第317話 猫族の習性は侮れない
薪ストーブの温もりには優しさを感じる。
人類が火を扱い、焚き木で肉を調理するようになってから百万年ほど経っている。ほっとするのは、火と共にありつづけた長い歴史のあいだに培われた本能かもしれない。
しかし毛むくじゃらな猫族となると、燃え移っては大変だ。
ときおりパチッと火の粉が爆ぜて、まどろんでいたミュイはガラス玉のように輝く瞳をストーブに向けた。
火は耐熱ガラスの向こうにあり、またそこには薪を抱えた火とかげがすやすやと眠りについている。安全だと分かった彼は、くあーっと大あくびした。
「あら、まだ寝ていてもいいのよ」
と、頭上からとても優しい声がする。ぽそぽそと耳元に息が当たり、くすぐったいけれど優しい声だ。
ごしりと額を撫でてきたのは彼女の指で、ほんの少しだけ懐かしい思いをミュイはする。ずっと前、祖父がこうして起こしてくれたことを思い出すのだ。
「甘えん坊さんね。ふふ、可愛いわ」
首の付け根やあごの先など、あちこちを彼女は「こしょこしょ」と言いながら撫でてくる。たまらず身をよじり、目の前にあった指をかぷんと甘噛みする。
普段ならこんな甘えるようなことをしないけど、聞き慣れている声ですっかり安心していた。
はて、この人はだれだろう。
そう思い、眠いけれどミュイはゆっくりと目を開く。
「あ、起きた起きた」
ぼやあっとした視界に映ったのはまだ若いエルフ族だった。
宝石のような紫色の瞳が細められて「いらっしゃい」と彼女は言う。そして伸ばされた手に持ち上げられて、自然と彼女の膝の上に乗せられた。
マリアーベルがしきりに背後を振り返るのは、招き寄せたい者がいるのだろうか。つられて視線を向けると青年が姿を現して「僕よりも寝ぼすけだ」と穏やかな声で言う。近づいてきた彼は手を伸ばし、額をごしりと撫でてきた。
とたんにぱちんと目が覚める。青年は嗅ぎ慣れた匂いをしており、眠気を誘うその声にも覚えがあったのだ。
「……カズヒホ様、デスか?」
「ん、さすがは猫族だ。動物のように勘がいいんだね」
立派だと褒めるように撫でてきた指は、かすかに蜂蜜の香りがする。離れてゆく手を追いかけるようにミュイは立ち上がり、そしてまったく見知らぬ場所であることにそこで気づく。
高価であろうガラスをふんだんに使った窓と、その向こうに広がる建物はどれも見たことのない建築様式だ。
とてとてと導かれるようにミュイは窓辺へ歩いてゆく。そこにあったカーテンをぎゅっと掴み、地面から生えて真っすぐ空を目指すような建物群を眺めて「はぁ」と息を漏らした。
「びっくりした?」
後ろから話しかけてきたエルフ族へ、こくんと素直にミュイはうなずく。
「あの、どうしてこんなに建物がたくさんあるのデスか?」
「ここには魔物がいなくて、その代わりに数え切れないくらいたくさんの人間族が住んでいるからよ」
両ひざを床につき、目線を近づけて少女はそう言う。魔物がいないなどまったく信じられなかったけど、頭を撫でてくるマリアーベルは嘘をついている表情ではなかった。
「……そういう場所なのですか?」
「ええ、そういう場所なの。いらっしゃい。黒猫が目覚めてしまったから、早く席につかないとお食事がなくなってしまうわ」
つられて背後に目を向けると、黒猫が起き上がって大きな伸び、そして大あくびをするところだった。
猫というのはミュイにとって初めて見る生物で、大きな目を真ん丸にして驚いているなか、ひょいとその猫は身軽な動きでテーブル席に乗った。
「あ、ウリドラはこっちだよ。今日のゲストはミュイだから、先輩は特等席をゆずってあげないと」
お皿を並べていた北瀬は、そう言って黒猫の鼻をつつく。ふてくされたように猫は「にう」と鳴くけれど逆らう気はないらしい。トトトとテーブルの上を歩いて行った。
おいでと北瀬はエプロンを外しながら声をかけてくる。
彼の声はいつもおだやかで、強制する感じはしないのに気づいたら従っていることが多い。ギイと椅子を引いてミュイが腰かけると、マリアーベル、そして北瀬から挟まれる位置になった。
