第172話 一泊二日の伊豆旅行ですよ①
朝の4時――……。
時計のボタンを押すと、そんな時刻を表示される。
くあーと欠伸が漏れるほど眠いし、当然のことマリーもウリドラも目を覚まさない。それどころか、すかーっと実に気持ちよさそうな寝息を響かせたままだ。
折り重なった手足をどければ、ごろんと二人は仰向けになる。
ただ、僕の愛するクラゲ君はお休み中なので、しばらくしたら暑苦しさに目覚めて……くれると良いなぁ。
「むにゃり」
ん?と振り返ると、エルフさんは氷精霊を呼び出していた。
そんな片手間で召喚できるほど、いつの間にやら成長をしていたんだねぇ。嬉しいやら悲しいやらだよ。
暗闇のなかペタペタと素足で歩き、テレビをつける。
ぼんやり周囲は明るくなり、気になる天気予報は台風が無事に離れてゆく様子を教えてくれた。
うーん、やっぱりウリドラの勘は頼りになる。もしかしたら、これで多少は道も空いてくれるかな。
などと考えながら、とりあえず湯を沸かすことにする。
カチチとコンロに火を点けると、すうっと背後から半透明な手が現れた。ドキッとしたけど、大丈夫、大丈夫だ、心臓によくないけれど、これは大丈夫な幽霊だ。悲鳴をあげるのは駄目な幽霊の時だけだ。
「お、おはよう、シャーリー。眠くないかい?」
振り返ると、寝ぼけ眼の瞳が待っていた。
あれぇ、幽霊でも眠るのかな。くああと大きく開いた口を手で隠し、そして「こちらは任せてください」と小鍋を指さしてくる。
「じゃあお願いしようか、2人を起こすほうが大変だろうし。そこにあるビンには珈琲が入っているから。こっちがお砂糖ね。牛乳はお好みで」
じーっと青空色の瞳はそれらを眺め、そしてコクンと頷いたのか、それともカクンと眠りかけたのか分からない返事をされる。
とはいえ、完全に寝に入った2人を起こすのは大変だぞ。とりあえずベッド脇の間接照明を明るくしてゆくと、ゴスンとウリドラから蹴られた。
「痛っ!」
眠りながら蹴ってくる、だと!?
おなかをさすりながら近づくけれど、自動迎撃なのか彼女の素足はゆらりと持ち上がる。いや、これは危険だ。蹴られる可能性、そして薄い布団の下には全裸が待っているという意味での危険。後者は特にあぶないぞ。
綺麗な鎖骨を見せつけて、胸元は豊かな膨らみがズリ落ちを阻害している。そして太ももの暗がりは……駄目だ、直視できない。そのくせ的確に蹴られるものだから、ちょっとした苦行みたいだ。
そのように、起こすのはとても大変だったよ。最終的には、竜の尻尾から宙吊りにされたからね。
早起きは三文の得と言うけれど、その言葉を生んだ人物に「じゃあやってみて」と笑顔で伝えてあげたいかな。
ざりざりと、車は砂利を噛みながらゆったり進む。
周囲はまだ暗く、いつもより道はずっと空いている。ライトに照らされたアスファルトは濡れており、それは見事に逸れた台風が残したものだ。
トランクには旅行かばんをしまってあるし、お弁当も昨夜のうちに作り終えている。夢の世界には長期休暇を告げているし、そもそも趣味で参加をしているのだから文句を言われるわけがない。
ただねぇ、ドゥーラの無言のプレッシャーよ。
部下思いの優しい人なのは知っているけれど、攻略を中断することになって不機嫌なのは伝わってくる。いや、顔は冷静なんだけど空気がね、凍てつくようで……。
部下から慕われている様子は、何となく理想の上司という感じだ。
仕事はできてフォローもできて、常に結果を出している。もし彼女が会社にいたとしたら、きっと遅くまで残業をしていた……かもしれない。
中ボスとはいえ広間を制圧すると周囲一帯の魔物は消え、同時に無線障害も直るという嬉しい状況でもある。おそらくは魔素が晴れたおかげという話だけれど……そのため各隊も一時帰国し、のんびり休んでいるはずだ。
