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第312話 氷の迷宮、魔女の私室

 まだ早朝という時刻に、僕らは昨夜過ごした河原から遠ざかってゆく。振り返ると川は白く凍りついており、厚い氷の底からかすかな水音を響かせている。

 頬を撫でてゆく風はとても冷たくて、この坂道も氷のようにカチカチだ。


 先導して歩いてゆくのは三角帽子をかぶった魔女らしき装いの人物で、振り返ってくるとヘーゼル色の瞳を向けてきた。彼女はシュシュという名らしい。

 きれいな人だろうと思うけど、じっと見ていてもなぜか顔の印象をうまくとらえられない。年齢さえもよく分からないのは不思議だ。


 肩までの髪は瞳よりも明るい色で、それを指でいじくりながら彼女は唇を開く。


「昨日はうちのネネをたくさん可愛がってもらったね。あ、おかしな意味じゃなくって、そのままの意味かな」


 声は少し中性的だろうか。表情と同じく気さくな口調に、少しだけ僕は安心した。魔女というのは気難しいというのが相場だからね。

 これは実体験だけど、黒い森の奥深くには骨が溶けるくらい鍋で煮込むような恐ろしい者だっているのだ。


「いえ、そんな……って、まったく可愛がった記憶がないのですが」


 はて、いくら思い出そうとしてもやっぱり仲良くした記憶はない。そもそも目が覚めてから初めて猫族とは顔を合わせたのだし。

 そう思って隣を見ると、凍った道を駆けてゆく猫族が、びーっと赤い舌を見せてきた。あれぇ、むしろ嫌われていない?


「ふふ、君たちの知らないことだって起こるんだよ。魔女の住んでいるこの山ではね。いや、今回ばかりは私の知らないことも起きているのかなぁ」


 どういう意味だろうと首を傾げていると、すべてを知っていそうな瞳を彼女は細める。


「魔導竜、精霊魔術師、スポンサーであるかつての勇者候補、希少な希少な猫族のお友達……」


 指折り数えているのは、どうやら同伴者のことらしい。そして魔女は、最後に立ったままの小指を僕に向けてきた。


「どうも私は君のことが一番読めない。影のように地味なのにちょっとした知的好奇心を覚えてしまうのは、たぶん魔女の血のせいかな」


 にこりと笑みを深めた彼女は、僕に向けてまっすぐ手を伸ばしてくる。

 なるほど、確かに魔女だな。スローモーな時間のなかで、たくさんの雪の結晶が吹き抜けてくる光景を見てそう思う。


 しかし僕の予想は半ば裏切られる。僕の肩に触れるなり、くるんと背後を向かせられたのだ。


「あの?」

「君はあっち。可愛い女の子をあまり泣かせたらいけないな」


 どうも魔女というのは不思議な言葉使いをすることが多い。だけど人をおちょくって遊ぶのは善き魔女の傾向がある。人に興味を抱いているかどうかで魔女としての在り方は大きく変わるのだ。

 そう考えつつ彼女の指し示す先、坂道に視線を戻すと……僕はぎょっとした。そこには内股になって震えているエルフ族の少女がいたのだ。


「あっ、足元が滑りそうよ! カズヒホ、お互いに気をつけないといけないわ!」


 大変だ、我が家のエルフさんがへっぴり腰になっている!

 立派な杖にしがみつき、もはや呼吸さえもままならない様子に、あわてて僕は駆けだす。

 どうやら一歩も動けないらしく、近寄ると少女は必死の表情で腕を伸ばしてきた。


「大丈夫? まさか一晩でこんなに凍るなんて思わなかっ……」


 がしりと奥襟を取られた。

 え、待って。もしかして周りから見たら、柔道の組み手みたいになっているんじゃないのかな。僕の気のせいだと思うけど、つるると氷で滑るたびにマリーの足はガニ股に近づいてゆく。もはやどこからどう見ても柔道の構えのそれだ。


「あの、マリー? えっと、大丈夫? まず奥襟を離してくれない? そこをつかまれると僕も動けなくて」


 破れそうなほど奥襟をつかんでいるマリーは、ギギギとぎこちなく前のめりだった身体を起こす。そして僕の世界で最も愛する恋人は、恐怖でひきつった顔を見せてきた。


「あ、動けないんだね? そっか、ウリドラに靴も用意してもらえば良かったのに。そうそう、僕はこう見えて悪路にとても慣れているから、おんぶをすることだって……」

「わ、分かるかしら。見ての通り、いまは余裕がまったくないし1ミリだって動けないの! いつもと違う高級なコートを着ているから、これ以上足が開いたら破れかねないと分かって頂戴」


