第313話 彷徨い犬たち
くるくると女の子の指先が空気をかきまぜる。
暗い暗い闇のなか、火花よりも頼りない光の粒子が生まれてゆき、それが数を増してゆくたびに少女の肌をさらに照らし出す。
白魚のような手だ。
ほっそりとしており工芸品のように美しい。
そうっと光に寄せられた唇はやわらかそうな曲線を描いており、その艶はどこか色づいた果実を思わせる。
ふうーーっ。
まるで種火に空気を送るようだった。そうして彼女が息を注ぐと光量を増し、すぐに羽ばたく精霊が姿を現す。
唇をゆっくりと開く女性は真っ白い髪を長く伸ばしており、光に透けさせるとやはり工芸品のように美しかった。
「光の精霊よ、私たちの進む道を照らしなさい」
精霊に通じるエルフ語の求めにより、光の精霊は「いいよ」と言うように幾度か羽ばたきをして宙に飛び立つ。
すると精霊は光量を増し、精霊魔術師である彼女、マリアーベルの毛皮をふんだんに使った服装まで露わにする。
光の精霊によって闇は取り払われ、彼女は迷宮の光景を目の当たりにする。
「な、なんてことなの……!」
彼女の身体はぎしりとこわばる。宝石のように美しい薄紫色の瞳を見開き、わなわなと唇を震わせてさえいた。
それもそのはず、つるーんとすべりそうな氷の床が一面に広がっていたのだ。
「こんなの絶対に転ぶじゃないの!」
「ま、まあまあ、こんな地域なんだし予想もついていたから……」
「私は知っているわ。こういうときに『押さないで』って言うのよ。テレビで見たもの。そしてお気に入りの毛皮を水びたしにして、熱々のおでんを食べることになるんだわ!」
はわわわ……! と頭をかかえて悲壮な表情をしているけど、別に「押さないで」とは言わなくていいと思うかなぁ。おでんも用意していないし、そもそもお約束を守るエルフ族なんて聞いたこともない。
せっかくこの迷宮に辿り着いたというのに、ついさっき何度も転びかけたものだからマリーはすっかり恐怖が身に染みついてしまった。
はて、うずくまった姿勢で、ちょいちょいちょいと僕を招き寄せるのはなぜだろう。後ろを見てもウリドラが「さっさと行け」とばかりに冷たい瞳を向けているし、ミュイだって不思議そうに小首をかしげている。
仕方なく近づいてゆくと、ごく当たり前のようにエルフさんから腕をがしっと掴まれた。
「まあ、私が転ばないように助けてくれるのね。あなたのそういう優しいところ、好きよ」
うん、僕も好きだよ。こういうときにすごく綺麗な笑顔を浮かべるところが。
へっぴり腰のまましがみつき、一番安定するように彼女はつかむ位置を幾度か調整する。それから杖を持ったほうの手で、いくつかの光精霊を連続してパパッと生み出した。
「見て、天井がすごく高いわ。迷宮というより氷の鍾乳洞という感じかしら」
「うわ、綺麗だな。つららがどれも透明だ。すると溶けたり凍ったりを繰り返しているのか」
凍りついた透明の下り階段に向かいつつ、あちこちに僕らは目を向ける。
魔物はびこる迷宮と聞いているし、あまりのんびりとはしていられない。けれど普段なかなか味わえない景色なのは確かだ。
「ん~~っ! 下を見ちゃだめ、下を見ちゃだめ……!」
しかし少女にとってこの景色は、魔物などよりもずっと恐ろしい。
きしきしと透明な階段は踏むだけできしみ、まだまだ先まで続いている。光の精霊が少女をはげますように周囲を飛んでいても、臆病なエルフさんを落ち着かせるには至らない。
「あ、魔物だ」
そうこうしているあいだに、降りた先にある広間では魔物たちが姿を現わす。
地形的に不利であり、絶対絶命かと思いきや「そっちは別に怖くありません」と言わんばかりに光の精霊から真っすぐの光線がビャーッと奔り……えっ、なにいまの。レーザー?
