第310話 迷子の子猫ちゃん
窓辺に腰かける光妖精は、もうかすかな明るさしか発していない。半透明な羽をときおり羽ばたかせて、わずかに光の粒をこぼしているくらいだった。
夜のとばりが降りてからというもの、外はどんどん静かになってゆく。凍りついた川はせせらぎさえも響かせず、虹の山脈と呼ばれる険しい山々からは粉雪が吹きすさぶ。
その妖精が見守る先には、エルフ族と人間族がいた。
少年と少女という小柄さでありながらも、ベッドで横になり、しっかりと抱き合って眠りにつこうとする姿はどこか絆の強さを感じさせる。
それを眺める光精霊は、離れ離れになど決してならないという二人の意志を嗅ぎ取ったかもしれない。
この石造りの小屋には小さな暖炉があり、焚き木を枕にして数頭の火とかげが折り重なるように丸まっているのだから、たとえ北の果て地であろうと寒さに困りはしないだろう。
そんな小屋に、二人の眠気が満ち満ちてゆく。
すう、ふう、と響く呼吸の音はどこまでも穏やかで、周囲の者もそれを耳にしたら自然とまぶたを重くさせたことだろう。
ふと、唐突に二人の寝息が消える。
それからたっぷり十秒ほど数えて、ベッドの下から潜り出て来たのは真っ白い猫族だった。
北国に順応しているのか、それとも単なる綺麗好きなのか、ふさふさとした毛並みはとても温かそうで、しかし小屋の様子を眺めるブルーの瞳には警戒心を残している。
(これはどういうことですか。急に風の音が強くなりました)
そう思いつつネネはピンク色の鼻で匂いを嗅ぐ。
山岳丘陵から流れ込んでくるこの国の風は荒々しくて、夜ともなると立っているのも難しくなる。どお、どおお、と容赦なく石壁に当たってくる音に三角形の耳をピンと立てて、状況が分からないものだからネネはしばらく床に伏せた格好で過ごす。
と、視界の端で動くものがあった。
それは小さなカゴから起き上がろうとする猫族で、己とはまったく異なる毛色をした者だ。
栗のような毛ですねと思っていたときに、くすんだ青い目がこちらを向いた。
「えっと、小屋に迷い込んだのデスか? 言葉は通じマスか?」
獣人語、そして共通語で順に話しかけてきたことにネネは驚く。獣人というのは総じて覚えが悪く、複数の言語を扱うようなことなど普通はできない。しかし彼はというと多少のなまりがあるくらいで、どちらも流暢な響きをしていた。
それよりもネネが驚いたのは、気づいたらエルフ族と人間族の気配が消えていたことだ。
警戒心を残しつつ這い出てみると、やはりベッドには寝相の跡しか残されていない。肉球で触れてみるとまだぬくぬくとしていた。
「……あの二人はどこに消えたの?」
多少言葉を扱えるとはいえ、相手は人間に使役されている猫族とあってネネの口調はやや冷たい。
しかしそれを聞く雄はまるで気にしておらず、カゴの布を整えながら口を開いた。
「お二人は、夜になるとどこかに消えマス」
「消えるって、どこに?」
「分かりまセンが、神様のお使いじゃないかと僕は勝手に思っていマス」
ぽんぽんと毛布についていた毛を払いながら、こともなげにそう言う。
投げかけられた言葉は、恐らくそのままの意味ではないだろう。ネネをからかっているだけかと疑ったが、しかし振り返る彼の瞳は澄んでいた。
冗談なのか本気なのかまったく分からないネネだったが、ふっと顔を寄せてきたので反射的に顔をこすりつけ返す。反対側の頬も同じようにすると、わずかに異国の荒々しい匂いを嗅ぎ取れた。
もう一度、匂いの交換をしようとしてきたので、ネネは前脚でパンと顔をはたく。匂いの交換は左右一回までというマナーがあるのだし、族長の血筋を引いているぶん、ネネはそのあたりにうるさい。
無人となったベッドに腰かけて、ネネはうさんくさいものを見るような瞳を浮かべた。
「私はネネ。このアインボルス山岳地帯で暮らしている猫族であり、族長様の血を継いでいます。神様のお使いと口にするなんて、あなたにとっては大層なご主人のようですね」
「ボクはミュイ。アリライという砂漠の国で暮らしていマスが、つい先日『名もなき国』に移り住みました。それとあの二人はボクのご主人ではありまセン」
ミュイという雄は、そう言いながら暖炉を覗き込む。
彼が困った顔を浮かべたのは、すやすやと眠る火とかげをどうやって働かせようかと思い悩んでいるのだろうか。