「驚くことは多いと思うけど、まずは美味しい朝食を摂ってからだ。蜂蜜とパンならミュイも平気だよね」
「は、ハイ、平気です。蜂蜜は高級品ですから、ほとんど口にしませんが」
「砂国のアリライだと輸入に頼らないといけないか。そういえば養蜂場の話はどうなったんだっけ」
「第二階層の話ね。蜂は春から働き始めるから、冬のあいだに巣箱の準備だけしておくそうよ」
そう答えながらマリアーベルは蜂蜜の染みたトーストをナイフで切る。じゅわりと蜂蜜、そしてバターが染みだす光景はエルフ族の笑みを誘った。
とてもシンプルな朝食だ。焼いたトーストにざっくりと格子状の切れ込みを入れて、蜂蜜とバターを染み染みにさせる程度のものだから数分で作り終える。
しかし頬張るなりマリアーベルとミュイは瞳を線になるまで細めて「ん~~~っ!」と唸ることになった。
「んーっ、焦げ目に染み込んだ蜂蜜が……!」
「とろけそうな甘さデス……!」
少しだけ塩を振るのはいわば隠し味であり、しかしこれがまた良い仕事をする。味を引き締めて、素朴な甘味とバターの風味を引き立たせてくれるのだ。
そうしてほどよい天然の甘さを楽しんでからマグカップに入れられたミルクを口に含むと、今度は甘味が舌の上で溶けてゆく。噛むまでもない甘露な味わいに、たまらず二人はまた唸る。
「ああー、蜂蜜ってやっぱり贅沢ね。決めたわ。私も養蜂場造りを全面的に応援する」
「はは、そんな大げさな……と言いたいけど、天然の蜂蜜は確かに贅沢品だ。僕も応援しようかな。あ、そういえばプセリさんが投資を始めたらしいよ」
「え、投資? いったいなににかしら?」
「全般的に資金援助をしているみたいだ。その辺りは投資好きのザリーシュから影響を受けたのかもしれない。アリライの難民を受け入れたし、もともとブラックローズ家は民から好かれている。つまり……」
「あ、難民の歓迎会! 珍しくプセリが張り切って催し物をしていたわ。なるほど。そういうことね」
「うん、ブラックローズ家の彼女が表立って動けば、アリライから来た人たちも喜んで協力するだろうね。資金援助があれば尚更だ」
ぽんぽんとテンポよく二人は会話のキャッチボールをする。普段からこうして会話を楽しんでいるのだろうと分かる雰囲気で、姿が変わってもふだん通りだ。それが不思議だなと思う。
ミュイは「名もなき国」のことをあまりよく知らない。古代迷宮で生まれた国らしいけど、たどり着いた初日にこの二人と北国へ向かっている。
だから会話に混ざれず、美味しい朝食を黒猫と共にパクつく。テニスボールを観戦するように大きな目を右へ左へとせわしなく動かし続けた。
かつかつと食べつづけている黒猫は「聞くのは話半分で十分よ」と言うように、ちらりと金色の瞳を向けてきた。気難しいようで意外と心優しい猫なのかもしれない。
「投資はいいことだろうね。僕としては名高い鎧職人ヴェイロン、そして魔石のエキスパートであるミュイ、この2人が集うことも熱いと思っているんだ」
「ぼ、ボクのことが、デスか?」
「もちろんそうだよ。ねえウリドラ、これは僕の邪推なのかな。アリライにとって虎の子であるミュイが、このタイミングで名もなき国に訪れることができた理由を君は知っているんじゃない?」
ざくりと蜂蜜トーストを切りながら北瀬はそう言う。同時にミュイは「なるほど」と納得した。
以前から北瀬の言動は落ち着いており、ときおりこうしてざくりと鋭いことを言う。いつも子供の姿をしていたけど、恐らくはこちら側が本当の姿なのだろうとなぜか納得した。
北瀬の問いかけに対して、魔導竜の使い魔である黒猫はまともに答えない。それどころか「私はただの猫ですが?」と言うようにすっとぼけ、空っぽのお皿を背後にして床へ降り立った。
「……クロね」
ジト目で見つめるエルフ族はそう言い、残りのパンを口に放り込む。少しだけヒントをもらったせいか、もぐもぐ噛むあいだに思案の表情を見せていた。
