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【番外編】エルフさん、柴犬と出会う①

 台所で食器を洗いながら、そっと振り返る。

 椅子に腰かけたマリーは何をするでもなく、暮れてゆく空を眺めていた。見るからに元気が無いし、長耳も普段より垂れている。


 さて、どう声をかけたものだろう。

 袖から覗く包帯を見るだけで僕の胸は痛んでしまう。さほど深い傷では無かったけれど、あのとき彼女の手から流れた血を思い出すだけで、ぎゅうっと胸を締めつけられる。


 買い物がてら、僕らはよく川沿いの小道を歩く。

 それはいつもの散歩コースであり、僕の手には図書館の本を入れた手提げ袋、そして反対側を彼女から握られていたと思う。


 さあっと川の匂い混じりの風を受けながら、薄紫色の瞳がこちらを見あげてくる。そして彼女は渋い顔をしながらこう言った。


「アニメの一番を決めるのはとても難しいことなの。どれも方向性が異なるし……そうね、パンとご飯を比較するようなものかしら」

「うーん、聞き方を間違えたかな。じゃあ一番じゃなくって、いますごく見たいものは?」


 ぱちんと彼女の瞳は瞬きをして、それから無意識に僕の指を握ってくる。何かを考えているとき、指先で手の甲をいじってくる癖があることは、たぶん僕にしか気づけていないと思う。くすぐったいけれど指摘をするつもりはまったく無い。

 眉間に可愛らしい皺を刻んだマリーは、意を決したように見上げてきた。


「そうね……続きが気になるという意味なら、あの紫色のロボットね。これまで私はロボット物のアニメ全般がまったく分からなかったけれど、あれは別。生々しさと、ぞっとする演出を高く評価したいと思うわね。おまけに今のテレビ版を見終えても映画版が待っているなんて凄いわ」


 う、うん、凛々しい顔ですごく早口になったね。

 これがオタクというものなのか、こちらが「よく分からない」という表情をすると「いかに魅力的なのか」を一生懸命になって伝えようとしてくる。


「あら、今夜の予定は決まったわね。日本に住んでいるあなたが大作を知らないだなんて、これはもう罪よ。はっきり言って有罪だわ。明日は日曜日だし、夜更かしをしても許される素晴らしさをお互いに楽しみましょう」


 ええ、本当に楽しみ、と言いたげに薄紫色の瞳は細められた。

 いつも寝てばかりだった僕は、アニメというか娯楽全般に疎いんだよね。トランプなら多少は分かるけど、テレビ番組もアイドルも、それからスマホのゲームも全然分からない。


「だけどこれは別! ね、知りたいでしょう。これまであったロボット物への概念が覆されるような衝撃を」


 うん、ぜんぜん興味ない。正直なところそう答えたいけれど、腕に抱きつかれると話は別だ。見たまんまだけど、マリーの頭のなかは今夜の夜更かしを思い浮かべているのだろうし、楽しみ、楽しみ、という感情が伝わってくると僕は弱い。


「じゃあ、今夜は夜更かしだ。アニメを観るために必要なものは、きっとマリーのほうが詳しいね。今のうちに買い込んでおくものはあるかな?」

「もちろんよ。ポテトチップスとお夜食、それにコーラは定番ね。これは日本の夜更かしにおける最もゴージャスなアイテムよ」


 そんな言葉をとても真面目に言うものだから、これはもういくら堪えても吹き出してしまうって。そんな僕はきっと誰からも責められはしないだろう。ただ一人、彼女だけを除いて。


