第311話 北国に欠かせないもの
目覚めたとき、僕は懐かしい気持ちになった。
なぜかというと、鼻から吸い込む空気が冷たくて、それを肺一杯に満たしたからだ。
まだ僕が学生だったころ、青森で過ごした冬は本当に厳しくて、目覚めたときはいつもこんな気分を味わっていたっけ。
などと懐かしい思いをしていたのだが……悠長になどまったくしていられないことに僕は気づいた。
「はっ、あっ、あっ……!」
すぐ近くから苦しそうな呼吸が聞こえてきて、ぱちんっと僕は目を開く。
これはいけない! 白い息を吐くマリーがおり、極寒と思える室温によって彼女の表情は驚きと悲しみで満ちていたのだ。
己ではどうしようもないと悟ったのか、ぴとりと身体をくっつけてくる。
頬をくっつけあう姿勢になり、ひんやりとした笹穂のような長耳も触れてきたので僕はドギマギとする。布団にこもっていたせいか、寝起きは蜂蜜のようにどこか甘いマリーの香りが漂うのだ。
「さっむ……!」
しかし少女はというと、耳元でそんな素の声を出す。
大丈夫かと声をかけようにも抱きつく力はさらに増し、カタカタ震えだしてしまうものだから、もはや大丈夫かとは聞けない状況だ。むしろ口にしたら紫水晶のように美しい瞳で「この寒さで大丈夫なのか聞くだなんて信じられないわ」と睨まれかねない。彼女は温室育ちのお嬢様なのだ。
背中をさすってあげながら室内を見回すと、カゴのなかで丸くなったミュイが視界に入る。くうくうと気持ちよさそうな寝息を立てているのだが、どこかカゴがみっちりしているというか、あふれ出してしまいそうに見えるのは単なる僕の気のせいだろうか。
「ごめん、ミュイ。起きてくれないかな」
「ひゃい! ああ、カズヒホ様、おはようございマス。それにマリー様も……って、そんなに縮こまってどうしたのデス?」
やはり毛皮という防寒対策バッチリなミュイにとっては、これくらいの寒さなど気にならないようだ。きょとりと不思議そうに首をかしげてくるけれど、うちのエルフさんはちょっと先天的と後天的をごちゃ混ぜにした事情があってね……。
「悪いけど、そこで眠っている火とかげに薪をあげてくれないかな。もう少し部屋を温かくしてあげないといけないんだけど、僕は動けなくて」
「それくらいお安い御用デス。一晩過ごして、ボクも面倒の見かたが少しだけ分かってきたのデスよ」
猫属のミュイは三角形の耳をピンピンと揺すりながら、そう自慢をするように言う。しかし、立ち上がったそのカゴにもう一匹の猫族がすやすやと気持ち良さそうに寝ているとなると、今度は僕が目を丸くする番だ。
はちきれそうなおなかをさらして、ぐふふ、ぐふふと笑っているような顔で眠りについている真っ白い猫族はだれだろう。また、テーブルには空っぽの鍋もあった。
目をごしごしこすっても、幻などではないらしく消えてなくならない。
あっれぇ、猫族って希少な種族じゃなかったの?
旅は出会いがたくさんあると聞くけれど、まさか早々に出会うことになるとは。そう驚いていると、ちょうど火とかげに薪を手渡していたミュイは、不思議そうな顔つきで振り返ってきた。
「どうしたのです、カズヒホ様?」
「……うーん、ひと晩で仲良くなるなんて、口説き上手なミュイに驚いていたんだよ。とても可愛い子だね」
そう言うとミュイはすごく嬉しそうな顔で笑う。人間と獣人のあいだにはたくさんの差があるけれど、自分の彼女を褒められて嬉しくなるのは共通していることらしい。
「ね、ねえ、もっと背中をさすってくれるかしら。いまは生きるか死ぬかという瀬戸際なんだから、決して恥ずかしがったりしちゃダメよ。布団から隙間風が入ってくるなんて論外。あとたまに耳も温めてあげて」
とはいえ僕の彼女は、雪山で遭難しているようなことを真顔で言うエルフ族だけど。
ズイと迫ってきて、ドアップでそう言われてしまった。
§
――がつっ、がつっ、がこんっ!