 ぎちぃっ、とボタンのあたりで嫌な音を立てるコートに、僕だけでなくウリドラとザリーシュまで顔を引きつらせる。

 いや、だめだよ。それはさすがにエルフ族として避けるべきだ。貴族でさえも羨むコートを着て、たったの百メートル足らずで破くなんてまさかそんな。


「そ、そっか。じゃあまず落ち着こう。その奥襟を外して、次に僕の肩をつかも……!」


 いけない、滑り落ち始めた!

 ずるずるという程度のゆっくりとした速度ではあるけれど、マリーはあっという間にパニックを起こす。涙目になってあわわと顔を引きつらせるなり、僕の奥襟をさらにがっしりとにぎったのだ。


 この体勢、この気迫、この腰のひねり……まさか、まさかまさか本気で僕を投げ飛ばす気だとでも言うのだろうか!


「んやぁぁぁぁーーーー!!」

「カズヒホ様ーーーーっ!!」


 北の果て、アインボルス山岳地帯にはミュイの悲痛な声が響き渡った。

 エルフ族の女の子相手にいったいどのような目に遭ったのか、互いの名誉のために口を閉ざすとしよう。




 カキキと凍りつく音を立てて生み出されるのは、透明度の高い氷製の階段だった。

 生まれたばかりの氷にそっと足を乗せてみると、繊細そうな見た目よりもずっと安定しているのだと気づく。ガラスよりもずっとしっかりして感じられた。


「うわ、氷に彫刻がどんどん刻まれていく。もしかしてこれは滑り止め?」


 そう口にしながら背後に向けて手を伸ばすと、少女はまだおっかなびっくりという表情で温かい手袋を乗せてきた。


「ええ、大丈夫そう。これならミュイちゃんも転ばないで済むわ。はあ、最初から氷精霊に頼んでおけば良かったわね。皆が簡単そうに歩いていってしまうから、うっかり騙されてしまったみたい」


 そう言い、薄紫色の恨めしそうな瞳をちらりと向けてから少女は階段を上り始める。純白のコートには尻もちをついたような汚れがついてしまったけれど、こちらはノーコメントとさせていただく。

 僕のお尻まで汚れているのを決して気にしてはいけないよ。いいね?


 先ほどの言葉に促されて振り返ると、ミュイはおっかなびっくり氷の階段を上っており、少し前に斜面を歩いているときよりもずっと苦労をして見えた。僕らにつき合ってくれるなんて律儀な性格だなぁ。


 このように苦難を技で乗り越えるというのは、精霊魔術師であり魔導を習っている彼女の得意技だろう。氷の精霊を使役して、山のふもとまで続く坂道には整然とした美しい階段を生み出していた。

 と、一歩だけ前に進んだ場所からマリーはなぜか動かない。どうしたのかなと思っていると、まだむくれた顔つきで振り返ってくる。


「おっとごめん。腰の辺りを支えようか」

「あら、あなたってすごく優しいのね。だけど皆は冷たいわ。私たちを置いてさっさと先に行ってしまうだなんて。いいけど。でもやっぱり薄情よ」


 あらら、まだご機嫌斜めだ。皆に見られているなかで、盛大に転んでしまったことでヘソを曲げてしまったらしい。

 だけど一段ずつ登ることに集中して、ほっ、ほっ、と掛け声を上げあっているうちに表情は和らいでゆく。


「ふふ、なんだか二人三脚みたい」


 そう言ってすぐ間近から笑いかけてくる彼女は、北国に訪れてから白い肌をさらに白くさせていた。日焼けをまったくしておらず、それでいて上気した頬はいつもよりずっと赤い。


