが目を見開いた。


 騎士たちも目を見開いた。


 私は尻尾を両手でしっかり握った。


「すみません。少し離れてください」


 ドラゴンは離れてくれなかった。


 むしろ暴れた。


 仕方ない。


 私は足を踏ん張った。


 そして、その場で回った。


 一回。


 二回。


 三回。


 ドラゴンの体が地面から浮く。


 騎士たちの悲鳴が上がる。


「うわああああ!」


「ドラゴンが回っている!」


「違う、回されている!」


「誰がやっているんだ!?」


「花籠を背負った娘だ!」


 ぐるぐる回る。


 ドラゴンは大きいので、風がすごい。


 土埃が舞い上がる。

 騎士たちのマントがばたばた鳴る。

 月眠花の花びらが揺れる。


 まずい。


 花びらが散りそうだ。


 私は回るのをやめることにした。


「それでは、あちらへ」


 私はドラゴンの尻尾を離した。


 その時、遠くから馬の蹄の音が聞こえた。


「状況は!」


 よく通る声。


 レオンハルト様だ。


 私は声の方を見た。


 銀の鎧を着たレオンハルト様が、馬で岩場へ駆け込んでくる。


 ちょうどいい。


 騎士団の偉い人が来たなら、あとは任せられる。


 ドラゴンは空を飛んでいた。


 自分の翼で飛んだのではない。


 私が飛ばした。


 黒い大きな体が、青空の向こうへ弧を描いていく。


 どんどん小さくなる。


 山の向こうまで飛んでいく。


 最後には、点みたいになった。


 そして見えなくなった。


 少し心配したけれど、ドラゴンは丈夫だ。


 たぶん、大丈夫。


 岩場に静けさが戻った。


 騎士たちは誰も動かなかった。


 レオンハルト様も、馬上で固まっていた。


 私は手についた土を払った。


「よかった。花は無事です」


 レオンハルト様が、ゆっくりこちらを向いた。


「……今、ドラゴンを投げたのか」


「はい」


「なぜ」


「月眠花が散りそうだったので」


「理由が花なのか」


「はい」


 レオンハルト様は額を押さえた。


「君は本当に……」


「すみません」


「いや、助かった」


 彼は小さく息を吐いた。


「防衛騎士団だけでは、かなり厳しかっただろう」


「では、よかったです」


「だが、普通はドラゴンの尻尾をつかんで回さない」


「そうなんですか?」


「そうだ」


 私は少し考えた。


 たしかに、普通の花屋はしないかもしれない。


 気をつけよう。


 防衛騎士の一人が、遠くを指さした。


「副団長! ドラゴンは北の山の方に落ちたようです!」


「追撃は不要だ。まず負傷者を確認しろ」


「はっ!」


 騎士たちが動き出す。


 私はその間に、月眠花の前にしゃがんだ。


 淡い銀色の花びら。


 夜明け前の月みたいな色。


 近づくと、やわらかい香りがした。


 胸の奥が静かになるような香りだ。


 私は丁寧に花を摘んだ。


 一輪ずつ。


 根は残す。


 来年も咲いてほしいからだ。


「それが月眠花か」


 レオンハルト様が横に来た。


「はい」


「どういう花だ」


「怒りや興奮を静める花です。香りをかぐと、不眠に悩む人でも、深く眠れるようになります」


「なるほど」


 それから、防衛騎士の一人が戻ってきた。


「副団長! 負傷者は軽傷のみです!」


「よし」


「それと、北の山を見ていた斥候から報告です」


「何だ」


「飛ばされたドラゴンですが……山の斜面に落ちたあと、眠っているようです」


「眠っている?」


「はい。いびきをかいているとのことです」


 私は手元の月眠花を見た。


 もしかすると、飛んでいった先にも月眠花が咲いていたのかもしれない。


 それならよかった。


 怒っていたドラゴンも、眠れたのならいい。


「よかったです」


「よかった、で済むのか」


 レオンハルト様が言った。


「ドラゴンが眠れたなら」


「そういう問題では……いや、今日はそれでいい」


 彼はあきらめたように言った。


 私は月眠花を籠に入れた。


 十分な数が採れた。


 これならロゼッタ花店に並べられる。


 眠れなくて困っている人に渡せる。


「では、私は帰ります」


「待て」


「はい」


「一人で帰るつもりか」


「はい」


「ドラゴンを飛ばした直後に?」


「花を持って帰らないといけないので」


