第315話 魔女の庭、氷の迷宮
コオ、と冷気が辺りに満ちている。
大陸の最北端に位置するこの迷宮は、耳が痛くなるほどの静寂に包まれていた。
厚い氷で閉ざされているが故にゆるやかな風さえ吹かず、また魔物たちのほとんどは氷漬けにされたかのように動かない。無論、吐き出した息はすぐに凍りつく。
まるで時が止まったかのようだ。
生命の息吹は感じられず、ただただ無音でありながら、しかしこの迷宮の奥底から絶えず声が響いてくるように感じる。単なる幻聴かもしれないけれど、僕には氷の迷宮がまだ活動している気がしてならない。
「不思議。吐き出した息がすぐに凍るわ」
そう傍らから声がする。寒いぶん空気が澄んでおり、いつもより綺麗な響きだった。
振り向く少女の瞳もそうだ。普段より鮮やかな薄紫色をしていて、本物の宝石のようだと思う。エルフ族の少女としばらく身動きせずにいたのは、この静ひつな空気を味わうためだった。
「うん、冷凍庫にいるみたいだね。いつもとぜんぜん違う光景だ」
「ええ、本当に。寒くて寒くて指がかじかんでしまいそう」
手袋で覆った指先をこすり合わせてそう言うが、この零下でかじかみもしないのだから身にした衣服の上等さが伝わってくる。
行きましょうと囁かれて僕は足を進めることにした。
かつんかつんと靴音を響かせて、光精霊に先導させる形でエルフ族が歩いてゆく。照らし出される横顔は、まだ幼さを残して見えた。
「冬の青森はもっと寒いの?」
「まさか。山からの強風が吹いてくるから体感温度は比較にならないよ」
おっと、しまった。つい口が滑ってしまったぞ。
少女は寒さにめげず、たった今まで幻想的な光景を楽しんでいたというのにガタガタと震えだした。
「~~~……っ! ほっぺをつねるわね」
「えっ! なんで!?」
ぶにいっとつねられたのはなぜなのか。
単なる腹いせなのだろうけど、あまり正直に言い過ぎると良くない結果になることを知った。
そんな僕らを不思議そうに眺めているのは猫族のミュイだ。彼は犬のようなものの背中に乗っており、滑りやすい地面への対応策を見出したらしい。おまけにふかふかの毛皮に包まれて温かい思いをしているのだから、ある意味で猫族らしいなと思う。
彼はピンク色の鼻で、スンスンと匂いを嗅いでいた。
「カズヒホ様、ウリドラ様が見当たりまセン」
「うん、心配しなくていいよ。なにか面白いものを見つけたんじゃないかなあ」
「盾役が聞いて呆れるわね。私たちを放ってどこかに行くだなんて」
う、うん、危険な魔物はみんなマリーが倒しちゃったし、ある意味で問題ないんじゃないかな。
それよりも今の問題は僕自身か。剣が鞘に凍りついてしまいそうなほど活躍しておらず、そもそもアインボルス山岳地帯に足を踏み入れてからただの一度も剣を抜いていない。
それでいいのかと後ろ指をさされかねないけれど、実は楽しんでいたりする。こうして彼女と世界各地を歩いて回るのが僕にとっての夢だった。
少女から不思議そうな表情で見つめられたけど、しっかとつないだ手を離そうともしないから僕の口元はゆるんでしまう。
「どうして表情がゆるんでいるのかしら。ここが危険なところだと分かっているのかしら」
「もちろん警戒はしているよ。ただね、こうしてマリーと歩いて回ることが最近は少なかったから」
「あら、そういえばそうね。古代迷宮の攻略はいつも大人数だったし、これくらい好き勝手に歩き回れると気持ちがいいわ」
景色もいいし空気も綺麗だ。しかし彼女にとって悩ましいのは、この底冷えする寒さだろう。じっとしていたらいつか凍りついてしまいかねない。
そんな主人の気持ちを知ってか、一頭の真っ白い犬のようなものが尻尾を振りながら寄ってくる。ふさふさの毛皮をこすりつけてきた子に、少女はお礼をするように頭を撫でた。
あれは「彷徨い犬」と呼ばれているれっきとした精霊で、新芽を運ぶ役割があるのだとか。きっと森の広がりを手助けしているのだろう。
体温を分けてくれる精霊に機嫌を良くしたのか、こちらに向けてくる表情は笑みを浮かべていた。
「ええ、私も楽しいわ。寒いけど。謎がたくさん隠されていそうな迷宮だし、あのシュシュという魔女もきっとなにかを企んでいるでしょうね」
きらんと瞳を輝かせて彼女はそう言う。