 ふうふうと真っ白い息をたくさん吐いて、そのなかから瞳を細めて笑いかけてくれる。ひしりと抱きつかれるのも、なぜかぜんぜん嫌な気がしない。

 それにほら、マリーのわがままって、おしゃまな感じがしてすごく可愛いらしいと思うんだ。胸の奥をこちょこちょされている気にさえなるのは僕だけなのかな。


「さて、鎧職人のヴェイロンさんは、いったいどんな人だろう。地中に住むドワーフ族だと聞くけれど、絵本で見たように赤っ鼻をしていて気難しい性格だったりするのかな」

「それよりも、シュシュという高名な魔女が住んでいたことに私は驚いたわ。彼女は教本にもなっているような人なのに、どうしてこんなところにいるのかしら」


 僕らが気になっているのはそこだ。つまりは鎧職人と魔女という組み合わせであり、なぜこんな僻地で一緒に働いているのかという疑問がむくむくと膨らむ。


「ただ、案内をしてくれるということは、答えを明かしてくれる気でしょうね。遅れてしまったぶん急ぎましょう」


「だね、じゃあとひと息だからがんばろう」


 ほいほいと声をかけあい、階段を上りきるころには身体がだいぶ温まっている。そんな僕らに気づいて、椅子に腰かけていた黒髪の女性が振り返ってきた。


「ずいぶん遅かったのう。あやつらはもうとっくに先へ向かったぞ」


 彼女が腰かけているのは氷製の椅子だった。

 先ほどエルフ族が生み出した階段もそうだけど、魔導というのは身の回りの世話から敵の殲滅まで行えるのだから、その万能さにはやっぱり驚くな。だってほら、僕は剣を振ることくらいしかできないから。


「え、向かったってどこに? それにここは行き止まりだと思っていたんだけど」


 ほぼ垂直と思える岩肌、それが僕らの終着点のはずだった。

 しかし、ウリドラが親指を背後にクイと向けたとき、目の前の光景が大きく変わる。


 岩がどんどん透明になってゆく。

 酸素をほとんど含まない氷のように透けていて、しかし水流がそのまま凍りついたのか、洞穴内は青色で包まれていた。


 好奇心に背を押されるまま、自然の冷凍庫のような洞窟に足を踏み入れる。感嘆の息を白く染めて、見上げれば天井に幾何学的な模様が生まれていた。


「やあ、氷の天井? すごいな、これは」

「光精霊がいらないくらいの明るさね。なんて綺麗な青色なのかしら」


 吐き出す息が真っ白く染まるほど寒いのに、僕らはあまりの光景に身を寄せあったまま動けない。

 途方もない質量が頭上にあり、ふとした自然の気まぐれによって簡単に押しつぶされかねない場所だ。しかしこの先になにがあるのか気になってたまらなかった。


 クイと袖を引かれて振り返る。

 そこには嬉しそうな顔をする少女がすぐ隣にいた。


「写真、撮りたいわね」


「ん、それは確かに。これだけの景色なら自慢できそうだ」


「ふ、ふ、なかなかの観光名所になりそうじゃな。温かいスープがあればなおのこと良い」


 そう言ってあいだに割り込んできたウリドラは、そのまま僕らと手をつないでくる。ひんやりとした素肌をしており、指をつなげあうとまた黒髪美女は笑みを浮かべた。


「これは魔女の遺した古い通り道じゃ。自然界のなかに異界を生み出すという技じゃが、まさか寒がりのエルフ族と眺めることになるとは思わなかった」

「あら、知っているのよ。あなただって大の寒がりだということに。ストーブの前をいっつも陣取っていることを忘れたの?」


 ひょこりと反対側から顔を覗かせて、エルフさんは楽しそうにそう言う。


「ふ、ふ、暖かい部屋でお腹をぽかぽかにすると、ことのほか気持ち良いのじゃ。おぬしこそわしの腹を撫でて遊んでおるじゃろう」


 黒猫で過ごしているときの話かな? ふかふかで気持ちいいから僕も触りたいんだけど、ウリドラはすぐに爪で引っ掻いてくるんだよ。

 やあ、それにしても空気が清々しい。氷の洞窟は奥から風が吹いてきているし、恐らく外に繋がっているのだろう。


「ここはなんだろう。僕らはどこに辿り着くのかな」


「魔女に誘われて、誰も見ることのできない景色を見ておる。辿り着くその先が、まともであると考えぬほうが良いじゃろう。しかし……」


 言葉を途中で濁したウリドラは、しゃがみこむとなぜかマリーの靴に触れる。どうしたのかなと見つめ合っていたら、しゃきんというかすかな金属音を残して……。


「わ、スケート靴! これ、このあいだテレビで見たわ!」


「うむ、せっかくの旅じゃ。子供はうんと遊ばねばならぬ。そのぶん大人が働かねばならぬのも道理じゃろう。ほれ、おぬしも手をにぎってやらぬか」


 そう言ってマリーを補助するように促されるけど……うーん? さっき言いかけていた言葉はなんだろう。それに大人が働くってどういう意味?