哀れ魔物たちは鋭利な爪を振りかざすことはおろか、戦闘開始の音楽を鳴らすことさえもなくビスビスと無数の穴を空けられて崩れ落ちてゆく。あまりにも遠いせいで「ギャア」「クウ」というかすかな声しか聞こえてこない。
うわあ、かわいそうに。だけど高レベルとなった精霊魔術師様が相手なのだから無理もない。
「い、急いで下を掃除するわ。これじゃあ怖くて降りられないもの」
ひくひくと下まぶたのふくらみを震わせてそう言う。
そんな愛らしい姿にも関わらず、十体もの光精霊が横一列になって飛び立つや縦横無尽に白銀色の光線を撒き散らす。この世の終わりかな?
ビャッビャッ、ビャーーッ! という光と音は僕でさえも軽い恐怖を覚えるほどであり、しかしエルフ族の娘にとっては「さっさと魔物を片づけて下に降りたい」という念があまりにも強い。強すぎる。
そのとき、ずしんと大きな足音を立てて現れたのは、ふさふさの白毛でおおわれた魔物だ。鋭い牙を覗かせて、ゴオオと吠えるのは確かに恐ろしい存在だったろう。この恐慌状態に陥りかけているマリーと出会いさえしなければ。
「じゃまじゃま、あなたたち邪魔ですよ!」
ギャッ、ギャオオオオーーッ!
うわあ、ひどい。見た目からしてたぶん雪男みたいな存在なのだろうけど、ずっと遠くのほうで叫んでいるだけだなんて。
周囲を円状に光精霊たちが廻っており、そこから絶えず光線を浴びせてくるのだから、泣き叫ぶのも逃げまどうのも無理はない。あんなの僕だって泣く。
「いまのうちよ、降りましょう!」
「う、うん、ちょうどマリーが全滅させたしね」
ともあれ安全なのはいいことだ。ひょいと少女を抱きかかえると、そのまま転移をして氷像と化した魔物だらけの広間に辿り着く。僕に抱きついたまま、ほうっと少女は安堵の息を吐いていた。
かつんと足から降ろしてあげながら周囲に目をやる。
僕の知る限り、ここは大陸における最北端に位置する迷宮だ。魔女の住む地とあってか、他の迷宮に比べておかしな光景だなと思う。
たとえば、カキキキッと凍りついてゆく魔物がそうだ。真っ白に染まってゆき、やがて限界を迎えてバキンと砕け散る。粉雪のような跡を残して、死骸は完全に消え去った。
「あ、シュシュさんからもらったお守りが……」
細かな氷が吸い込まれてゆく先は、つい先ほど魔女のシュシュさんから手渡されたアイテムだった。太陽を模したペンダントであり、彼女の手作りの品なのだとか。
どういう仕組みなのか少女も気になるらしく、すぐ隣から薄紫色の瞳でまじまじと見つめてきた。
「……魔石や魔素とも異なるわ。魔物の存在を吸い込むあたり、精霊のように純粋な存在に変えて、このペンダントで取り込んでいるのかしら。北の迷宮はかなり変わったところなのね」
「見てごらん、数値が増えている。これをいっぱいにして、ヴェイロンさんは鎧に使っているんだね。聞くところによると巨人までエキスに変えてしまうのだとか」
見つめ合った僕らは互いの目元に笑みを浮かべる。
ペンダントには細かな装飾が成されており、恐らくはいまの戦闘で得た成果として「HP増強+」「耐冷風」などという小さな文字がいくつか浮かび上がる。
まったく知らない知識、まったく知らない技術というものを目の当たりにして、好奇心が高まってゆくのを感じた。
「んふふ、なんだか楽しくなってきたわ。じゃあこの調子でどんどん溜めてみましょう」
「うん、そうしよう。もしかしたら僕らの防具を作ってくれるかもしれない」
などとしたたかな算段をしていると、かつんかつんと靴音を響かせてウリドラたちも降りてくる。ミュイはやはり爪が滑るのは嫌らしく彼女の腕のなかに収まり、広間に辿りつくや地面にタッと降り立っていた。
「厳しい気候で人を寄せつけぬアインボルス山岳丘陵は、めったに魔物たちが姿を現さぬ。代わりにこの迷宮で目を覚ますのは、あの魔女に幽閉されているのか、あるいは他の力が働いておるのか……」