意を決して尻尾の先を毛むくじゃらの指でつつくと、火とかげは小さなゴマ粒みたいな目を開く。それから「ん」と手を伸ばしてきた理由がネネにはまったく分からなかったし、なぜミュイがその手に薪を差し出したのかも分からない。
それから火とかげが薪をペロペロと舌で舐め始めると、室内にはまた温かい空気が流れ始めた。どうやらあの精霊は、労働の対価を求めていたらしい。
「精霊って、そこまで簡単に操れるものなのです?」
「ボクも見よう見真似で、どう接したらいいのか良く分かりまセン。気難しいデスし、良くグズるそうデスから」
精霊とは自然そのものを具現化させたように不可思議で神秘的な存在だと聞くのに、まるで子供の世話をするような口ぶりだ。ネネは眉間に不審げな皺を浮かべた。
見つかった以上、ネネはさっさとおかしなこの小屋から退散するつもりだった。しかし会話までしてしまったのは、ミュイという雄がいそいそと支度をし始めたからだ。
寝そべった火とかげの上に鉄鍋などを置き、雑穀らしきものを煮始めている。まさか食事を作ってくれるのだろうかという淡い期待をしつつ、ごっくんとネネは喉を鳴らした。
「お夜食をと思いマシタが、ネネさんはお腹が空いていマスカ?」
「えっ、うーん、まあ、空いているといえば空いているし、出されたら仕方なーく食べるかもしれませんよ。でも決して約束はできないし、ネネの舌に合えばですけど」
全力で食べたいですなどと言うのは、かなり癪だ。
だからそう不機嫌そうに言い返すと、なぜかミュイという獣人は顔をにへらと緩ませる。どうして笑うのかなと思っていたら、彼は不思議なことを言った。
「少しだけカズヒホ様の気持ちが分かりました」
「???」
どうやら異国から来た者たちは、ネネにとってまったく理解できない考えをするらしい。そうと分かったのは、料理を待つあいだにミュイたち三人の事情について話を聞いたときだった。
「ザリーシュ殿と知り合い!? じゃ、じゃあヴェイロン様のお迎えに来たというのは……」
「ハイ、カズヒホ様とマリー様のことです。どちらかというとボクは勝手についてきた感じデスね」
はあ、とネネはぽかんとした。
「呆れます。北の果てに向かう者は、そのほとんどが罪人や行き場のない後ろめたい者たちです。行き倒れなど珍しくない旅に同行するなど、私は正気と思えません」
正直にそう言うと、ミュイは湯のみに茶を注ぎながら辺りを見回す。
光精霊は眠りかけているので室内は暗く、小屋の外ではどうどうと風が唸りを上げている。この地に住むネネなら分かるが、ひと晩やり過ごすことさえも難しい気候である。
ミュイもその気配を嗅ぎ取ったらしく、わずかに耳の先端を左右に折りたたんでいた。猫族は不安なときにいつもそうする。
「でもボクは、旅をするのが初めてなんデス」
湯のみを手に振り返ってきた彼は、意外にも笑みを浮かべていた。くすんだ青色の瞳を輝かせている様子にネネはわずかに驚く。そして、つるつる滑るコップを落とさないように注意しつつミュイは目の前に腰かけてくる。
「ここからずっと離れた緑豊かなところでボクは生まれて、そこは住みやすいぶん恐ろしい人間や魔物までたくさんいるせいで父と母の顔を見ることはできませんデシタ。祖父との別れも唐突デシタが、眠りにつく間際には決まって見知らぬ世界のことを教えてくれマシタ」
猫族は弱い弱い生き物だ。
人には決して近づけず、さりとて魔物に立ち向かうこともできない。愛玩動物として見た目が良く、また希少であるため高値で売買される。
ネネもそんな同族たちの事情を知っており、悲痛さに打たれてしばし彼の瞳をじっと見つめた。
「あのお二人はボクを賊から救い出してくれて、それからは不自由のない生活を送れていマス。先ほど招いてくださった『名もなき国』では、獣人や魔物までたくさんいたことに驚きマシタが」
ミュイはそう言って笑う。
本当はそれだけでなく女神様や魔導竜様まで住んでいることを知れば、この猫族の二人はもっと驚いたかもしれない。
彼は温かいお茶をネネに差し出して、先ほどの言葉を真っ向から否定した。
「これはボクにとって初めての旅です。おじいちゃんの教えてくれた景色を眺めて、だれからも逃げることなく道の真ん中を歩いて行くというのは僕にとって驚きデス。だから後悔はしていマセン」
「…………」
ネネはアイスブルーの瞳を見開く。彼は猫族としての境遇をすべて知っており、ネネよりもずっとひどい目に遭っておきながらも笑みを浮かべていると気づいたからだ。