決して悪い魔女には見えなかったけれど、僕は大陸を旅しているあいだに何度か魔女と会い、だまされて煮えたぎる鍋に放り込まれた。当時は単なる悪夢として終わったので、煮られてからどんな目に遭わされるのかは知らない。
「考えていたこととまったく異なる結果に導くのが魔女だからね」
「ええ、決して油断はしないこと。私たちを子供だと思わせて、逆に油断させておくくらいでちょうどいいわ」
なるほど。確かに。
マリーはエルフ族だから幼く見えて当たり前だけど、僕の実年齢は外見と大きく食い違うのだ。つい先ほど、しげしげと観察してきたヘーゼル色の瞳を思い出す。
などと考えていたときにクイと少女は手を引いてきた。
「見て、崖……ではなくて吹き抜けかしら」
ゆるやかな風が吹いてくる先へ、おそるおそるという足取りで彼女は近づいてゆく。寒さをだれよりも嫌がるエルフ族は、小さな指先で僕の手をにぎりながら下をそっと覗き込んだ。
コオオと白く凍った風が見える。足元からすぐ先は数階層下まで見える崖となっており、ぶるっと腰を震わせたのは漂う冷気によるものだけではないだろう。
「なんて寒々しい光景……! 信じられないわね。お腹がキューッとするし、どうしてこんな恐ろしい光景を作ったのかしら」
などと言いながらも、ちらっちらっと下を覗き込む。どうやら怖いもの見たさが勝ったらしく、その場で何度か少女は足踏みをしてから思い切り僕に抱きついてきた。嫌だわ、もう、と文句を言っている表情を、とても可愛らしく思った。
ほう、と僕も真っ白い息を吐く。緩やかな風に流されて、あっという間にどこかへと消えてしまう。
北の最果てにある迷宮は独創的だ。
どこもかしこも白く凍りついているのだが、ここみたいに透明な氷で包まれた場所もある。だから足元が頼りなく、エルフ族は迷宮に入ってからというもの僕の手を掴んで離さない。
しかし、このような場所ではしばしば好奇心によって新たな発見をすることもある。覗き込んだ先に人影があるのを僕は見つけたのだ。
「あそこを見てごらん。ウリドラ、それとザリーシュかな。ぐったりして見えるのはケガをしているのかもしれない」
「あら、本当だわ。彼って強そうに見えて、不思議と傷を負うのよね。きっと大丈夫でしょうけど、急いで行きましょう」
まあね、僕もあまり心配をしていない。
というのも彼はとにかくしぶとくて、黒薔薇の騎士としてプセリさんに仕えるようになってからというもの最前線に居続けている。
音速以下の敵であればほぼ無敵……のはずが、ああして膝をつくことも多々ある。などと本人の前では決して言えないことを僕は思った。
彼女の手に引かれて僕も歩き出す。
技能を使ってあの場に転移をしなかったのは迷宮の情緒を楽しむためであり、彼女と手をつないで歩きたかったわけではない。いいね。
先ほど見えていた場所に辿りつくや、僕とマリーは目を丸くする。
というのもザリーシュが壁際にうずくまり、もうもうと全身から白煙を上げていたのだ。
時おり、ジュッと蒸発するような音が鎧の内側からする。大丈夫なのだろうかと疑問に思い、傍らのウリドラに視線を投げかけると、彼女は興味なさそうに肩をすくめていた。
「いや、気にするな。この鎧には治癒の効果もあるのだが……グッ!」
聞けば右目を失うほどのケガを負ったらしく、治癒の痛みに耐えかねて彼はガンと壁を殴っていた。
「~~~……っ! やはりまだ改良の余地があるな!」
そうわめく様子が怖かったのか、マリーはそっと僕の後ろに隠れた。彼女は大声を嫌がるところが昔からある。
治癒がだいたい終わったらしく彼はようやく起き上がった。
「待たせたな。もう大丈夫だ」
「治癒を使える人がいたら良かったんだけどね。まさか迷宮に挑むとは思わなかったよ」
「……いや、それは構わない。恐らく2、3日もあればヴェイロンのいる最下層まで辿り着くだろう」
こきんと首を鳴らしながら彼はそう言う。
普段通りの態度だ。しかしなぜだろう。兜で顔が見えないせいか、いつ斬りかかられてもおかしくない気配がある。
気になるのはもうひとつあった。それは僕らを先行する形でこの場に来たウリドラだ。彼女は普段よりもずっと口数が少なく、なにを考えているのか分からない。