 水の通り道は凍っており、へっぴり腰のエルフさんがいま滑り出した。ならば深く追求できるわけもなく、僕は慌てて駆けだす。そう、今度こそ奥襟を取られないようにしなければならないのだ。



     §



「なに、ヴェイロンが旅立てないだと?」


 青い空洞のなかで、青年は怪訝な顔をして振り返る。

 ぼんやりと明るく照らすのは魔女の育てた苔であり、壁に立てかけていた杖をちょうど手にしたシュシュは、そんな彼にうっすらと笑う。


「あれぇ、前に話したと思うけどなぁ。ヴェイロンの鍛冶場は普通ではないんだ。魔石は確かに魅力的なんだけど、少しは間引きをしておかないと『眠り姫』が目を覚ましちゃう」


 ほう、と初めて聞く単語にザリーシュは好奇心を引かれて、手に持っていた加工品を棚に戻す。


「眠り姫とはなんだ? ここの迷宮にいる魔物か?」


 問いかけに、シュシュはにこりと笑う。だけど答えは決して教えてくれない。魔女というのはそういうもので、明確な答えを示す気など最初からないのだ。


 以前のザリーシュであればこらえ性が足りずに怒鳴り散らしていただろうに、最近はどうも変わった。ふんと鼻息をひとつ漏らして、ではどう問題に対処すべきかと考えをめぐらせる。


「そういえばここの鍛冶場は、鉱物を材料とするのではなかったな。なら間引きとやらを俺が手伝おう。その手のことに関してなら役立つだろう。少なくとも、ここに立っているよりもずっといいさ」


「あれ、ごめんねー、大事なスポンサーなのに働かせちゃって。ただ、君は以前よりもずっと話しやすくなった。その点に関しては、時間だけで解決できたことじゃないと私は思うな」


「?? そう言うお前は、以前にも増して気難しいと感じるぞ。たまには一緒に酒を飲み、腹を割って話してみたいものだがな」


 どさりと椅子に腰かけて、ザリーシュは臆せずにそう言う。

 まさか魔女相手にそんな提案をするなど夢にも思わなかったのだろう。ふっとシュシュは笑い、それから近くの棚に向かって歩いてゆく。

 木製の戸を開けると、鳩時計のように近くの穴から飛び出す仕掛けもあった。


「ん、月と星の刻まれたペンダント? シュシュの手作りか?」

「ああ、私の簡単な呪いをかけてある。それがあればこの先に入ることができるし、間引く仕事も手伝える」


 しばらく思案をしたザリーシュは、なにかを問いかけようとしたのに「ヴェイロン先生は最下層だよ」という魔女の言葉に遮られてしまう。

 黒薔薇の騎士である彼は諦めて、肩をすくめるとそのまま奥に向かって行った。


 しばらく経ったころ、クッションの奥から木の実の飾りが揺れる。それは三角形の耳についていたもので、続けてビー玉のような瞳を覗かせた。


「大丈夫なのですか、シュシュ様。こんなに大事なことを勝手に決めてしまうなんて、あとで怒られてしまうかもしれませんよ?」


 主人を気遣うような声色であったが、シュシュは困りもせずにあっけらかんとこう言った。


「なぁに、そのときは彼が望んだように、酒でも飲んで腹を割って話せばいいのさ。北に向かえば向かうほど、酒というのは美味くなるものだからね」


 ごしりと猫族のひたいを撫でて、シュシュとネネは互いに瞳を細める。

 そのときに入り口のほうから軽やかな声が聞こえてきた。


「ん、子供たちも来たか。では彼らには……うん、この辺りかな」


 棚から取り出したのは太陽を模したペンダントであり、厚い氷から注がれる陽を受けて美しく輝いていた。 


「まあ、私もたまには生贄を捧げないと。魔女らしく、ね」


 かすかに笑い、戸をぱたんと閉じる。

 魔女の私室は、すぐに子供たちの明るい声で満たされた。


別作「落第魔剣士の簒奪者」をアップし始めました。

すでに書き終えておりますので、順次掲載を行わせていただきます。

ご興味がありましたらぜひ。


https://ncode.syosetu.com/n9869gx/

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― 新着の感想 ―
[一言] いつも更新ありがとうございます。
[一言] 生贄…急に物騒なワードが出てきましたね。 まあ、もし彼らであっても、結果は地球に行くだけで問題無い…と思うけども。多分。
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