「あら、笑うだなんて。いいわ、じゃあもうあなたのことをカズヒホって呼ぶ。もちろん他の人がいる前でもよ?」


 えっ、それは少しキツいなぁ……。

 などと話していたときに、ふっと彼女の視線は通りの向こうに向けられた。

 ここは定番の散歩コースであり、ご近所の方も利用している。犬の散歩としても適しており、飼い主のリードに引かれた犬がこちらに向かってくるところだった。


 何も言わずに、マリーはそそくさと僕の後ろに隠れた。

 さほど大きくない日本犬であり、ぴんと尻尾を立てて歩いてくる。はっはっという動物的な息づかいに背後の彼女は緊張を示す。


 夢の世界には、犬や猫という動物はいない。もっとたくましく身体の大きい狼などに追いやられ、弱い種は生き残れなかったのかもしれない。

 ぴとりと背中にくっついてもらえるのは嬉しいけれど、怯えが伝わってくるのは少し気になる。もちろん怖い動物ではないけれど、彼女はまだそれを知らない。


 ひょいとその動物はこちらを向いた。

 犬というのは、非常に気まぐれで好奇心の強い種だ。他の子とはまったく異なるマリーの容姿に興味を持ったのかもしれない。

 そしてまた、我が家のエルフ族も実は好奇心が非常に強い。ぺったりと背中に張りつきながらも、鼻を寄せてきた犬をじっと眺める。


 猫の扱いに長けているマリーも、相手が犬となると話は別だ。くんくんと嗅がれるのに身を強張らせ、でも好奇心がうずいて目を離せない。そんな顔をしていた。


 ふと目があった飼い主は、やや高齢の男性だった。


「すみませんね。うちの奴が可愛い外国の子に興味を持ってしまったみたいで」

「いえ、とんでもない。そちらも可愛い犬ですね。柴犬ですか?」

「そうそう、友人の飼い犬が産んでね。可愛いから貰ったけど、これがなかなかのヤンチャで。定年を迎えたばかりなのに、今度は躾(しつけ)を学ばないと」


 毎日忙しくて大変だと言い、はははと男性は笑う。でもその表情は「大変」とは正反対にも見えた。


 そんな話をしている最中も、犬とマリーの様子をたまに伺う。まだ若いためか身体は小さく、狐みたいに明るい茶色の体毛をしている。

 くんくんと尚も匂いを嗅いでおり、安定感たっぷりの脚は「ここを離れる気はない」と主張している感じがした。


 うーん、気が強いというか意固地になるタイプの犬なのかな。とはいえあんまり犬種の違いなんて僕には分からない。

 マリーもおっかなびっくりだけど、じっと真っすぐ見つめられるうちに少しずつ緊張を解きつつあるように見える。


 ぎゅっと握られていて僕のシャツは皺だらけだけど、折角だからこの機会に慣れてもらっておいて損は無さそうだ。そう思いながら高齢の男性に話しかけた。


「この辺りは散歩コースが多くて、都内でも飼いやすそうですね」

「そうだねぇ、ただ旅行をするのが難しいかな。お店とかに預けたら、私らの旅行費よりも高くつくんだ。これじゃあどっちが得をしてるか分かんないね」


 気さくな方らしく、皺の形は笑顔のために刻まれたようにも見える。短く刈った白髪をごしりと撫でて、彼は何かを言いかける。その瞬間「コラッ!」と怒鳴った。


 唐突な大声にびっくりした。

 それから何かを感じて振り返る。


 ゴルルという唸り声と、僕よりもずっと呆然とした少女の顔がそこにあった。慌てて身体を動かすよりも早く柴犬は口を離す。そして真っ白な肌からたらりと溢れてくる赤いものを見て、ざあっと全身の血の気が引いた。


「ま、マリーっ! 大丈夫? 痛くない?」

「え? あっ、へ、平気よっ。おじさまの声にびっくりしただけで……」


 跪いて傷の具合を見ようとすると、キャウッと犬の悲鳴が聞こえた。先ほどの主人が犬を組み敷いて「コラッ!」と再び叱っている様子に、少女は怯えて肩を震わせた。


「違います、今のは私が……!」

「申し訳ない、こいつが怪我をさせてしまって! ああ、血まで……私の家はすぐそこだから、急いで傷をみましょう」


 びっくりした顔のままのマリーを連れて、僕らは河川敷公園を後にした。

 それからすぐ近くの古い家で治療を受けて、消毒とガーゼ、そして包帯を巻かれて帰って来たというのが今という状況だ。



 牛乳をたくさん入れた珈琲をテーブルに置くと、まだ顔をこわばらせる少女が見上げてくる。そしてカップに視線を落としてうつむく。

 そしてようやく聞こえて来た言葉は、少しだけ予想と反するものだった。


「もう痛くないし平気。それよりもあの子、ひどい目にあっていたりしないかしら」

「躾のことかな。人に怪我をさせたなら、次はもうしないように躾けるのも飼い主の役割だと思うけど」


 テーブルの向かい側に腰かけながら、僕はそう答えた。たぶんいま一番動揺しているのは僕だと思う。今のは自分でも分かるくらいキツい口調だった。


 無理もない。真っ白な肌に流れた血は、これまで初めて見た彼女の傷だったんだ。血の気が失せる思いだったし、二度とあのようなことが起きて欲しくない。


 僕の顔をじっと見つめてくるマリーは、口ごもってからまた視線を落とす。そしてどう伝えたものかと思い悩む表情を見せながら、ようやく口を開いた。


「違うわ。そういう過保護なことを言うあなたは嫌い」


 見つめてくる瞳は力強い。そうじゃないと言いたい気持ちが伝わって、そして「嫌い」という言葉が胸に響く。そう言った本人こそが一番苦しんでいるようで、わずかに下唇を噛んでこらえていた。


