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第305話 虹の山脈、アインボルス山岳地帯

 剥き出しの岩肌を眺めながら歩くのは、年若く見える魔女だった。

 手作りらしき大きな三角帽子をかぶっており、動物の尻尾や乾燥させた花で飾っているのはたぶん女性の趣味だろう。

 しかし、がらんと鳴る空っぽのバケツを手にしている理由は分からない。


 彼女の振り返る先には連なる山脈があり、またほとんどの山は白く染まっている。吐き出す息もまた同じ白色に染まっていた。


 ここは虹の山脈、アインボルス山岳地帯。

 ときおり健脚の山羊を見かけるくらいで、こんな辺ぴな場所にはだれも来ないらしく人工的なものはなにもない。まともな道さえもなく、吹きすさぶ風は自然の息吹そのものでありながら、しかしそんな厳しさにも魔女の足取りは変わらない。


「やー、もー、ヴェイロン先生の人使いには困ったなぁ。私を馬のように働かせないと気が済まないんだ、きっと」

「それはシュシュ様が真面目なお方だからです。有能だからこそ、ついお仕事をたくさん任せてしまうのです」


 どうやらバケツは空っぽだったわけではなく、ふさふさの尻尾、それにビー玉のような目のついた動物らしき者がいた。三角形の耳には木の実の飾りがついており、クセなのかごしごしと前脚で顔をこする。


「だからって休みなく働かせなくたっていいのにね!」


 びーっとだれもいないところに向けて舌を出す。

 天日干しをした麦の穂のような髪の毛を揺らして、舌を引っ込めた唇には紅が塗られている。なにもない場所だけに、その色鮮やかな唇は果実のように多くの異性を惹きつけそうだ。


 防寒用のコートを着た魔女は、北風に飛ばされないように大きな帽子を押さえつつ、なんてことはない足取りで岩肌にある空洞に入ってゆく。木の(うろ)のようにぽっかりとしたその穴は、数歩ほど進んですぐに行き止まりとなった。


 バケツを降ろすと一匹の獣が飛び出てくる。チリンと鳴ったのは首元につけた鈴だ。シュシュと呼ばれた僻地(へきち)の魔女は、ぺろりと赤い唇を舐めた。


「水よ、水よ、あまねく全ての者たちの求める命の水よ……」


 反響する空洞で、魔女は古めかしい言葉を丁寧につむぐ。魔術詠唱だ。

 早口にしたり単語を略したりする者が多いなか、彼女は歌声のようにつむぐことを好んでいるらしい。ある意味で古風だ。きっと見た目にそぐわぬ古い魔女なのだろう。


 術により生み出した綺麗な水でバケツを満たして、ふと魔女はヘーゼル色の瞳を向ける。奥に鎮座していたのは石像で、これは旅神を(まつ)るため世界中に点在しているらしい。だれがいつ建てたのかは、多くの者が知らない。


 そっと手を伸ばした先には一輪の花がある。

 剣のように細い花弁をしており、ほんのりとした青色はどこか厚く積もった雪を思わせる。それをしばし眺めて、魔女は剣呑な光を瞳に灯した。


「異国の花……」


 声の響きも硬質混じりで、それを聞いた獣がくるんと振り返る。


「何者かがこの土地に入り込んだのですか?」

「みたいだね。かすかに人間、そしてエルフ族の匂いがする」


 クンと名も知らぬ花の匂いを嗅ぎ、勝気そうなヘーゼル色の瞳を洞窟の入り口に向けながら声を響かせる。


 旅先からの土産という意味で花を捧げる風習があると聞く。しかし旅神というのは驚くほど気まぐれな神だ。おいそれと奔放な力を人に与えず、しかしながら古来からひっそりと世界中でうやまわれている不思議な神でもあった。


「ヴェイロン先生を狙う奴かもしれない。すぐ探しに行くわ」

「はい、シュシュ様」


 旅のほこらを掃除するのは後回しにして、魔女、それに不可思議な獣は外に飛び出した。何者かの足跡を見つけるのは、それから少し経ってのことだった。



     §



 はるか頭上の彼方から、霧のように細かな雨が降る。

 見上げれば絶壁の山があり、染み出た水がいくつもの岩に当たって砕け散る。見上げたまましばらく観察すると、雨粒と思っていたのは実は滝の名残であったことに気づく。


「だからここは常雨(じょうう)の道と呼ばれているらしい。そして雨季にはひどい豪雨になるから誰も近づかない」

「はあ、信じられないほどの絶壁ね。文明が滅びたあとのビル群を眺めている気分だわ」


 手で日差しを避けながら見上げるマリーは、見事な虹に気づいて瞳を細めていた。

 ここまでの好環境だといくつもの虹が連なる。さらに足元を流れる川は釣り場としても優れており、離れがたい魅力があって僕は三日ほど過ごしたことがあった。


 しかし美しい景色を前にしても女性というのは現実的だ。おもむろに人差し指を立てると、ちゃぷんと水音を辺りに響かせる。まばたきする間もなく生み出されたのは水精霊(ウンディーネ)だ。


