第281話 戦士たちの帰還②
闇のゲートは真っ暗で、僕の周囲にいるはずの人の気配もぼんやりとしていた。
さわさわと響くざわめきは、まるで川の底で聞いているようで言葉の形を成していない。
唯一はっきり分かるのは、指先に絡む感触だ。すべすべで、マリーの匂いがして、ふと一緒に絵本を読んだ夜を思い返す。紅茶を飲み、屈託無く笑い、そしてあの美しい声で物語を聞かされて眠りについた夜を。
何も見えない。
何も聞こえない。
でもあまり怖くなくて、にぎにぎと指を握りあって遊ぶ余裕まである。声も聞こえないのに不思議だわと、少女から囁かれた気がした。
多分それは匂いがするからだ。どこか甘く、人肌のように安心させてくれる香り。ゆっくりとした胸の鼓動まで伝わって、このまま眠りについたらさぞかし気持ち良いだろうと思う。
そう思っていたときに、耳元に何かが触れる。脳裏に思い浮かべたのは赤く濡れた唇、そして耳に当たる吐息だった。
「本来、人は夜を恐れる。そこに己しかおらずとも、敵を探そうとする生き物だからじゃ。闇の中で見出せるのは、己の存在だけというのに」
綺麗で落ち着いた声は、普段のウリドラらしくない。いや、いつもはしゃいでいたせいで忘れていたが、初めて出会った魔導竜本来の姿のとき、こんな声で話しかけられた気がする。
「ウリドラ、夜の時代はどんな世界だった?」
「淡々と生き、淡々と死ぬ時代じゃった。臆病な者にとっては生き辛く、そうでない者には夢中になれる日々でもある」
落ち着いており、そしてどこか郷愁を思わせる声だ。いつまでも聞いていたくなる綺麗な声で、うっとりしながら僕は尋ねる。
「じゃあウリドラにとっては良い時代だったろうね」
「うむ、己を形作り、あやふやだった魔術を成してゆくのはたまらなかった。じゃが、この時代に変わってから、わしにも分かったことがある」
それは何だい、と振り返りながら問う。やはり真っ暗で何も見えなかったけれど、彼女は少しだけ頬を赤くしながら笑っていた気がした。
「ふ、ふ、わしは人が好きらしい。可愛い子らを、たまにこうして抱きしめてやりたくなるのだ」
ふくよかな温もりを背中に受けて、ドキッと胸が揺れる。そんな動揺さえ魔導竜は楽しんでいるらしく、くつくつという腹筋の震えが伝わって来た。
「竜人の存在、そして闇のゲートという魔導術は人の手に余る。大人数を瞬時移動させるなど、こと戦争においては無敵になれる代物じゃからな。しかし必ずや敵国も同じ力を得てしまう。人の時代などと呼ばれていても、泥沼の戦いだけが保証されているのは夜の時代と大差ない」
しかしそれでも人は必死に生きている。ならばせめて邪魔をしないように、魔導竜を含む古竜らは中立の立場を定めたのだと囁かれた。
彼女を通じ、長い長い歴史を振り返るような時間だった。古代の息吹を感じ取り、僕の胸はドキドキと高鳴りを増す。それさえも見透かされているのか、魔導竜からにっこりと笑いかけられた気がした。
――ざあっ。
一面に広がる草原が、風に揺られていた。
唐突な景色に皆は夢から覚めたばかりのような表情をして、草原と仲間の顔を交互に眺める。
その中で、平然としていられる者はごく少数だ。
「ゲートを使ってあっという間に帰れるなんて、いつぞやのバカンスを思い出しますわね。ああ、あの美しい海が恋しいですわぁ」
振り返り、そう笑いかけてきたのは統主プセリだった。他にもゼラやガストンといった隊長クラスの者たちも頷いており、二人は「あそこの酒と魚は美味かった。あと水着の破壊力もな」などと下らないことを言っていた。
にっと笑いかけてくる黒髪の美女を見て思う。
瞬時の移動術は確かに恐ろしい術だろう。しかしそこに敵がいなければ、単なる遊び道具に過ぎなくなる。日本を横断する新幹線と同じなのだとウリドラから諭された気がした。
飯だ飯だと言いながら皆は通り過ぎて行き、しかしハカムとアジャだけは凍りついて一歩も動けない様子もまた印象的だ。そして動けない男を動かすのは、いつだって女性の役割でもある。
「さあ、グズグズしていられませんわ。皆さん、お屋敷で美味しい食事をしたい者は手を挙げてくださいな。準備を手伝う方は特別にお安くしますわ」