「最近のウリドラは、国が発展することを考えてばかりだわ。なにか理由でもあるのかしら……。だけど考えるのは後回しにしましょう。まずはミュイちゃんにこの世界のことをちゃんと伝えないと」
そう言って少女はすっくと立ち上がる。
「世界のことを、デスか?」
「ええ、この世界にはしきたりや常識、そして守らなければいけないことがたくさんあるの」
それがなにか分かるかしら? と言うようにエルフ族は笑いかけてくる。
しかしなぜかこのときのミュイは、ほんの少しだけ嫌な予感がした。にじにじと近寄ってくるエルフ族を見てのものだろうか。あるいは先ほど北瀬が褒めた猫族特有の勘が働いたのだろうか。
お腹が膨れてしまった彼は、猫族としての逃げ足を発揮することはもうできない。両腕で抱きつかれて、あえなく捕獲されてしまった。
てててーっ、と軽快な足取りで歩いてきたのは黒猫だ。
わずかに開けられた戸をくぐり、水をまったく怖がらないのか水滴の浮いたお風呂の縁にぴょいと乗る。
湯気だつ浴室には湯の流れる音が響いており、機嫌良さそうに鼻歌を口ずさむエルフ族もいる。
その向こうを覗き込むや、黒猫は「ぶふーっ」と吹き出しそうな表情を浮かべた。
ミュイは桶のなかに座り込んで、大人しくお湯を浴び続けている。しかし表情は完全に失われており、まさに「虚無」そのものであったのだ。
たまに垂れてきた湯を舌でぺろりと舐める以外、まったく動かない様子にウリドラは腹を抱えて笑うほど愉快な思いをした。
「こら、笑ってはダメよ。あなたのほうが先輩なんだから、きちんとお手本を見せ……」
現れたときと同じように、ぴょいと黒猫は逃げ出す。少女が「こら!」と叱咤して、絶対に聞こえているだろうに立ち止まってくれることはなかった。
代わりに現れたのは青年で、足元を駆け抜けてゆく黒猫をしばし眺めたあと、浴室の戸に手をかけた。
「やあ、調子はどうだい?」
「順調よ。ミュイちゃんがとても大人しくていい子だから、もうすぐ洗い終わるわ」
濡れネズミとなり、泡立ったミュイは北瀬を気にすることなくたたずみ続ける。だれとも目を合わせないその表情は「もう口きかない」と言っているかのようだ。
「ごめんね、ミュイ。人と暮らす以上は、どうしても清潔にしておかないと怒られてしまうんだ」
ごしりと額を撫でて彼はそう詫びる。
猫族は毛づくろいをしっかりするので他の動物より清潔だけど、家飼いであれば多少は人の手で助けないといけない。
しかしそう伝えてもミュイは微動だにせず、完全なる「虚無」のただなかにいるようだった。
「うーん、大丈夫かな。向こうで濡れたときもすごく不機嫌そうだったし」
「きっと大丈夫よ。ミュイちゃんは大人しくていい子なの。ねえ、ミュイちゃん?」
返事は「ふすー」という鼻息だった。
静かな怒りを溜めていることに気づき、北瀬は困惑と戸惑いの表情をさらに深める。しかしエルフ族の少女はミュイのことを信用しているらしく「ほら、喜んでいるわ」と彼の心境とはまったく正反対の代弁をした。
そんな正常性バイアスによって、にっこりと少女は微笑む。
「さて、こんなものね。タオルとドライヤーを用意してくれるかしら。手早く拭かないと嫌がられてしまうと聞いたわ」
どうやら先ほど猫用品屋の店主から簡単な入浴方法を学んだらしい。シャワーを使わないのもその一環なのだろう。
きゅっと蛇口をひねり、ミュイを連れて慌ただしく浴室を後にする。用意していたタオルで全身を拭くあいだも猫族はまったく動かず、また一度も視線を合わせようとしなかった。
しかし困ったことに猫にとって最もストレスになるのはこのドライヤーの音だ。
濡れたままなのは大嫌いで、ドライヤーの機械音も大嫌いで、むっすりと猫族はふてくされてゆく。
ゴーッと熱風を浴びるあいだもミュイはまったく目を合わせず、さらには耳が横にピンと張った状態……いわゆるイカ耳になっているのを見て、北瀬は「うわあ」と引きつった表情をする。
たぶんものすごく怒っているぞ。
そう北瀬は見抜いていたが、ふんふんと機嫌良さそうにエルフ族はお手入れをしている。もはや口を挟んでも無駄だと悟ったらしく「も、もうすぐ終わるからね」とミュイに囁きかけていた。
