第282話 眠りにつく第二階層
とすとすと足音を立て、僕は薄暗い渡り廊下を歩いてゆく。
腹に抱えるほどの徳利は、爬虫類族や魔物らの絵がコミカルに描かれていて可愛らしい。けれど子供が運ぶには少し重い。ふうと息を吐いて、休憩しようと一旦それを床に置く。
そしてようやく僕はその景色に気づいた。
ぽつぽつとまばらに配置された行灯が床を照らしている。足元に困るほどではなく、その明かりのそばには椅子や素焼きの皿などが置かれていた。
ちょっと休んで行こうか。そう客たちは思い、友人と語り合う。そんな光景を思い浮かべられる空間が幾つも照らし出されていた。
渡り廊下には、外を仕切る壁も無い。暗い森からの冷たい風が届いて、月の明かりが差し込んでくる。
この空気をどこかで嗅いだことがある気がした。高級旅館というよりは、昔のころに感じた日本の香りだ。なぜか背筋がしゃんとして、頭のなかが静かになるあの感じ。
夢の世界の景色というのに、懐かしいと感じるのは不思議だ。そしてまた、こんな気持ちになるのは久方ぶりだと思う。
そのようにぼんやりしていると、いつの間にか背後に誰かがいたらしい。その子は木製の長いお盆を両手に抱え、冷たい風に頬を赤くさせる子だった。
「風が冷たくて気持ち良いわ。あなたの故郷はもっと寒いのでしょうけれど」
「やあ、マリー。うん、青森は本当に寒いよ。頬の感覚が無くなるくらい、山から吹き下ろしてくる風が特に厳しいんだ。マリーがどんな顔をするのか楽しみだと思うくらいにね」
うっ、と息を飲む表情を少女はする。
暑がりで寒がりなエルフ族というのは珍しい。とはいえ、もこもことした冬の服を着たらさぞかし可愛いだろうなと僕は思う。
マリーもこの景色を気に入ったのかもしれない。手にしたお盆を床に置くと、渡り廊下の縁に腰かける。振り向くと僕の袖を引き、少しゆっくりしましょうと誘いかけてくる。
古風な浴衣から覗く素足はまぶしくて、隣に腰かけると板張りの床でお尻がひんやりとした。
「不思議、なぜか贅沢だと感じるわ。日本よりずっと物が少なくて、石鹸さえなかなか手に入らないのに」
「うん、昔はずっと物が少なかったからね。そのぶん原始的で懐かしくも思うけど、この第二階層はかなり恵まれた環境だと思うよ」
ぶらぶらと素足を揺らしながら隣を見ると、大きくて宝石みたいな瞳から見つめられており不意に胸が高鳴る。人形のように精巧で、妖精のように愛くるしい子だ。近くで見るだけでダメージを受けかねない。
風に乗り、ここまで客人らの笑い声が聞こえてくる。それもどこか夜祭のような情緒を感じて、さわさわと心が浮き立つ。
風でほつれた横髪を少女は指ですくうと薄紫色の瞳を細めた。
「私、冬は嫌い。眠るとき指先が冷たくて眠れないもの。食事も質素でしょう? でも、今年の冬を越したら、そんな私の意見がひっくり返ってしまいそうで楽しみかしら」
「おや、ではご期待に応えないといけないね。前にマリーが言っていたように、今年の冬は忙しくなると思うし」
そう言って笑いかけると、少女は照れることもなく唇に笑みを浮かべる。エルフ族と人間族の結婚というのは珍しい部類だろうし、それが幻想世界の住人と日本の成人男性ともなればさらに希少だ。
だけど当人たちはというと、あっけらかんとしているのだから面白い。端からそうなるのが当たり前だと思っていて、月明かりに照らされた少女の瞳が楽しみだと言うようにきらめく。
「ふふっ、あなたって私とそっくりね。まるで血が繋がっているみたい」
「もしもエルフ族の血が僕に流れていたら、どれだけ嬉しかったことか。中にはその長耳に憧れる人だっているんだよ」
ふふーん、という表情で長耳をぴんぴん揺らされると、羨ましい気持ちがさらに高まる。触りたい? 触りたいの? と、薄紫色の瞳で問いかけてくるのは、反則級の可愛らしさだといつになったら気づいてくれるのだろうか。
「おっほん!」
すぐ背後からの咳払いに、ビック!と僕らの肩は同じくらい跳ねた。
振り返るまでもない。そこにはメイド長であるプセリさんがいて、少しだけ頬を赤くさせていた。
「ああ、ごめんなさいっ! すぐ運びますっ!」
「あなたが誘ったせいよ。私はちゃーんと働いていたのに」
あれぇ、ひとことも誘いかけていなかった記憶があるのに。そう突っ込もうとしたけれど、立ち上がった僕の襟首をムンズと後ろから握られてしまった。