重しでも乗っていたのか、何度か戸を叩いてからこじ開けてみる。するといくつもの氷の塊が落ちていった。
そしてまぶしいほどの陽が差し込むと、視界はたった2つの色彩だけになっていた。
「うわぁーー……!」
僕の隣から景色を眺めたマリーは、鼻の先をわずかに赤くしながら感嘆の声を漏らす。
寒さが大の苦手であるマリーでさえも、この真っ白に覆われた景色、そして青空というシンプルな色彩を見れば息を呑む。
一晩のあいだに北国は雪で閉ざされて、吸い込む息が痛いとさえ思えるほど空気は凍てついている。
ぴとりと隣から抱きついて暖を得ているマリーは、白い息を吐きながら雪景色を眺めていた。
「これがあなたの見たかった景色なのね」
「ん? どういう意味かな?」
疑問を浮かべると、少女は薄紫色の瞳を向けてくる。外の景色はまぶしいくらいで、光が反射しているらしく紫水晶のように輝きを満たしている瞳だった。
「エルフの里から出て行くときに、あなたはそう言っていたでしょう。白と青の世界が広がって、そこに自分だけがいる景色のなかを旅するのだと口にしていたわ」
「ああ、言ったかもしれない。装備はいまよりもっと貧弱で、少しでも判断をミスしたら死んでしまうようなところだったけど、でもやっぱり楽しいよね。雪男と死闘を繰り広げたりさ」
どうやら最後のひとことで台無しだったらしく、ずるっと足を滑らせでもしたのか少女はもたれかかってきた。
「そういうところがあなたのダメなところよ。まったく、幾つになっても冒険欲に忠実で驚くわ」
しかし雪男といえば伝説の存在であり……と文句を言いたくても、はあーと呆れのため息を吐かれてしまうと口をつぐむ他ない。マリーだって実際にあの立派な姿を目にしたら、胸をトキめかせ……ないか、やっぱり。
などと思っていたときに、マリーは背後を振り返る。彼女が目を向けた先にいるのは、まだ布団で丸くなっている黒猫だった。
「ウリドラ、ついにあなたの力が必要になったわ! 準備なさい!」
その金色の瞳は、ニャんだって、と言いたかったのだろうか。びっくりした顔で身体をむくりと起こした黒猫は、辺りをしばらく眺めたあと「敵もいないのに?」という不思議そうな顔をした。
まあね、長い付き合いだし僕もだいたいなら分かってはいた。
しかしウリドラはというと、まだまだエルフさんのことを分かっていない。もし分かっていたのなら、ズズズと闇のゲートを通ってやって来たご本人様が、ぶすっとした顔をしていないはずだ。
「……どうやらおぬしは、わしを洋服のレンタル屋さんだと思うておるようじゃな」
「お願いお願い! ウリドラ、魔導竜特製の暖かいコートを頂戴! 信じられないけれど、室内なのに指がかじかんでしまっているの! きっともうすぐ凍りついてしまうんだわ!」
かぶりを振り、わっと泣き出しそうな声で言っている女性こそが、魔術の盛んなアレクセイ地方の誇る希少な精霊魔術師様なのだから世のなかは不思議だ。
そして古代から生き続けている魔導竜はというと、なぜか指をパチンと鳴らす。すると背後に控えていた執事服のザリーシュが一礼をして、手にしていたコートらしきものを見せてくる。
なんというか、二人とも堂に入ってきたなぁ。主従関係なんて結んでいないのに。
ウリドラは背が高いし、高級そうな衣服も似合っている。ぱっと見、いいところのご令嬢と執事という雰囲気だ。
そう思いはすれど、少女にとっては示されたコートしか目に入らないらしい。きらきらと僕が驚くほど瞳を輝かせていた。
「わっ、見たこともないほど綺麗な毛並み! 今年の新作かしら!」
「こいつは仕入れたての毛皮を使ったコートだぞ。北方の地には面白い動物が多くてな、最近では取引する地域を拡大しつつある。猟師たちには買いつけを喜ばれるし、第三階層では商業の発展が欠かせない。働き手を養えるし、労働力ってのはそのまま金になる。つまり、これはいいことづくしの産物というわけさ」
そう言ってザリーシュはにやりと笑い、新品のコートをマリーに手渡した。