そのとき、ついに我慢の限界がきてしまった。
ドライヤーを切り、少女の注意が他に向いてしまった隙を狙い、ダーーッと脱衣所からミュイが駆けて行ったのだ。
これまでまったく動かなかったぶん反応できず、矢のような勢いに二人は呆然とした。
「あっ、ちょっ、ちょっと待ってミュイちゃん! あぶ、危ないから! ミュイちゃん、ミュイちゃん!」
縦横無尽に室内を走り回るミュイにまるで追いつけず、かといって薪ストーブがあるから放っておけない。
ちょうど換気のために窓を開けていたのも良くなかった。爪が引っかかり、ガラッと開いた瞬間に……。
「キャッ――――!!」
少女が顔を蒼白にさせるなか、獣人の子がマンションの一室から飛び降りた。
§
お世辞にも良い天候とは言えないが、外に出た一条夫妻はまったく気にしなかった。冬らしい暖かい服装で身を包んでおり、また夫である徹は以前よりも服装が若々しくなった。
「徹さん、少し痩せました?」
「あ、引き締まったと言って欲しいな。酒の付き合いを減らしたら、そりゃあ少しくらいは健康的になってくれないと」
くすりと薫子は笑い、眼鏡の向こうにある瞳を細める。
特に出かける用事はないし、目的地もまだ決まっていない。けれど、こういうのもいいなと薫子は思う。
一緒にいる時間が前よりもずっと増して、彼もまた家庭を優先してくれている。きっかけはたぶん夢の世界に行き、一緒に遊んだことだろう。
そんなことを薫子が考えていると、徹は笑いかけてきた。
「あそこの湖はいい魚が多かった。また釣りをしたいな」
「いいですね! ただ、私もそうしたいところですが、あまり北瀬さんたちにご迷惑をかけるのも……」
うーん、と二人はそろって難しい顔をした。
夢の世界へ遊びに行きたいのだが、そう気軽に頼めるものではない。ついこのあいだマリアーベルと北瀬は結婚の約束をしたらしく、そうなると二人きりの時間を大切にして欲しいのだ。
「第三階層がどうなっているのか気になるけど、厚かましい人と思われるのはちょっとなぁ」
「本当に。ただ、新設したばかりの図書館も気になります」
勤勉な薫子は、すでに簡単な共通語、そしてエルフ語を覚えている。たどたどしい会話くらいしかできないが、言語習得のスキルを得ているので覚えがとても早い。だから正直なところ、多言語の書籍が置かれている図書館にはぜひとも通いたいところである。
うーん、と一条夫妻は再び悩み、まったく同時に溜息を吐いた。
「仕方ない、諦めよう」
「ですね。今夜あたりディナーに誘って、向こうの様子だけでも……」
などと話していたときに、つんざくような女性の悲鳴が頭上から聞こえた。
見上げたその瞬間に落下してくる物体が見えて、あれはなんだろうと薫子は凝視する。
猫のようだがそれより大きい。放物線を描きつつくるんと回転したあの毛むくじゃらな生物はなんだろう。
などと観察する間もなく、ずぼっと薫子の腕のなかに入ってきた。
「うわっ!!」
あまりのことにびっくりして悲鳴を上げ、ずべっと薫子は尻もちをつく。
しかし驚くのはこれからだった。腕のなかに収まったものは猫にとても似ているものの、骨格は人のそれにずっと近い。こちらに向けられた瞳は大きくて、ぬいぐるみのように愛らしかった。
「へっ? へっ???」
唐突に現れた珍獣と、ベランダでへなへなと腰砕けになってゆく少女を交互に見つめて、一条夫妻はどうしたらいいのか、なにを言ったらいいのかさえまるで分からなかった。
どこからどう見てもUMA(未確認生物)であり、人に見られたら大変な騒ぎになってしまう。それが分かっていても夫妻は悲鳴顔のまま微動だにできない。
「薫子さん! 薫子さん! ごめんなさい、早く、早くこっちに!!」
頭上からの大声によって、これは大変だと夫妻は慌てふためいて北瀬家へ向かってゆく。
また同時に、本日のお出かけデートが中止になることを薫子は心のどこかで予感する。そして、なぜか不思議なことに彼女の胸は高鳴った。




