第一話 子午線の町で、部室に迷う
明石では、時間まで少しだけ特別に見える。
この町には東経百三十五度の子午線が通っていて、日本の時間の基準になっているのだと、大久保つむぎは小学生のころから何度も聞かされてきた。
そんなつむぎが高校生になった入学式から三日後の放課後。
「……部室、どこ?」
明石東雲高校の旧校舎へ続く細い渡り廊下の前で、つむぎは頬にかかった黒髪を耳にかけながら、手の中の部活紹介プリントと目の前の通路を交互に見ていた。
思いがけず、ちょっとした迷子になってしまったのである。
新校舎の廊下は、まだ新しい木の匂いがする。壁も床も真っ白で、貼られたポスターの色すらまぶしく見えた。けれど渡り廊下を一本渡っただけで、世界は急に古びていく。
窓ガラスは曇り、床板は歩くたびにみしりと鳴った。まるで、この廊下を境に時間の流れまで変わったようだった。
中学時代のつむぎは、なんというか地味だった。友達がいなかったわけじゃない。部活も一応、美術部に籍だけ置いていた。絵が嫌いだったわけではない。けれど、夢中になって描く部員たちの輪に入れないまま、気づけば三年間が終わっていた。
高校では、何か変わりたい。そう思って部活紹介のプリントを読んだものの、運動部は体力に自信がなく、吹奏楽部も合唱部も未経験だった。どの部活にも、自分がそこにいる姿をうまく想像できない。
そんな中、プリントの隅にある小さな文字が目に留まった。
星時研究部
天文・地学・地歴・科学、なんでもあり。部員募集中。
何かひとつを好きだと言えないつむぎにも、「なんでもあり」の中なら、入り込める場所があるかもしれない。
そう思ったから、旧校舎まで来たのだけれど。
「二階、二階……」
案内図には、「旧校舎二階 資料室横」としか書かれていなかった。階段を上がると、突き当りに生物準備室、生物室、そして扉に小さな紙が貼られただけの部屋が並んでいた。生物準備室の扉の隙間から、古いホルマリンの匂いのようなものが漂ってきて、思わず早足になる。生物室の窓の向こうには、人体模型らしき影が見えて、それもまた、あまり近づきたくない光景だった。
三つ目の扉の前で、つむぎは足を止めた。紙には手書きの文字で、こう書かれている。
星時研究部
字は丁寧だけれど、紙自体は少し黄ばんでいて、貼られてからそれなりに時間が経っているらしいことがわかる。
端が少しだけ剥がれかけていた。つむぎはそこを指でそっと押さえた。自分がこの部に入るかどうかも分からないのに、そのままにしておくのが、なぜか気になった。
ノックしようか迷って、結局そのまま扉に手をかけた。中学のころなら絶対にしなかった行動だ。でもここで引き返したら、また「なんとなく」で高校生活が終わってしまう気がした。
扉を開けると、ひんやりとした空気と、古い紙と埃の匂いが鼻をくすぐった。部屋の中央には古い天球儀があり、壁際には地図と望遠鏡、窓際には茶葉の缶、ティーポット、コーヒーサイフォンが置かれていた。部室なのか、喫茶店なのかよく分からない部屋だった。
(……何をする部活なんだろう、ここ)
つむぎがそう思ったとき、視界の隅で何かが動いた。
天球儀の中――北極と南極を結ぶ支柱のあたりに、白い塊がうずくまっていた。最初はぬいぐるみかと思った。丸い体に短い手足、モルモットのような、うさぎのような姿。けれどその耳が、時計の秒針みたいに、ぴこ、ぴこ、と小さく動いている。
息を呑んだつむぎの前で、白い塊はゆっくりと目を開けた。真っ黒な瞳が、まっすぐにつむぎを見上げる。そして、こう言った。
「つむぎ、ちこく」
一瞬、時が止まった気がした。
「……え?」
声が出るまで、少し時間がかかった。
「今、しゃべった……よね? それに、なんでわたしの名前……」
白い生き物は、天球儀の支柱からのそりと這い出てくると、短い前足で床をとん、と叩いた。
「ちこく、よくない。正午はえらい」
「いや、あの、今正午じゃないし……というか、あなた誰?!」