「え、まさかもう雨避けを張るの? このまま濡れて歩くのも風情があるんじゃない?」

「当然でしょう。モフモフで可愛らしかったミュイちゃんが、すっかりしなしなになってしまったのよ。綺麗な景色はもう楽しんだから充分よ」


 う、うん、そういうものなのかな。

 くしゅっとクシャミをするミュイは、雨が嫌いなのか先ほどからずっと無言だ。いつもは明るい表情をすることが多いのに、すんっと表情を失わせていた。


「……すみまセン」

「いやいや、いいんだよ。冬の雨は身体に良くないからね。むしろ一人で楽しんでごめんね」

「はイ……」

「…………」


 うーん、この無言の時間がいたたまれないぞ。みんなに旅の風情や楽しさを知って欲しいんだけど、僕の場合はどうも空回りしてしまう。いつか「空気をまるで読めないガイド役」と指さされそうだ。


 ざああっという音に気づいて見上げると、悠々と泳ぐ水精霊が無数の雨を弾いていた。透明の膜を円形に広げる様子は、どこかビニール傘を思わせる。いや、あれを元に生み出した術だったか。

 そのとき、僕はハッと気づく。


「そうか、僕としたことが大事なことを忘れていた。ここに辿り着くという旅の過程を省いていたから感動が少ないんだ。よし、次は徒歩で……」

「ぜ、絶対に嫌よ! ほら、ウリドラだって呆れて宝石に戻ってしまったじゃない。ちょっと、あなたは護衛役でしょう。きちんと猫の姿になりなさい」


 そ、そこまで嫌がることかなぁ。

 人知れず大きなショックを受けていると、袖をクイと引かれる。振り返ると毛が濡れてぺったりと細身にさせるミュイがいた。うっ、濡れると印象がぜんぜん違うんだな。


「……カズヒホ様、雨に濡れて喜ぶ動物はとても稀デス」


 正論だった。ぐうの音も出ないし、僕まで無言になった。




 しかし雨という被害がなくなれば非難などされない。だいぶ離れた河原まで行くと濡れることはなくなり、火を焚いて衣服を乾かしているころには機嫌が元通りになってくれた。

 ぱちぱちと焚き木の音が響くなか、マリーは膝を抱えながら岩山を見上げる。


「驚くわ、本当にずっと虹がかかっているのね。ここから眺めるぶんには雄大な景色だし、あんなに垂直なのにどうして崩れないのかしら」

「うん、諸説あるけど自然の山ではないというのが有力だ。あれは山ではなく遺跡だという説だね。はい、熱いから気をつけて」


 湯気の漂うコップを手渡すと、エルフ族の少女は両手を伸ばして受け取った。

 濡れた衣服は棒にかけて乾かしており、いまは替えの私服に着替え終えている。丈の長いスカート姿というのは、旅をしているというよりも子供たちで遊んでいるようにしか見えない。


「遺跡? まさかあのなかに魔物がウヨウヨしているのかしら?」

「ただし誰も入口を発見できていない。高名な学者が探し求めたけど、最後には諦めてしまい、ここで釣りをして過ごしたらしい。真偽は誰にも分からない。ただの山かもしれないし、そうじゃないかもしれない。だから逸話と言ったほうがいいだろうね」