「客人を待たせてはなりません。そのお酒は私が運びますから、カズヒホさんは厨房の食事を持ってきてください」
あっ、僕とマリーを引き離す気だ。
確かにね、一緒にいるとついつい話をしてしまうから、効率性を考えたらそうすべきだろうけど……。
慌ただしく配膳の品をカチャカチャ鳴らしながら遠ざかってゆくマリーに、僕はため息をひとつした。
風に乗って笑い声が響いてくる。
肌寒いというのに浮かれた空気はどこかお祭りみたいで、ふらふらと誘い込まれてしまいそうだ。
だけど浮ついてはいられない。僕の視界には山と積まれた食材があって、右へ左へ揺れている。今は落っことさず配膳することに集中しなくては。
だいじょーぶ?と隣から覗き込んでくるのは、ダークエルフ族の女性だ。フラフラ歩いている僕と比べて、イブの安定感は凄い。倍以上積んでいるにも関わらず、表情もまた涼しい顔だ。
普段と違い、浴衣姿で金髪を後ろに結わいている彼女が話しかけてくる。
「王族連中の偵察だけどさぁ、夜は休んで構わないってウリドラから連絡があったんだ。何とか技術を確立したとかで、えーと、ぷろじぇくた? 意味が分からないって答えたら説明してくれたんだけど、ちゃんと聞いてもぜんぜん意味が分かんなかったよ」
「プロジェクター? たぶん祝勝会のときに上映していたやつだね。そのことかな、さっき聞いた催し物というのは」
催し物?と怪訝そうにイブから小首を傾げられたけど、僕だって何も聞かされていないから答えられない。ただ、あの魔導竜のすることだから普通じゃない気はするかな。
広間の明かりが見えてきて、客人らの賑やかな声が響いてくる。
多くは笑い声であり、熱心に語りあう声まで響いていると……僕とイブは目を合わせ、それから足早に広間へと向かうことにした。
そして戸をくぐった瞬間、絶句した。
「うわっ、これは……!」
「えーー、ちょっとコレ、なにやってるワケ!?」
新築したばかりの洋広間、そして窓を解放した庭は、数え切れない攻略隊の面々で溢れていた。
彼らが熱心に見つめている先には、明るく照らされた布が見える。きっとこれが先ほど聞いたプロジェクター技術なのだろう。
僕らが絶句したのは、技術ではなくその内容だ。つい先ほど訪れていた古代迷宮第四層、そして強大な魔物と戦う正規軍の姿がそこに映し出されていた。
「ええぇーーっ!? なにあれ、どうやってるの、あれ? ついさっき、あたしが見てた光景のまんまじゃん!」
「こ、これか、ウリドラが『面白いもの』と言っていたのは」
ずん、ずずん!と重低音をあげて、大型獣が崩れ落ちる。雨のように降りそそぐ矢には魔法がかけられており、バチチと電気ショックを与えているらしい。
『右方向の魔物が固い。万能官、指揮を執りながら雷光の騎士の増幅を決して切らすなよ』
『お任せください、殿下』
陣営の中央に立つウォルス王子は、混沌とする戦場を油断なく睨みながら淡々と指示を出す。だけどそんな会話まで筒抜けで、王子の顔をドアップにするなんて。
これは最近になって動画作りに熱中している魔導竜の仕業だな。以前から迫力のある絵を撮りたがっていたけど、まさかリアルタイム実況を始めるとは思わなかったよ。
当の彼女はというと優雅にテーブル席へ腰かけており、こちらに顔を向けるところだった。
「北瀬、奴らにどんどん酒を飲ませろ。今宵は稼ぎどきじゃぞ」
「あ、うん、確かに盛況そうだけど……」
そう答えつつもぐるりと辺りを見回すと、初めてのリアルタイム映像というものに彼らは熱狂していた。
確かにこれほどの娯楽は無いだろう。本物の命を懸けた迫力たっぷりな映像だし、対するこちらはまったくの安全地帯だ。おまけに映像慣れしたウリドラの手腕によって特等席で眺めている気分であり、出される酒も飯もすこぶる美味い。
はあ、と感心と呆れの混ざった息が漏れた。
「驚いたけど、それよりもウリドラが元気になってくれたのは嬉しいな。お嬢様、鹿のソテーはいかがですか。赤のワインとよく合いますよ」
「ふ、ふ、ではいただこう。それと北瀬よ、先ほど気になることを言うていたな」
うん? なにをだろう。椅子を示されたので、残りの配膳はイブへ任せることにして腰かける。すると機嫌の良さそうな顔を彼女は近づけた。
「おぬしらは、ついに番となる決意をしたようじゃな。阿呆どもの騒ぎを楽しむ前に、まずはおめでとうの言葉を伝えよう」
にこーっと猫のように瞳を細め、嬉しそうな顔をされた。それから部屋の隅に向け、おいでおいでと手招きをすると、お盆を両手に抱えていた少女が少しだけ頬を赤くさせながら歩み寄ってくる。