合流したし、みんなで頑張って攻略しよう! という空気でもない。ほら、僕は社会の荒波にもまれているから、ピリついた気配に人一倍鋭敏なんだよね。
空気を読むのは現代人の必須スキルだ。
そして空気を読まない発言もときには必要だ。
「じゃあ攻略を再開しようか。ザリーシュ、しばらくはマリーに任せて、傷の治療に専念したほうがいいと思う」
彼は返事をせず、代わりに手にしていた剣を振るって鞘にがしゃんと納める。どうやら了解という意味らしい。
そのまま僕とマリーを先頭に歩き出すことになったけど……この嫌ぁーな気配はなんだろうね。困っちゃうな。
まさか喧嘩でもしたのかなと魔導竜に目を向けると、彼女はそっぽを向いており目を合わさなかった。
だてに彼女とのつき合いが長いわけじゃない。こりゃあ本格的になにかを企んでいるなと僕は睨んだ。
はてさて、魔導竜様はどんなことを企んでいるだろう。
彼女の場合、より良い方向に導くときがある。ぱっと見では嫌な状況に向かわせていると思わせて、実はこうしたほうが正解だったと後にして思うことが多いのだ。
竜っていうのは本当に理解しづらい生き物だよね。
ともかく彼女がそうと決めたのだから、深く詮索をしないことに僕は決めた。
かつんかつんと通路を歩きながら、ふと生じた疑問を投げかける。
「ザリーシュが苦戦をしたという魔物は、どんな奴だったの?」
「会話できるほど知性のある魔物だった。男女で連携して、特殊能力まで持っていた。あれは他の迷宮では見られないタイプだ」
その言葉に驚き、すぐ隣にいる少女と目を合わせた。
僕は大陸をくまなく歩いたけれど、これまでに知性のある魔物に出会ったことはないのだ。恐らく彼女も同意見だろう。
いままで静かだったマリーも思うことがあったらしく、薄紫色の瞳をわずかに輝かせた。
「なぜかしら。迷宮の理から切り離された魔族であれば知性があるのは分かるけれど、この迷宮に知的な魔物がいるだなんて」
「カルティナもそうなってしまうのを恐れてシャーリーの傘下に入ったよね」
そうそう、魔族なら知性があってもおかしくない。カルティナもその一人であり、またダイヤモンド隊には複数名の魔族がいる。
おとがいに指先を当ててマリーは考え込み、しばらく経ってから口を開く。
「迷宮がそうなるようにしているということね」
その言葉に僕らが「?」という顔をすると、なぜか少女は得意げな表情を浮かべた。
「迷宮というのはシャーリーがしているように生命を循環させているでしょう? 倒してもまた元の姿として戻るけど、戦闘力だけを期待しているせいか知性までは戻さないわ。だから知性があるというのは迷宮の意思ということになるの」
ほう、感心の声を後方にいるザリーシュが漏らす。
「不要なはずの知性をこの迷宮ではあえて残しているということか。なぜそうしているのだ?」
「前例がないから分からないわ。だけどあなたが苦戦をしたくらいだから、本来の意思を残すことに何かしらの意味があったのでしょうね。あり得ないでしょうけど、もしかしたら迷宮の主と仲が良くて気に入られているだけかもしれないわ」
意志を持たせることにも意味がある。
その言葉を聞いて、ザリーシュはまた口数を減らす。兜を被っており表情は読めないが、物思いにふけっているようだ。
僕らには気づけなかったが、彼は懐にある黄金色の指輪に触れていた。芸術的な文様を刻む美しい品であり、ダークエルフの生み出した逸品だ。
会話をしたおかげで落ち着いたのか、それまでしがみついていたマリーは身体を離す。僕としては温もりが遠のいてしまい残念ではあったが、元気を出してくれたのだから良しとしよう。
それよりも先ほどから一言も話さないウリドラのほうがずっと気になっているのは言うまでもない。
§
赤々と燃える石炭に、デンと火とかげが寝そべっている。
あれから強敵といえる強敵は現れず、3階層ほど降りたところで貴重な岩場を見つけたため、ここで休息を取ることになった。
掘り出したばかりのものを手渡すと、火とかげは小さな指で掴み返してくる。
地層から覗いている石炭を見つけられたのは幸運だろう。凍りついていたものの近くには焚き火をした跡があり、ここまでどこかの国の攻略隊が入りこんだのかもしれない。
