見えない檻
ケルンは実のところ、自分が世の中でも相当強い方だと思い込んで、いや、思い込まされて生きてきたのだ。
何をしてもそつなくこなしてきた自覚はあったし、物心ついた時から周囲の者がそれを持ち上げ、天才だとはやし立ててきた。
ケルンがただの間抜けであれば、生涯その呪縛からは抜け出すことができなかったことだろう。それくらい、ケルンに対する洗脳は綿密に行われてきた。
その主導者こそが今は亡き先代バッハ侯爵であったわけだ。
そのバッハ侯爵が派閥を離れてから、洗脳はややおざなりになり、ケルンは少しずつ現実が見えてくるようになった。
敏感にケルンの目覚めを察知し、さらなる深い洗脳をする者がいなくなったのだから当然のことである。
派閥が分裂しているというのに、それぞれが自己保身にばかり走っており、ケルンを盛り立てようという貴族がほとんど見当たらない。
気づけば今年になって王位継承争いに参加したばかりの、六歳も年下であるクルムが自派閥の貴族をたぶらかし、他の王位継承者とも交流を図り始めた。
挙句、王族の話し合いの中では、ついに顔を上げてヘグニやジグラに対して意見をし、あろうことかそれを貫き通して見せた。
ケルンは焦った。
貴族たちに事情を説明しながらも打開策を探った。
しかし出てくる言葉は現状維持と、自己保身が見え隠れする状況。
ケルンを王にしようと献策する者は誰もいなかった。
それどころか、ケルンの呼び出しに対して、色々と理由をつけて断る者まで出てくる始末だ。
何かがおかしいことは明らかだった。
ならば自分で何とかする。
裏切るようなふざけた貴族たちは、優秀な自分が王になった時にはただでは済ませない。
そう誓い、ケルンは考える。
何をどうすればこの状況を打開できるか、おそらく人生で初めて自分で真剣に考えた。
蓄えてきた知識があった。
貴族たちから授けられた小賢しい知恵も持っている。
だがそれらは、何の意味もなさなかった。
何も思いつかず、自分が王になる道はもはや、限りない暗闇が広がるばかりであった。
そこでケルンはいよいよ自覚する。
優秀だともてはやされる割に、大した仕事をしてこなかった。
能力を磨き、誇り高く堂々と生きていることこそが役割だと言われてきたが、それはつまりお飾りではないのか。
それを認めるわけにはいかなかった。
そうしてしまえば、これまでの全てを否定することになる。
だから意識を別のところへ割いた。
結局一部のまだましな貴族に打診して、護衛を募り、プライドを少しでも取り戻すためにクルムを脅かしに出ることにしたのだ。
結果はさんざんであった。
頭から怒鳴り散らされ、訓練を見せつけられ、自分が強者でないことまで思い知った。これまで強者の戦いを見てこなかったケルンは、ガツンと横面を引っぱたかれたような気分だった。
ケルンの剣の師は、数年前にケルンに負け、もう教えることはないと立ち去った。
確かに実力のある剣士であったのだと思う。
だが、ラウンドを殺す気で挑んでいく〈要塞軍〉の兵士たちの迫力を見て、ケルンは気づいてしまったのだ。
あの剣士は負けたふりをして、きっと陰では貴族たちと共に自分のことをあざ笑っていたのだろうと。
不幸なことにケルンはそれに気付けぬほど愚かではなかった。
それでも、ケルンがそれなりに努力してきたことは確かだった。
だから訓練に参加した時も、何くそという気持ちであった。
結果は、護衛の兵士たちにも劣るものだった。
彼らは戦う専門家であるとはいえ、誰一人ケルンに劣る者はいなかったのだ。
百年に一人の逸材。
天才。
誰よりも努力されている。
王族の鏡。
嘘だ。
全部嘘だ。
才能があるわけでもない。
人より努力したわけでもない。
だからこそ、ケルンは今この場でただ一人、倒れて立ち上がれなくなっている。
同じ王族であるハップスがジワリと汗を流しながらも訓練を継続できていることが、ケルンに一層現実を叩きつけていた。
涙が出そうだった。
実際汗に交じって出ていたのかもしれない。
ケルンはそれでも泣いているということを認めなかった。
目を見開いて訓練を続けている者をじっと見つめていた。
初めて正しく現実を受け止めるために、視界をぼやけさせながらも、目をそらすことをしなかった。
ラウンドは、憔悴しきって逃げ出そうとしたケルンを無理やりに捕まえて食事に付き合わせてきた。
本当に限界まで体を動かして、心も苛まれ尽くして、本当にどうでもよくなった時に馬鹿みたいな理論をぶちまけられて、ケルンはついにどうでもよくなって笑ってしまった。
全ての虚飾が剥がれ落ち、囲んでいた狭い世界の檻が砕け、もう愉快で愉快で、あまりにも自分が愚かで、笑うしかなかった。
ケルンはそれから貴族たちそれぞれと話をした。
これまでと変わらぬ偉そうな顔をしながら、慎重に貴族たちの本音を探った。
そして本当に自分のために働いている者たちが、ほんのわずかにしかいないことにようやく気が付いた。
辛かった。
くじけそうになるたびに、ラウンドの下へ行って訓練に参加して、どうでもよくなるまで体をいじめ抜いた。
ラウンドや〈要塞軍〉の兵士たち、そして貧民街の住民との訓練は、生まれも立場も才能もなく、どこまでも平等で気持ちが良かった。
体が疲れ切ってしまえば、少しだけ素直になれる。
貴族たちが自分を支えないことも、当たり前のことだと受け入れられる。
むしろ自分を支えようとしている貴族はきっと、本当に自分なんかを王にできると思い込んでいる、融通の利かない、先見の明のない馬鹿なのだと正面から受け止められる。
彼らは貴族としては失格だ。
だからこそ、ケルンはその馬鹿な貴族たちだけは大事にしなければいけないと気が付いた。
だからケルンは、クルムと話をすることにした。
まだまだこれまでの人生でこびりついた垢のような、何の役にも立たないプライドは捨てられないけれど、それも含めて、クルムにできる限りの全てをさらけ出すことにしたのだ。
「そうだ。私は、器ではない」
その一言を発した瞬間、ケルンの心には、爽やかな風が吹いていた。