パンパンと手を叩いて、プセリさんは皆を促す。鎧姿であろうとも、その姿はメイド長らしい立ち振る舞いをしている。
「あら大変、私たちも手伝いましょう」
そして僕の手をクイと引いてくる相手もまた女性だ。すべすべの指に引かれて、つんのめりながら僕は歩き出す。その先にいる少女は振り返り、早く早くと誘いかけてくれていた。
さて、早めに拠点に戻ったからといって、のんびりなんてしていられない。
敷地内にある離れで手早く装備を脱ぐと、あらかじめ用意されている割烹着に袖を通す。じっとしていて、と僕の肩に触れてくるのはマリアーベルで、手早く紐で袖をくくられた。
「急がなくっちゃ。たったの1時間で食事を用意しなければならないなんて」
「いつもはもう少しゆっくり出来るんだけどね。確かに王族が見ているなら真面目に攻略をしないわけには行かないか」
うーん、まるでお偉いさんの抜き打ち調査だ。
ドゥーラさんもいつになくピリピリしていたし、そもそも僕は今日の戦闘で何もしていない。せめて食事どきくらいは貢献したいものだ。ささやか過ぎて、ちょっとだけ悲しいけど。
そう思いながら立ち上がり、今度は僕がマリアーベルの割烹着を整える。真っ白でさらさらな髪を結わいて留め、三角巾をつけてあげる。
ありがとうと瞳で微笑まれると、すぐに厨房へ足を向けた。
からからと木製の履物を響かせて、足早に歩きながら少女は声をかけてくる。
「そういえば、さっきウリドラが面白いものを見せると言っていたわ」
「へえ、何だろう。ウリドラの言う『面白いもの』が、本当に面白いだけのものなら良いんだけど」
足元から「にう」という鳴き声が聞こえてぎょっとした。いつの間にやら並走していた黒猫がおり、もちろん彼女の耳はウリドラに繋がっている。
金色の瞳がこちらを向いて「ほほう」と言うような表情をしているのは……うーん、スパイがどこに潜んでいるか分からないし、まったく油断できないぞ。
知ーらないとマリーも顔をぷいっと背けているし、本日の夕飯作りはいつもより頑張らなければいけないようだ。
さて、お勝手の裏口に入ると、すでに何人かが夕飯作りの準備をしていた。
ダイヤモンド隊の面々はメイド服に身を包んでおり、これまでの花嫁修行によって配膳だけでなく簡単な調理も行える。特にイブなどはナイフ捌きが達者なためか、お刺身まで作れるようになったのだが本日はスパイ活動とやらでお休みだ。
土間に積まれているのは新鮮な野菜たちで、これは既に収穫してあるものを裏手の保管庫から持ってきたらしい。
どさっとカゴを置いた女性は、汗を浮かべながら厨房に声を響かせた。
「皆さん、本日は普段よりたくさんの来客があります。てきぱきと仕事をして、私たちダイヤモンド隊の名声を高めますわよ」
「「はーーい!」」
トントンという下ごしらえの音と共に、皆は元気よく返事をする。
この厨房は拡張に拡張を続けており、今では10名規模で歩き回れるくらいの広さとなっている。見た目は少し地味だけどフレンチの厨房みたいに効率性は高い。
マリアーベルは一体ずつ火とかげを召喚し、ぎゅうっとお尻を押してコンロの隙間に入れていた。
「あなたたち、しっかり働きなさい。もしも盗み食いや脱走をしたら、尻尾の先に水をかけますからね」
そのなんとも物騒な脅しに、あははと周囲は笑い、夕飯作りは進められる。材料を煮て、焼いて、おなかが空く香りが厨房に満ちてゆく。
ふと外を見ると、空は夕暮れに変わりつつあった。茜色に照らされて、大人数でにぎやかに料理をしている光景には何とも言えない風情がある。
「皆とお料理をするのって楽しいわね」
そう肩が触れ合うような距離で囁かれた。薄紫色の瞳をした少女は、確か人間嫌いだったはずなのに。
本当にねと答えたかったけれど給金を受けている以上、浮かれてなどいられない。労働には喜びだけでなく苦しみもあるのだ。
その苦しみは、ひょいと顔を覗かせたプセリさんから告げられる。
手にした紙を広げ、注文を読み上げてゆくのだが、なかなか読み終えない。
最初はふんふんと聞いていた一同も、その長い長いオーダーに顔色を悪くさせてゆく。一体何人のお客が来ているのかと、皆は悲鳴混じりの顔を浮かべていた。