「……送る」


「でも、お仕事が」


「ドラゴンは飛んでいった。負傷者も軽傷。現場は部下に任せる」


「そうですか」


「それに、君がまた何か見つけると困る」


「花ですか?」


「花に限らない」


 よく分からない。


 でも、レオンハルト様は本気らしい。


 私はうなずいた。


「では、お願いします」


 帰り道、レオンハルト様は何度か私を見た。


「何でしょうか」


「いや」


「顔に土がついていますか?」


「少し」


「すみません」


「謝ることではない」


 私は袖で顔を拭いた。


 月眠花の香りが、籠からふわりと広がる。


 歩いているだけで、少し眠くなりそうだった。


 王都へ戻るころには、昼を少し過ぎていた。


 ロゼッタ花店に着くと、ロゼッタさんが店先で待っていた。


 腕を組んでいる。


 顔が怖い。


「ミリアちゃん」


「はい」


「少し散歩に行くって言ったね」


「はい」


「誰も登れない崖へ行って、ドラゴンを飛ばしてきたっていうのは、本当かい?」


「はい」


「よし。そこに座りな。今日はきっちり叱るからね」


「はい」


 私は素直に椅子に座った。


 レオンハルト様は、なぜか少し離れた場所に立っている。


 巻き込まれたくないのかもしれない。


 ロゼッタさんは大きく息を吸った。


「まったく、あんたって子は――」


 その時、私の籠から、月眠花の香りがふわりと広がった。


 ロゼッタさんの眉間のしわが、少しゆるんだ。


「……危ないことを……」


「はい」


「心配……したん……だよ……」


「すみません」


 ロゼッタさんの声が、だんだん小さくなった。


 握っていた拳も、ふにゃりとほどける。


「怒りたいのに……なんだか……怒れないねえ……」


「月眠花です」


「そういうところだよ、あんたは……」


 ロゼッタさんは深いため息をついた。


 でも、それは怒ったため息ではなかった。


「今日はもう、叱るのは明日にするよ」


「明日ですか」


「……たぶん、明日も忘れてるね」


「では、叱られませんか?」


「調子に乗るんじゃないよ」


「はい」


 私はうなずいた。


 ロゼッタさんは籠の中を見た。


 淡い銀色の花が、やわらかく揺れている。


「……本当に、月眠花だね」


「はい」


「こんなにきれいに採ってきて」


「根は残しました。来年も咲くと思います」


「そうかい」


 ロゼッタさんはもう一度、長く息を吐いた。


「怒れないのは、花のせいだけじゃないね」


「そうですか?」


「そうだよ」


 その日の夕方。


 月眠花は、店先に少しだけ並べられた。


 数は多くない。


 貴重な花だから、必要な人にだけ売ることにした。


 最初に買ったのは、近所のおばあさんだった。


「最近、夜に眠れなくてねえ」


 おばあさんはそう言って、月眠花を一輪買っていった。


 私は丁寧に包んだ。


「枕元に置くと、香りがやわらかく広がります」


「ありがとうね、ミリアちゃん」


 おばあさんは笑って帰っていった。


 その夜、ロゼッタさんは店を閉めながら言った。


「ミリアちゃん」


「はい」


「定休日は休む日だよ」


「はい」


「崖に登る日でも、ドラゴンを飛ばす日でもないよ」


「はい」


「分かってるかい?」


「たぶん」


「たぶんじゃない」


「はい」


 私はうなずいた。


 でも、月眠花が採れてよかった。


 そう思った。


 翌朝。


 昨日のおばあさんが、店に来た。


 顔色が明るい。


「ミリアちゃん」


「はい」


「昨日は、久しぶりによく眠れたよ」


「本当ですか」


「ああ。朝までぐっすりだった」


 おばあさんは、うれしそうに笑った。


「ありがとうね」


 その笑顔を見た瞬間、胸の奥が温かくなった。


 ドラゴンを飛ばしたことより。

 騎士団に驚かれたことより。

 誰も登れない崖を登れたことより。


 月眠花で誰かが眠れたことの方が、ずっとうれしい。


「よかったです」


 私はそう言って、店先の花をそっと整えた。


 やっぱり私は、花屋が好きだ。


 たとえ定休日に、少しだけドラゴンを飛ばすことになったとしても。

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