高級品に慣れていない僕でも違いが分かる。白い毛皮には艶があり、首元を暖かく包み込む。それでいて細身の服は身体のラインを隠さず、女性的なシルエットを保っているのだからやはりウリドラは服に関するセンスが異様に良い。
「……実は結構がんばって作ったんじゃない?」
こそりと耳元に囁きかけてみたら、にんまりと魔導竜様は笑う。してやったりという笑みはどこか子供っぽくて、思わず僕も笑ってしまった。
いそいそと着替え始めているマリーを眺めながら、ウリドラは唇を開かせる。
「ふ、ふ、暖かい以外になんの恩恵もないものじゃが、不思議と身が入った。シャーリーの衣装もそうじゃが、着る者の気持ちを考えるとどうも手が抜けぬ。思わぬ趣味に目覚めてしもうたやもしれぬぞ」
その美しい笑みを見る限り、とても素晴らしい趣味だと僕は思うんだけどね。以前よりも活き活きとして見えるのは、たぶん気のせいではないだろう。
そう思っていたときに、グイと腕を引かれる。相手はザリーシュで、なにを言うでもなく彼は尚も引いてくる。ああ、女性が着替えをするから気を利かせようという意味か。
分かったとうなずいて外に出ると、やはり朝方の凍えるような風が吹きすさぶ。
「うっ、思っていたよりも寒いな! カズヒホ、よくその恰好でいられる。凍りつきかねない寒さだぞ」
「あ、育ちが雪国だから多少は慣れているんだ。でもこの寒さは青森の比じゃないかな」
どちらかというとロシアとかその辺り?
そういえばあのモコモコした可愛らしい帽子って、単なる防寒用じゃないんだっけ。じっとしていると脳が凍ってしまうのを防いでいるんだって。そう聞くと他の国のことでもゾッとするよね。
そんなことよりも僕が気になるのは先ほどの会話だ。
「ザリーシュ、最近どうなの? 商売系の仕事をかなり任されているみたいだけど、そもそも僕らの国にお金があまりない気がするんだけど」
大陸全土で通用するような通貨などありはしない。金や銀など価値があるものであれば交換も可能だが、僕の見たところ第二第三階層でそのようなものはない。
あるとしたら魔石や食料、迷宮から発掘される金銀宝石などになるが、前者を他国と取引してはアリライ国が黙っていない。でなくとも戦力そのものとなる魔石を他国に売り渡すことなど愚行そのものだ。あのウリドラが黙っているはずがない。
なので疑問に思ったことをそのまま投げかけてみたところ、青年は笑みをにやりと深める。
「以前、だれかにも伝えたことだが、俺のいる限り財産の尽きることはない。この長引く戦争で得をする人間もいるということさ」
おっと、なんだか武器商人みたいなことを言われたぞ。
きな臭さはあるけれど、実際にどうやって経営しているのだろうという好奇心も多少はある。
それでそれで? と続きを促すと、彼は話したくて仕方なさそうな顔つきに変わった。
「石油というものがある。古代の血そのものを蓄えたプールのような存在だ。戦力不足で行き詰まったゲドヴァー国は、ついに俺の投資していた油田にまで手を伸ばして古代の血を復活させている。無論、それはタダじゃない」
「え、まさかゲドヴァー国にある油田を? 横取りされちゃうんじゃないの?」
いくら権利を持っていようと、戦争下でそれを主張したところで無視されるだろう。守り切れない以上、奪われてしかるべきだ。
「はは、人の取り決めでは当然そうなる。だが商売神は絶対だ。不正や力づくの接収など決して許しはしない。神に喧嘩を売る勇気があれば別だがな」
ああ、なるほど。彼は商売神を信仰しているのか。
そういえばイブから聞いたことがある。彼は亡国の廃王子で、高貴な身でありながら恩恵を受けることなく、逆風続きの人生を送っていたのだとか。
となると母国のない彼は国神を信仰せず、より堅実な側についたのだろう。実に彼らしいなとうなずきつつ僕は口を開く。
「聞くところによると、商売神は商才のない人には決して救いの手をさしのべないらしい。ザリーシュには隠れた才能があったんだね」