まさかだけど、先ほど聞いた「面白いものを用意している」というウリドラの企画によるものだろうか。普段よりずっと人数が多いし、酒とツマミの量がすごい。
「さあさあ皆さん、手を動かして。遅れたら遅れただけ屋敷の不評や不満に繋がりますわ。もうすぐ応援も来ますから、慌てず騒がずプロとして迅速に!」
パンパンと手を鳴らして、再びプセリは活を入れた。
この辺りのリーダーシップは彼女に勝る者はいない。マリーも漬物やお酒といったものを先に配膳することにしたらしく、ふらふらと危なっかしい足取りで食堂へと向かってゆく。
大丈夫かな、心配だな、なんて見つめていると、視界を塞ぐようにプセリさんの顔が現れる。ウェーブがかった宵闇色の髪を揺らして、にこりと迫力のある笑みを彼女は見せた。
「カズヒホさん、あなたのことを私は高く評価しておりますわ。働かざるもの食うべからず、という言葉もしっかり理解されているかと思います」
「ええ、はい、もちろんです!」
おっとっと、僕もしっかりと仕事をしないと怒られてしまうぞ。起きたら会社の仕事が待っているんだけど……なんて言い訳は通用しないからね。
だけどこの世界での調理というのは、普段できないものが多くて面白い。
例えばこの鹿肉だ。高タンパク、低脂質、そして鉄分豊富と、もはや健康食と肩を並べつつある食材。
これに香草をすり込んで、ニンニクや塩胡椒をまぶすような調理をするのは都内だとなかなか難しい。
先ほどの動作を五重定義の過負荷に覚えさせつつ、鉄板の熱を確かめる。旨味たっぷりの動物性の油を引いたら準備は完了だ。温野菜の用意を指示しつつ、ジャウッ、と鉄板の上で肉の焼ける音が響く。
うーん、上質だ。漂う香りを楽しみながら、近くにある赤ワインをひとくち楽しむ余裕も出てくる。
なんといっても五重定義の過負荷が大きい。スロットに覚えさせたものは自動で実行してくれるのだから、周囲を眺める余裕さえ生まれてくる。
ダイヤモンド隊は、元々仲の良い者たちだ。手際の良さは日毎に上達しており、威勢の良い掛け声が厨房に響いている。これなら今夜もどうにか乗り越えられそうかな。
そう思いながら鹿肉のソテーをひっくり返していると、ごっく、という音が耳元に響く。背後からは人の体温が伝わっており、目を向けるとそこには良く日焼けをした肌、そしてわずかに開かれた厚みのある唇が見えた。
「あーー、いい匂い。すっごくお腹が空いちゃうっ」
「イブ、ずいぶん遅かったね。向こうの人たちを偵察していたみたいだけど、何か分かった?」
ひくひくと形の良い鼻を動かしながら、彼女の青い瞳がこちらを向く。すでに食欲に負けているらしく頬は赤く染まり、瞳をとろんとさせていた。
耐えきれないよう己の身体を抱いて、はふうと熱っぽい息を吐く。
「どーしよう。今のあたしなら、お肉と引き換えで大事な情報を吐いちゃいそう。でもまさか、そんなひどい交換条件をカズヒホは言ったりしないよね? ね、ちゃんと信じてるから言わないで?」
うっ、なんだろう。すぐ近くにある唇から、言って、言って、早く言ってと催促されているみたいだ。
もしかしてと思いながら僕は口を開く。
「あの、ひょっとしてイブが『応援』に来てくれた人なの? なのに邪魔をしたらプセリさんから怒られてしまうよ?」
「うん、だから任せて! お腹いっぱいになったら本気出しちゃう!」
うん、君の肩の向こうで、プセリさんが見たこともないくらい恐ろしい顔をしているよ。冷気に当てられてゾッとしたみたいだけど、ダイヤモンド隊の査定に響くんじゃないかなぁ。
などと賑やかに過ごしながら、空には幾つかの星が瞬き始めていた。
気がつけば、鈴虫の音はもう聞こえてこない。いつの間にか秋を飛び越えて、冬に入ったのだろう。
そう思いながら、どさりと大量の野菜を鍋に入れた。
えーと、明日はコミカライズ①巻の発売日です。
特典などの詳細は活動報告かTwitterを参照してくださいませ。
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