それにしても、ゼラから「まあ俺たちもゆっくりしようぜ」と声をかけられるなり、ドゥーラは顔を真っ赤にさせていたのは何だったのだろう。
「そ、そうね、わか、分かったわ」と珍しくドモる様子へ、周囲の部下たちも「おおおおお!」と盛り上がっていたけれど……ま、気にしないでおこうか。
カチカチとウィンカーを出して、ゆっくり高速道路へと向かう。
辺りはとても静かで、他の音といえばブロロと追い越し車線を抜ける車くらいだ。夜のなかドライブへ出発することは久しいせいか眠気は綺麗に消えていた。
これから東京を離れ、一路伊豆へと僕らは旅立つ。
同行者たちも、それはそれは気持ちよさそうに眠っているけれど、激闘の影響もあるように見える。戦いのあと、マリーだけでなくシャーリーまで眠そうに目をこすっていたほどだ。
ずり落ちたマリーのひざかけを、信号のあいだに整える。
長いまつ毛と綺麗に整った眉は、たぶん同年代の子たちも羨ましがると思う。いやいや、エルフの同年代ということは、おじいちゃんよりも上になるか。
うーん、可愛い。運転中でなければ、写真に収めておきたかったな。
熱いコーヒーをすすり、ほうと息を吐く。
バックミラーを見ると、どうやらまだシャーリーも目覚めていないらしい。肩をつかみ、半透明のまま、うつらうつらと船をこいでいる。
「シャーリー、眠いなら僕に憑依して構わないよ。そのほうが楽じゃない?」
「…………」
ぽーっと青空色の瞳は眠そうに瞬き、そしてコクリと頷く。ぬるりと身体に入りこむと、元階層主は静かに眠る。
まるで暖かい寝床を得たように、とても安心してくれるのだから僕としても嬉しいくらいだ。
マリーたちを眺めているだけで、実は嬉しい。
目覚めたらきっと騒がしくなるだろうけど、それはそれで楽しみだ。
珈琲を手にしかけ、「おっと危ない」と僕はつぶやく。今はシャーリーという同居人がいるのだから、眠気覚ましは厳禁だ。
おあずけされたけれど、しかし口端は笑みの形をしていたことに気づく。
どうやら僕は、伊豆旅行というものを、とても楽しみにしていたようだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
だいぶ早めに家を出たけれど、年内で最も混むお盆時期なのだから仕方ない。
渋滞を見越して、たぶんお昼にはつくだろうという考えだ。とはいえ台風が逸れたという事もあり、思っていたより東名高速は空いている。
7時から混み始めると聞くので、あと少し猶予はある。
ならば現地につく時間も少しだけ早まりそうか。マリーの希望していたバナナワニ園の前に、寄り道を楽しめるかもしれない。
などと、ハンドルを指で叩きながら考えていると、のそりと起き上がる子がいた。あたりはすっかり明るくなり、また日差しを和らげるカーテンがあるのは後部座席だけ。
少し驚いたかもしれないね、いつもと異なる3車線もの高速道路は。防音のための壁が延々と伸びており、そして一定間隔に街灯が連なっている。
しばらくぼんやりと眺め、前と後ろへ視線を何度か往復させてからエルフの少女は「うーん」と伸びをする。
「よく眠れたかい。まだかかるから、ゆっくりしていると良いよ」
「ごめんなさい、寝入っちゃったわ。着替えたのも覚えていないくらい」
うん、半分眠りながら着替えていたからね。
どうやらボタンを掛け間違えていたらしく、ひとつずつ直し始める様子だ。
「ふうん、これが高速道路かしら。いつもと勝手が違うから、目が覚めてしまったわ」
「速いぶん有料だし、もう少し経つとドッと混んで低速になるけどね。いまは大体このあたりを走っているよ」
そう言い、手元のスマホを手渡す。
カーナビ機能のおかげで、高価なGPSを買わずとも遠くまで旅行にいけるのは助かるよ。多少はナビ機能も足りていないけれど、僕らはそこまで頻繁にドライブをしないから我慢しておく。