もちろん寝床に困ることもない。少女が石精霊を操って小屋を建てるのはもう見慣れた光景で、ひょいと中を覗き込むと石造りの狭い場所には複数頭の彷徨い犬が寝そべっている。
「え、もしかしてベッド替わり?」
「そうよ。ふかふかして温かいの。これなら気持ち良く眠れるわ」
精霊をベッドとして使うのは贅沢だと思うべきなのだろうか。
見れば僕らと離れた場所にも彷徨い犬がおり、早くもミュイが寝そべっていた。狭い場所に丸くなってもぐりこんでいるのは、やはり猫族らしいなと僕は思う。
「二人とも、小屋に入らなくていいの? あなたたち用の部屋もあるのよ」
そう戸口の向こうにいるウリドラとザリーシュに少女は問いかける。
先ほどの火に当たっており、ザリーシュは面覆いを半ばまで開いて物思いにふけった表情を覗かせている。
「俺はここで構わない。鎧の力で数日は寝ずに済む」
「わしもここでいい。静けさにまぎれて狼が入りこむかもしれん」
火に照らされているせいか、彼女の笑みには迫力があった。
マリーが困った表情を向けてきたので僕は肩をすくめる。魔導竜様に思惑がある以上、僕らにできることはない。せいぜい荒波に巻き込まれて、溺れないように気をつけるくらいだ。
マリーも諦めたらしく、厚いコート、それに帽子を脱ぎながら僕に近づいてくる。部屋は犬たちの体温で暖められていて、すでに衣服は必要なかった。
僕が突っ立ったままなのは、どうやって精霊に寝そべったらいいのか分からないからであり、それを見抜いたらしく少女はクスリと笑いかけてくる。
「しー、静かに。この子たちを起こしたら大変よ。眠りかけのとき、ぺろんと頬を舐めて起こそうとするのが大好きな子なの」
ん、これは立場が逆転しているな。
僕の腰に手を回してきて、少女はゆっくりと僕を横にさせる。
すぐにふわふわの毛に包まれて、驚くことに体重をしっかりと支えられる。近くでピクピクしている大きな鼻は、僕らの匂いを嗅いでいるのかもしれない。ぼふんという尻尾を振る音もした。
「すごいな、ぜんぜん嫌がられない。重くないのかな」
そう口にすると、笑みを浮かべたまま美しい顔が近づいてくる。
のしりと上に乗ってくるや「ええ、私が使役しているもの」と口にして、それから長い髪の毛を指ですく。
くあーっ、と彼女は欠伸する。
小さな舌が覗いてどぎまぎするけれど、長く歩いたせいで彼女はもうおねむだ。いつものように太ももと腕を乗せてきて、瞳をだんだん閉じてゆく。
そのまま眠るかと思いきや、ぴょこんと彼女は顔を上げた。
「ミュイちゃん、戸の鍵を閉じてしまうからトイレに行きたかったら今のうちよ」
少し離れた場所で、ぴょんと三角形に耳が持ち上がる。
それからマリーと負けず劣らず眠そうな瞳をミュイは見せて、鼻をひくひくさせながら外に向かってゆく。
なるほど、僕らが向こうにいるあいだ、鍵を閉めて外敵が入らないようにするのか。いつもなら平気だけど、今夜はミュイがこの場に残るからね。
バタンと戸が閉じるのを見て、薄紫色の瞳がくるんとこちらを向いた。
「向こうに着いたらお風呂に入らなくちゃ」
「いつもは第二階層の湯に浸かっていたからね。このあいだイブから聞いたけど、たくさんマッサージをしてからお風呂に入ると気持ちいいらしいよ」
「あら、そうなの。どんな風になるのか知りたくてたまらないわ」
目覚めたら向こうは休日だ。今日はがんばって攻略をしたのだし、ならば少しくらい良い思いをさせてもいいだろう。
そう考えつつ、すう、ふう、という少女からの寝息を聞く。
すう、ふう、と眠気を誘う呼吸を聞き、僕の身体は力を失ってゆく。
こわばりが消えて、温かい体温に包まれて、すう、ふう、と僕もまた眠気に満ちた息をする。
そのときに、ゆっくりと戸が開いて猫族が姿を見せる。
彼は眠くて仕方のなさそうな大あくびをして、頼りない足取りで近づいてくる。
瞳はもうすでに閉じかけだ。
温かそうな空気に誘われるまま足を進めて、ぼすんと寝床にもぐりこむ。
ちょうどそのとき、外にいたウリドラが「おや?」と言葉を漏らしていた。というのもミュイが寝ころんだその先は、エルフ族と少年のちょうどあいだだったのだ。
すう、ふう、という寝息に包まれるうち、彼らはこの世界からゆっくりと姿を消した。