周囲に漂う茶の湯気には花のような香りが含まれており、やはり異国から持ち込まれたものだった。
§
夜の遅い時刻に、ネネの師匠であるシュシュは暗い道を一人で歩いていた。
周囲を壁に囲まれており、ガラスに近い材質なのか手にしたランプの灯りをわずかに反射する。また道はわずかに右へ左へ折れ曲がっており、人工的な建造物と思いきや、巨大な竜の口のなかを歩いている気分になる恐ろしい場所だった。
北の迷宮「アルメリカの姫君」――……。
この閉ざされた世界がなぜ生まれたのかは詳しく分かっていない。
名を聞く限りだとアルメリカという姫君と深く関わっているのだろう。しかし石造技術くらいしか発展しなかったこの僻地では、歴史の書物など一遍たりとも残されていない。
人のいない国はいつか消える。それは神に見捨てられた土地として呪われて、いつしか文化や歴史などはすべて風化をする。
「これこそが楽園によるものなのだとしたら、世の人々はどう思うのかな。真相を知った王国最後の姫君、アルメリカはなにを考えてこの迷宮を生み出したのだろう。これを解く者など一人も訪れない僻地だというのに」
ぶつぶつと呟きながら古風な魔女は歩む。
普段であればここにネネがおり、軽口を叩き合いながら巡回している。しかし今夜は不在であり、また同じ猫族との出会いを邪魔をしたら悪いということもあって帰りが遅いのは不問にしようと思っている。
今宵の巡回は退屈になりそうだなとシュシュが思ったとき、意思疎通から悲痛な声が聞こえてきた。
『シュシュ様、シュシュ様、大変です!』
「あれ、お楽しみの最中じゃなかったのかな。大変っていったいどうしたのネネ?」
『すごいんですよ! 海の幸が、海の幸が……おくちいっぱいに溢れちゃいますぅ! せっかくですからシュシュ様に味の感想だけでもお伝えしようと思いまして! んわー、おかわりいただきます♡』
ずるっと足を滑らせかけた。
報告というよりもはや単なる自慢になっており、そのあいだも「おほぉー」という奇声を上げているものだから、はっきり言って仕事の邪魔だ。
好奇心の強い猫族だということは知っている。だから彼らの偵察をすることなど最初から求めていなかったし、それどころか遊んでもらうつもりだったのだが、ここまで浮かれていると不思議なことにシュシュでもイラッとする。
「えっと、切ってもいい? 本当に困ったことはない?」
『あ、そういえばザリーシュ殿とはお知り合いだったようです。彼、最近ではシェフとして働いているそうですし、評判がかなりいいみたいですから今度一緒に「けーき」を食べに行きましょうよ!』
「はい?」
迷宮の奥底でシュシュはぴたりと足を止める。
どうにも理解が追いつかないのは、ここが北の僻地にも関わらず「ちょっとそこのお店まで行きましょう」という感じの気軽さで言われたのと、そもそもあの悪魔のような男が店で料理をしている姿をうまく思い浮かべられなかったせいだ。
『えっと、はちまき姿で鉄板焼きをしていたみたいです』
「…………なおさら想像できないわね。気が触れたのなら分かるけど。それで、あのエルフ族と人間の子供たちは、先生の迎えの人ということでいいの?」
問いかけてみるとどうやら合っていたようだが、ちょうどお替りが来たらしく「ではまた」と言ってガチャッと意思疎通は一方的に切られた。
しばしシュシュは立ち尽くして「ふふふ」と笑う。笑みを浮かべていてもヘーゼル色の瞳は笑っていない。
「まったく、うちのネネったら……。あー、でもあの浮かれようだとネネにも春が来たのかな。アインボルスには冬しか来ないと思っていたけど、そんなことはなかったね。さすがのアルメリカも嫉妬しちゃうかな」
失われた姫君の名を口にして、くすりと古風な魔女は笑う。
北の果てが国として消えゆく間際、もしもその場所に彼女もいてすべてを知っていたのだとしたら、たぶんこんな笑みを浮かべるだろう。
かつんかつんと靴音を響かせて、魔女はゆっくりと最奥部を歩んでゆく。
遠くから響くうなり声は、陸の怪物ベヒモスが機嫌を損ねているのだろうか。それとも彼女の言う通り、アルメリカ姫君が嫉妬をしたのだろうか。
去り行く間際に魔女はこうつぶやく。
「ここの怪物たちをどうにかしないと、ネネとケーキ屋さんにはいけないな」
角を曲がって魔女の姿は見えなくなり、もうしばらくするとなにかを八つ裂きにする音が迷宮に響き渡った。