「カナガワ県、エビナ市……。居場所が地図に載るなんて便利ねえ。日本に来たころ絶対に魔法国家だと思ってたのに。まさかひとつも無いだなんて思わなかったわ」
「もちろん魔法なんて無いし、それがあるのは物語、そして夢の世界だけだよ。ただ、魔法という共通認識があるのは不思議だね」
ほんの少し、彼女の知的好奇心を刺激したようだ。
薄紫色の瞳は輝き、そっと太ももへ手を乗せてくる。寝起きのせいでまだ温かく、そしてわずかにエルフなまりをした綺麗な声が車内へ響く。
「ええ、それに精霊や魔物という認識もそう。ほら、まるで互いの世界が何かでつながっているような気がしないかしら?」
「ん、興味深い。もしも繋がっているのなら、それは一体なんだろう。少なくとも、互いの世界でそれに気づいている人たちはいないね」
となると誰も知らないような存在、あるいは仕組みがある事になる。
僕が夢の世界へ訪れたのは20年近く前のこと。少なくともそれより前から行われているだろう。
「そして、互いの世界へ共通認識を与えられるような存在ね。ほんの少し、わずかなりに影響を与えているのよ、きっと。もしかしたらとても偉い神様かもしれないわ」
うーん、やはり会話する人がいると良いね。
高速道路というのは延々と同じ光景なものだから、わずかながらも眠くなる。僕の場合は「寝ない」と決めたらまず居眠りさえしないけど。
結論の出ない憶測は終わり、そしてなぜかマリーはきょろきょろと車内を見回す。ウリドラは寝入っており、シャーリーも同様だ。
2人きりの朝というのは貴重なせいか、もそりと少女は身を寄せてくる。そしてほんのすこしだけ影が落ち、ぷちゅと柔らかく頬へ触れられた。
「おはよう、一廣さん。目覚めるとあなたがいるのは、私はとても好きよ」
うっ、クリティカルヒットというやつか。
どきゅりと心臓に突き立てられたのは、彼女の声、それに吐息だ。女の子の匂いとともに囁かれ、ぼすんと漫画のように顔は熱くなる。
わ、の形に口は開き、そんな様子さえ楽しいのか肩へと触れ、じぃっと紫水晶の瞳で覗きこんでくる。僕よりずっと小さな子なのに、真珠のような歯を覗かせて笑うのは……困ります。
とはいえ、今回ばかりはエルフさんも失敗したようだ。
僕の変化によって目覚めたらしきシャーリーは、ふわりと身体から離れると、己の頬を不思議そうにさする。
まるで「なんですか、いまのは?」という風に小首を傾げられたら、今度はマリーのほうが赤面してしまう番だ。
「なっ、なんでもないわっ! ただの朝の挨拶なのっ! 日本では普通なのよ、普通っ!」
うーん、苦しい言いわけだねぇ。とはいえ僕としてはようやく珈琲を飲めるようになったので、とっくに冷えたコップを手にする。
どうやらシャーリーも目覚めたらしく、肌はゆっくりと半透明から濃いものへと変わる。そして「なるほど」と合点したのか、エルフのあごへ指を当て、上向かせてから頬へ「ちう」と音を鳴らした。
ぶっぼ!と飲みかけた珈琲を僕は吐く。
わななきながら、みるみる赤くなってゆくマリー。
そして、すべすべの感触が気に入ったらしく、続けざまの「ちうちう」というキスは、眠気を吹き飛ばすには十分すぎる破壊力だ。
「ふああっ……んー、あいかわらず朝っぱらから騒々しいのうー、おぬしらは」
ようやく目覚めたウリドラも、呆れの表情を向けてくる。けれどたぶん、次の標的は君だから。もうすぐ慌てふためくんじゃないかなあ。
やがて車内には「んわあっ!」という悲鳴が轟いたけれど、いやいや、もうすぐ小田原に着いちゃいますよ、幻想世界のみなさん。
そうしたら、すぐに海の見えるドライブコースになるから大変だよ?
やはり騒々しくなった車内へ、不思議と僕の頬は緩んでしまった。