「気候も普通じゃないよね。一晩ですべて真っ白に凍りつくなんて」
そう答えると長いまつげに縁どられた瞳を向けてくる。そして太い尻尾をぶうんと振りながら歩き出す。
「そのような謎も、先に進めばやがては解けるじゃろう。かつて国として栄えた地を地道に歩くがよい」
「あら、聞いたことがあるわ。北の最果てにはかつて魔術に長けた国があったことを。不思議なのは、ありとあらゆる文献に国としての名さえも遺されていないことね」
ほう、とマリーに感心しつつ僕も歩き出す。
というのもずっと以前にこの地を旅したとき、僕は国としての痕跡を探し続けたのだ。昨日、この地を調査した学者について触れたけど、彼も恐らくは僕と同じ目的だったろう。
その一端を、知の宝庫である古書室からわざわざ探し出したのだから、マリーと僕はどこかで趣味が合っているというか似たようなものに興味を抱きやすい。
空中の水分が凍りつくせいか辺りはシンと静まり返っており、僕らの発する靴音や声がよく響く。そのあいだもマリーは新たな精霊を呼び出して、寒さで動きのにぶい火とかげではなく、真っ白い犬のようなものを具現化させていた。
「うわー、毛でもこもこだ。触っていい?」
「んふふ、可愛いでしょう。だけど匂いを嗅ぐのが大好きな子たちだから……そうそう、そんな感じで向こうから勝手に寄って来るわ」
まんまるの目を向けてきて、茶色い鼻を押し当ててきたと思ったらクンクンと猛烈に嗅いでくる。うっわ、可愛いなぁ。
真っ白い毛並み、それにピンと三角形に立った耳が特徴的だろう。身体つきも大きくて、日本だと大型犬に分類されると思う。
「彷徨い犬と呼ばれる精霊よ。森をうろうろして、あちこちで芽吹きを誘うの。たまにあなたみたいな旅人を脅かして遊ぶわ。眠りかけに邪魔をするのが大好きなの」
「ひゃああーーっ! すごい嗅がれマスっ!」
大きな悲鳴に振り返ると、ミュイは群れに取り囲まれてクンクンクンと嗅がれていた。慌ててウリドラの腕にまたも退避をするのだが、その真っすぐの瞳を向けてくる様子にはたまらずウリドラも吹き出す。
「ふ、ふ、やはりおぬしらと同じ道を歩むのは楽しい。どれ、腰が冷えてしまう前に先へ進むとしよう」
ピュイと口笛を吹くや、白い毛玉たちは駆けてゆく。どうやら魔導竜にとって他者の精霊を操ることは造作もないことらしい。
残した足跡からつららのように芽を伸ばしてゆく様子はやはり不思議だ。そんな光景を生み出した張本人はというと光の精霊たちを手にまとわりつかせて、先ほど彼らが使い果たした力を補充させてゆく。
「マリーはどんどん頼もしくなっていくね」
「あら、やっと私の実力に気づいたのかしら。でもそうね、あなたも頼もしく思えるわ。私の腰をきちんと支えてくれるもの」
そっけない表情で言いつつも、ぴとりと身体を寄せてくる。こちらの背丈も低いから宝石のような瞳はすぐそこまで迫り、そして視界いっぱいに少女は笑みを浮かべた。
やはり信じられない。この愛らしい子が無数の精霊を操り、ずっと遠くでオンオンと鳴いて魔物を追い立てているだなんて。
地面をついた杖は無尽蔵と思える魔力を生み、僕らの視界の外で確実に着実に魔物たちの数を減らす。
だというのに僕の腕をしっかとつかんで離さないその様子に、僕はようやく真相に気づく。
「あ、精霊をけしかけて魔物を近づかせないのは、もしかして僕に剣を振らせないためかな」
「気づかれてしまったようね。観念して私が転んでしまわないように集中してくれるかしら」
喜んで、と答えるのは剣士としていかがなものかと思うけど、最近の古代迷宮攻略ではずっと離れ離れで進んでいた。兵数が増えるに従い、前衛と後衛のあいだに大きな溝が生まれたからね。
なら、たまにはいいだろう。歌のように美しい精霊語による旋律を、すぐ近くで聞き続けていられるのだ。こんなの僕でなくとも喜ぶさ。
そのように普段の迷宮攻略とはまるで異なり、それこそ水族館を歩くような気楽さで僕らは前に進むのだった。
§