きっと空気を察したのだろう。僕の顔をちらりと見て、それからとても嫌そうな顔をした。
「私たちがおちょくられる前に、ウリドラを酔っ払いにしてやりましょう」
「くふふ、可愛いエルフ族め!」
唐突に抱きしめられて、きゃあと少女は悲鳴をあげる。どこから見ても酔っ払いの行動であり、素面の僕らには耐えることしかできないね。
などと思っていたら、反対側の手を伸ばされて一息に抱きしめられた。
「おぬしもじゃぞ、可愛い人間族め。ふ、ふ、草食系と思わせておいて、いざとなったら早いのう。んむ、良い雄じゃ」
祝ってくれるのは嬉しいが、ぽんぽんと背を叩かれると気恥ずかしさがこの上ない。がばっと僕らは同時に身を離しかけたけど、その後ろ首に魔導竜の手が巻きついて、先ほどよりも深い抱擁を味わわされた。
柔らかな頬と触れ合い、うなじから首筋まで覗く着物から彼女の甘い香りがする。どこか品があり、また母性を感じさせるものだ。
そして、彼女の静かな声が鼓膜を震わせた。
「式にはわしも招待するのじゃぞ」
「も、もちろんよ。あなたには特等席を用意するから、美味しいものをたくさん食べながら楽しく過ごすと良いわ」
んふふー、と竜はまた上機嫌そうに笑う。僕らの髪をくしゃくしゃとさせ、それから「楽しみじゃ」とまた静かな声で呟く。
「生きる者は番になることが定められておる。互いに認め合ったならば、そろそろ現の世に目覚める時刻じゃ。後のことはわしがしておくから、ふたりとも温かな寝床に戻るが良い」
こくっと僕らは小さく頷く。耳に届く声はどれも優しくて、これまでずっと僕らのことを見守っていてくれたと分かる響きだった。
臆病な僕らの背を押して、もっと幸せになれるよう導いてくれていた。やきもきしながら、たまに悪態をつきながら、やっと一歩進みだした僕らを見て魔導竜は諸手で拍手をしてくれたのだろう。
身を離したマリーは瞳に涙をにじませており、それを見た竜は「まだ泣くには早いじゃろう」と少女の鼻を指で押す。
そしてバイバイと互いに手を振りあって、僕らは賑やかで楽しそうな洋風レストランを後にした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ふたりのために用意された離れは、しんとした静けさ、そして冷たい初冬の空気で満ちている。
よく手入れをされており、夜は暗く、朝は明るい。そして月明かりで輝く障子は、うつらうつらと布団で眠りにつこうとする彼らを照らしていた。
そのとき、静かに障子は開かれる。
隙間から現れたのは一人の女性であり、ほっかむりをしゅるりと解くと月に溶けてしまいそうな蜂蜜色の髪が現れる。
青空色の瞳できょときょと慌ただしく周囲を眺め、それから後ろ手に障子を閉じてから深呼吸をした。
その女性は、どうしたものだろうと思い悩むように、ごっくと喉を鳴らす。
もしかして……いや、もしかしなくてもこの状況はまずい。寝床に忍び込むなんてどうかしていたと後悔しているのか、立ったままシャーリーは薄い胸をドッドッと揺らしていた。
でも第三階層の開拓を考えると、どうしても現の世界に行きたくて仕方ない。きっと前よりも賑やかになるだろうし、そのための考えを多少なりとも持っている。
でも……と、青空色の瞳でちらりと下を見る。
そっとめくった布団から彼の匂いがしてくると、胸の鼓動はさらに高鳴ってしまい、これは無理ですと女性は首をぶんぶんと振った。
行くべきか、行かざるべきか。めくった布団のなかに足を入れ、抜いて、また入れてと繰り返しているうちに、ひと肌のぬくもりに魅力を感じる。冬の空気は冷たくて、こたつを恋しがる猫とよく似ていた。
まずいかなと思いつつ、そっと背中に身体を預ける。一度霊体に戻してから彼に入っても……という打開策を思い浮かべつつも、眠気をさそう体温には抗えない。
くああ、という欠伸まで漏れてきた。
もう身体はぴったりとくっついて、それは霊体のころには決して味わえなかった温もりだ。肩まで布団で覆われて、雪でも積もっているのかと思うほど外が静かで、もう眠ることしか考えられない。
眠い。身体がふわっとして気持ちいい。
幸せ過ぎて口が勝手に笑ってしまい、気がついたときには呆気なくころんと眠りについていた。
後に残されたのは、すうすうと響く眠気たっぷりの寝息。
やがて彼女らの気配は第二階層から消え去った。