 ふうんと声を漏らしながら彼女は指先でコップの端をトントンと叩く。聡明な頭でなにかを考え込んでいる様子を見るに、先ほどの話が興味を誘ったらしい。


「もしもその話が本当なら、高名な学者がなぜ釣りをしたのかが私は気になるわね」

「ん、不思議なところを不思議に思うんだね。そのわけは?」

「古遺跡学者というのは聡明な方が多いわ。だからプライドも高い。謎が解けないその結果、釣りをするだなんて人々から笑われるだけじゃない」


 なるほど、笑われることをあえてしたのなら話は変わる。

 そしてふと思うのは、マリーは考えが柔軟になったということだ。以前なら鼻で笑い飛ばしていたであろう話を、彼女なりの視点で解釈している。

 不意に薄紫色の瞳がくりんと僕に向けられた。


「釣り場のことならあなたのほうが詳しそうね」

「うん、ここは僕の一番勧めたい釣りスポットだ。冬に獲れる魚は本当に美味しくてね、それを味わえるかはミュイの働きにかかっている」


 その声に気づいた猫族は、毛むくじゃらの手で釣り竿を持ちながら振り返る。生まれて初めての釣り具というものに、おっかなびっくりという感じで格闘していた。


「カズヒホ様っ! 手がつるつる滑りますっ!」

「支えるだけでいいんだ。下と前だけを押さえて……そうそう。たまにグイと引っ張られるけど、慌ててはいけないよ。さっき教えたみたいにするんだ」


 猫に釣りを教えるなんて変わった人間ねぇ、という瞳を向けられた。いやいや、釣りというのはなにも人間だけがするものじゃない。旅先で釣り竿を扱う獣人を見かけたことがあるからね。


「実は僕にとって釣りの先生は獣人で、寡黙な方だったし名前さえも教えてくれなかったけど、それ以外のことをたくさん教えてくれた。ずっと前に獣人語でミュイと話せたのはそのおかげなんだ」

「普通なら驚くところだけれどあなたは別かしら。人から教わるのが上手だなって思うし、私だって気づいたら冬までのあいだエルフ語を教えていたわ」


 パチパチと木の爆ぜる音を聞きながらそう言われた。

 しかし人生というものは教わることの連続だ。義務教育のあいだはもちろん、社会人になっても常に教わり続けている。


「教わるのはいいことだよ。得たものを他の人に伝えることだってできる。たとえば、辺りに生えているこの草だけど……」


 なんの変てつもない草を手に取る。

 茎を真っすぐに生やしており、途中の節でやや膨らんでいる。その根元と先を千切り、不思議そうに眺めているエルフさんに差し出す。


「息をふきかけてごらん。笛のようにね」


 ふうんとつぶやきながら、少女は色鮮やかな唇でそれを咥える。やや太めのストローくらいで、ぷうぷうと変わった音が河原に響き始めた。


「もうちょっとゆっくりと長く吐ける?」


 彼女の返事は、ぷーー、ぽーー、という面白い音だった。

 なかは空洞であり、太いぶん息苦しさはさほど感じない。しかしこの草には面白い特徴があって、ぬめりの強い液体が節のあたりに満たされていたりする。


 不審そうな薄紫の瞳に見つめられても「がんばって」と僕は続けるように促す。

 夕暮れどきも近く、空は茜色混じりになりつつある。そのころに、ようやく変化が訪れた。


 ぽわんっ、と透明の球体が現れて少女はびっくりした。

 そうなんだ、これは唾液と混じることでシャボン玉みたいになるんだ。虹色の球体はすぐに草の先から離れて、それは川べりを浮かんでゆく。


「わっ! ちょっと、なにこれ! びっくりしたじゃない!」

「ふふ、でしょう。エルブブという名でね、ブーブー鳴るからそんな名前になったのかもしれない。エルフ族と関係あるかは知らないけど、僕も一緒に吹いていい?」

「やりましょやりましょ! これのように丈の長い草がいいのかしら。へー、へー、面白いし興味深いわね」


 うん、こうやって瞳を輝かせられるのは旅のガイド役にとっての醍醐味だね。つい先ほどの景色は濡れネズミになるから大不評だったけど、ほんの少しくらいなら名誉挽回できそうだ。


 倒木に腰かけて、ぷー、ぽー、と可愛い音を響かせながら僕らは次々と透明の玉を飛ばす。

 マリーはエルフ族のなかでも好奇心が特に高い。子供のように夢中になって吹いており、ぷー、ぽー、という肩の力が抜けそうな音をたくさん河原に響かせていた。


 ちょうどそのころに見知らぬ魔女、そして獣に僕らは発見されたらしい。

 敵かと思って警戒をしていたらしいけど、こんな風に草笛をポーポーと夢中で鳴らしている光景を見たら、仕方ないけど彼女たちまで肩の力が抜けてしまうよね。可愛い獣人がバシャリと魚を釣り上げて歓声を上げていてはなおさらだ。


 どうせ今夜は帰り道の技能スキルを使えない。ここで一泊しようとキャンプ道具を揃えてもいるし、虹の山脈が誇る魚というものを楽しむべきだと僕なら思う。

 丸々とした美味しそうな魚も獲れたようだしね。


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― 新着の感想 ―
[一言] ミュイちゃんを日本に連れてきて欲しい!
[一言] 心地良い異世界感!
[一言] 毒気抜き名人カズヒホww
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