がんっ、とブ厚い氷が砕けるような音が響く。
しばしの間があり、続けてガガガガッと連続的な破壊音も鳴り響く。
地下4階まで辿り着くと氷を透かす陽光さえも届かず、辺りは闇と化しているのだが単身で挑む男にとっては苦でないらしい。
大盾を軽々と操り、大型の氷獣を壁に縫いつけたまま目にも見えぬ速度で切り刻む。
どこの攻撃で絶命を誘ったかは分からない。
ずるっ、ゴトッと相手は崩れ落ち、無数の破片となって砕け散った。
「……ふむ、やや手ごわい。これを日課のように処理しているとなると、あの魔女の力も大したものだ」
黒色の全身鎧で身を包むザリーシュは、ぼそりとそう言う。
彼の力は健在だ。
指輪を奪われたことで大幅なレベルダウンを生じさせたものの、古代迷宮の最前線を歩み続けたことでだいぶ力を取り戻した。
そこにヴェイロン製の防具を組み合わせることで全盛期――かつて勇者候補と呼ばれていた時代となんら変わらぬ領域に辿り着いていた。
実際、アリライ国における最高峰の騎士、雷光の騎士を単身で打ち倒したこともある。
と、音もなく飛翔してきた魔物を、ガンと大盾で防いでから壁に叩きつける。直後、音速を超える自動反撃などという超性能のスキルが発動して、蜘蛛の巣状にヒビ割れていた氷壁ごと破砕する。
魔物にとっては最悪だろう。もがくだけで生命力をガリガリ削られて、しかもそれを成しているのは単なる自動発動スキルなのだ。
ピピッという音とともに兜の隙間から緑色の光線を飛ばし、迫りくる魔物を補足する。
月と星の刻まれたペンダントを輝かせながら、彼はこきんと首の骨を鳴らした。
「まだ半分にも満たないか。どうやら長い夜になりそうだ」
鎧職人のヴェイロンを第二階層へ呼び寄せるため、この「間引く」仕事を頼まれた。
ただそれだけであるはずなのに、どうも嫌な予感が胸を占める。
目の前の魔物などまったく恐ろしくはない。
だが、どこかでだれかが見ているように感じるし、その視線がどんどん熱を帯びてゆく気がする。
3体同時に首を薙ぎ落し、その隙間から飛来するガラスのように透明な矢を音速で迎撃し、一歩進むたびに一体ずつ屠ってゆく。だというのに真綿で首をじわじわと絞められる感覚があって困る。
「……カズヒホと合流するか」
以前であれば、己のプライドが邪魔をして決して口にできなかったことを言う。
なにも臆病風に吹かれたわけじゃない。ずっと以前からそうだったが、どうも彼らの進む道というのは神から祝福されているように穏やかなのだ。
敵の数が減るわけじゃない。
彼らもザリーシュと同じ道をこれから歩む。
しかし決定的なまでに食い違うというべきか、まったく異なる攻略をしている気がしてならない。
たとえば、これだ。
黒色と白色というまったく異なる色あいをした人型の魔物が現れて、進むべき道と退路の両方をふさいできた。
「ジュピター、彼の指をもらうわ。薬指がいい。とても綺麗だから」
極彩色のアゲハ蝶を腕にまとわりつかせる女は、氷よりもずっと白い肌をしてそう言う。
「では、私は目玉だ。右がいい。右目は理性を司るからな」
後方から迫るのは真っ黒い男で、顔は整っているのに裸体だ。胸のあたりにクロス状に鎖をかけているのはどんな意味があるだろう。
知性ある魔物とはこれいかに。
どことなくホラーの領域に足を踏み入れたように恐ろしく、あのような敵とマリーやカズヒホたちが相まみえる光景というのをどうも思い浮かべられない。
もしかしたら俺には運というものが足りないのだろうか。
などと思い「フウ」と気のない息を吐いてから重武装のザリーシュは一歩ずつ歩む。
敵を恐れはしないが、背筋がぞわぞわする感覚だけは残っている。
もしやと思うのは、カズヒホとの合流でさえも阻まれるのでは、などという確信めいた予感だ。
ふわりと無数のアゲハ蝶が舞い、それとまったく同じ極彩色をした瞳が開かれたときに彼らの戦いが始まる。
すぐにザリーシュは、両の薬指と右目を奪われた。