「あなたは人間のなかで一番私の言葉を聞いてくれる人よ。だからお願い、ちゃんと聞いて」


 ね?と囁きながら、こわばった僕の手に少女の手が重ねられる。手の甲をすりすりと擦られる感触に、はっとした。

 これは思い悩んでいるときの彼女の癖だ。どう伝えようか考えて、なるべく真っすぐに最短距離で届く言葉を探している。


 肌の色素が薄いぶん、ぽつっと咲いた花のような唇を僕は見つめる。しばし手の甲をこすり続け、そして彼女は指の動きを止めた。


「あの子の嫌がることを私はしたの」

「……嫌がること?」

「うん、たぶんあの子、触られたくなかったの。でも毛がふわふわで気持ち良さそうだったから、つい手を伸ばしてしまったわ」


 ふむ、と唸る。

 動物とのコミュニケーションはそう単純なものじゃない。その良い例が幼稚園児などの態度だろう。可愛いからという理由だけで手を伸ばし、好きなだけ撫でたがるという行為……いや、欲求か。あれは自己満足しか叶えられず、対する動物はというと逃げるか我慢するしかない。

 そういうことをしたと彼女は悔いており、また下唇を噛んでこらえていた。


「ね、ひとつお願いをしても良いかしら?」

「うん、思っていることをそのまま言ってごらん」


 やっと普段の態度に僕は戻れたのかもしれない。ほっとした顔を彼女はして、先ほどの強張った顔つきは和らぐ。手の甲をいじる癖も収まって、そしていつもの笑みを浮かべてくれた。


「私、お友達になりたいわ。あの子の名前さえも知らないだなんて悲しいわ。その方法を一緒に考えてくれると嬉しいの」

「うーん、また新しいタイプの緊急任務だね。我が家のエルフさんは、夢から覚めた日本でもそういうクエストを見つけてしまうのか」


 にこりと彼女は笑った。

 ええそうよ、私はクエストを見つけてしまったの。そう言っているような笑みであり、誘いかける表情は僕の好奇心を刺激する。


「じゃあ明日は早い時間に連絡をしてみよう。だから夜更かしは禁止だし、アニメはまた今度かな」

「……気のせいかしら、まるで興味が無いような口ぶりに聞こえたわ」


 どきっと胸が鳴ったけれど、僕は極めて無表情な顔をする。


「いやいや、興味が無いなんてとんでもない。マリーが褒めるようなアニメが本当は気になって仕方ないんだよ」

「じゃあ食事をしながら観ましょう。すごく楽しいからお食事も美味しく感じるはず。ね、決まり」


 うん、手をつながれてそんなことを言われたら男というのは断れない生物なんだよ。

 アニメを見るより夢の世界で大暴れをしたほうが楽しいんじゃないかと思うけど、彼女がそう太鼓判を押すのならきっと大丈夫だ。



 その日、いつになく夕飯どきは賑やかだった。

 呪いの言葉と思えるほど少年は怨嗟の声をあげ、そして悲鳴と絶叫が響き渡るという……これ、本当に民放で流していたの? そう問いかけたかったけれど、彼女は「ここからが凄いの」と自信満々に言ってくると……。


「面白いアニメだね、マリー。じゃあお風呂に……」

「良かった。じゃあ2話目を流すわね」


 即座にリモコン操作をされて、僕は「これがオタク文化の洗礼か」と笑顔のまま固まった。

 そのように苦悩をしながらも、僕の頭は柴犬とどうやってお友達になれるかを考え始めていた。


 犬の気持ちが分からないのは僕も一緒なのだし、たぶん習うよりも慣れたほうが良いだろう。あとは今のうちにネット情報を漁るとしようかな。


 残酷なテーマソングを聞きながら、そう僕は思った。

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