「別に隠してはいないがそうらしいな。しかし、溜め込んだ金を使わないのであれば、なにも持っていないのと同じことだ。才能を伸ばすには金がいるというのは俺の持論でもある。名もなき国はそれに当たると判断した」
なるほど、金の出どころが気になっていたけれど、それはザリーシュの手腕によって生み出されていたのか。感心していいのか、長引く戦争によって利益をむさぼっていることに罪悪感を抱けば良いのかは難しいところだ。
「それは分かったけど、どうして今日はザリーシュもついてきたの? 服を届けるだけなら、ウリドラだけでも良かったのに」
「さあ、それは俺も聞きたい。お前たちのことはヴェイロンにも伝えているし、問題ないと思ったんだがな」
はて、と互いに首を捻っていたときに、ドアが内側から開かれる。
すると真っ白いコートを着込んだエルフさんが現れて、頭にはふかふかの毛皮でできた帽子を乗せている。あ、脳みそを凍らせない帽子だ、などと僕は心のなかでひっそりと思う。
「うわ、とても似合っているね! 精霊魔術師として威厳もあるし、腰に巻かれた皮ひもも上品だ」
「んふふー、分かってしまうかしら。そうね、見る人が見たらきっと分かってしまうものでしょうね。こうして杖を持つと、威厳が内側からにじみ出てくるのにも気づくでしょうし」
ほっぺたを赤くしつつもマリーはおすまし顔をする。ちらっちらっと見つめてくるのはもっと褒めて欲しいというサインで、こういうとき彼女はたまらなく可愛い人なのだと実感する。
「ね、ね、凄いでしょう。細身に見えるのに、ちっとも寒くないのよ。これだけの衣服にいったいどれくらいの金銭的価値があるのかしら」
「金貨二百枚だな」
「そうそう、それくらいの価値が……えっ??」
それまで得意そうだった少女は、横から口を開いたザリーシュによって言葉を詰まらせる。
「ん? なにを驚いている。白色のパルスターだぞ。千頭に一頭しか混じっていないし、死滅しても耐寒の魔力は永遠に尽きないという逸材だ。もちろん金貨二百枚というのは仕立てや手数料を含めない金額だし、それくらいでなければ仕入れたりなどしない」
それを聞き、なぜか少女は呆然と立ち尽くす。
ああ、この辺りは金銭感覚の差かなぁ。僕はこの世界の貨幣なんてどうでもいい派だし、安くても長持ちすればそれでいいと考えている。しかし少女はというと、人里で暮らすようになってからというもの常に貨幣と睨めっこをして生活してきたはずだ。
ぐいーっと少女は仰け反ったあと、反動をつけるようにして勢い良くこう言った。
「金貨二百枚っ!? そんな高価な服があってたまるものですか!」
「ま、まあまあ、暖かければそれでいいんだよ。ウリドラだって向こうでニヤニヤして眺めているし。それよりもほら、僕もびっくりしたんだけど、ついさっきミュイとは別の猫族がいて……」
などと言いかけてからハッと気づく。
少女の超高級品コートの胸のあたりに覗いている猫族の顔に。
ぬくぬくして見えるのはたぶん気のせいじゃないだろうし、なぜかアイスブルーの瞳は「なにか?」と、おすましした表情を浮かべているではないか。
「え、ちょっと、見ず知らずの猫族をカイロ代わりにしているの? さすがにそれはどうなのかな。あれ、マリー? 僕の声は聞こえている?」
「き、金貨二百、二百枚……」
「もしも気が引けるのなら、僕も冬用の服を用意していたんだよ。すごく安くって、ちょっとだけ穴が開いているけれど気にしないよね」
「嫌っ、これを着たいのっ! お願いお願い、私から取り上げないで!」
またもわっと泣き出しそうな顔をされて、僕にはもうなんと言っていいのか分からなくなった。
たぶんそんな僕を見かねたのだろう。背後に立っていたウリドラは、にんまりと笑みを浮かべてこう言った。
「ふ、ふ、朝から賑やかじゃのう。おぬしらのおらぬ第二階層はどうもつまらぬ。さっさと用事を済ませて、皆で帰るとしよう。お迎えの者もおるようじゃからな」
そう言って彼女が見つめる先には、一人の人物が立っている。
大きな三角形の帽子をかぶる人物は、どこか古めかしい魔女のように僕らの目には映った。