混乱するつむぎをよそに、その生き物はあくびを一つして、また丸くなってしまった。ふわぁ、という声が聞こえた気がする。人生で一番、状況についていけない瞬間だった。頭の中では「これは夢だ」「いや違う」「幻覚かもしれない」「でも耳が動いてる」という結論が同時に押し寄せて、どれひとつとして着地しなかった。
試しに、もう一度声をかけてみる。
「あの……本当に喋れるの? 今の、空耳じゃなくて?」
返事の代わりに、寝息が聞こえた。すう、すう、と、あまりにも堂々とした寝息だった。人にあれだけの衝撃を与えておいて、こちらの都合などまるで気にせず眠りに戻るその態度に、つむぎは驚きを通り越して少しだけ笑いそうになった。
そのとき、廊下から足音が聞こえた。
「あれ、この部屋、鍵開いてる」
ひょいと顔を出したのは、明るい茶色の髪をふたつに結んだ、人懐っこそうな女の子だった。動くたびに髪の先が軽く弾み、制服のリボンの結び方が妙にこなれている。
「あ、先客おった。もしかして新入生?」
「はい。大久保つむぎです」
「うちも新入生! 磯辺あかりです、よろしくー」
名乗るなり、あかりはずかずかと部屋に入ってきた。天球儀を見て目を輝かせ、次の瞬間には窓際のコーヒーサイフォンを指さす。
「これ、うちの店にもあるやつやん」
「……あの、それより、そこに」
つむぎは、天球儀の下で眠っている白い生き物を指さした。
「この子、さっきしゃべったんです」
「しゃべった?」
あかりが白い生き物の前にしゃがみ込む。
「ほんまに? おーい、白いの。なんか言うてみて」
返事はない。聞こえるのは、すう、すう、という寝息だけだった。
「……寝とるな」
「本当にしゃべったんです。わたしの名前まで呼んで」
「名前まで? 会ったことあるん?」
「今日初めて見ました」
「それは、だいぶ変やな」
あかりは疑っているというより、面白いものを見つけたように目を輝かせていた。
そこへ、また別の声がした。
「ここ、星時研究部……? 本当に、まだ存在してたんだ」
短く整えた黒髪に細い銀縁眼鏡をかけた、小柄な女の子が部屋へ入ってくる。棚に立てかけられた望遠鏡を見るなり、その足が止まった。
「口径は……思っていたより大きい」
「もしかして、あなたも見学?」
あかりが声をかけると、女の子は望遠鏡から視線を外した。
「そう。天文に興味があって来た」
「うちは磯辺あかり。こっちは大久保つむぎ」
「星岡かなめ」
自己紹介というより、必要な情報だけを返すような口調だった。
かなめは床で眠っている白い生き物に気づき、眉を寄せた。
「どうして部室に動物がいるの?」
「知らんけど、この子、しゃべるらしいで。つむぎんが聞いたって」
「つむぎん?」
「今つけた」
「……」
「なんか、そう呼びたい気分やねん。だめ?」
「いえ、べつに……大丈夫です」
なんと答えていいのかわからないまま頷くと、あかりは満足そうに笑った。
かなめは小さく息を吐き、眠っている生き物を観察した。
「少なくとも、普通のモルモットには見えない。耳の形も、動き方も違う」
そのとき、開いたままの扉から、ふわりとした声がした。
「わあ、天球儀と古い地図……素敵なお部屋ですね」
顔をのぞかせたのは、長い黒髪を低い位置で一つに結んだ、どこか浮世離れした雰囲気の女の子だった。部屋へ入ると、棚の古地図に吸い寄せられるように近づき、表紙をそっと撫でる。
「古い地図、好きなん?」
あかりが尋ねた。
「はい。旧道や城下町のことを調べるのが好きなんです」
「うちはあかり。こっちがつむぎんで、眼鏡の子がかなめ」
「勝手に紹介しないで」
かなめがすぐに訂正する。
「星岡かなめ」
「大久保つむぎです」
「白石こよみです。よろしくお願いします」
こよみは三人へ丁寧に頭を下げたあと、床の白い生き物に気づいて、その場にしゃがみ込んだ。
「かわいいですね。モルモットさんでしょうか」
「しゃべるらしいで」
「まあ」
こよみは驚いたように目を丸くしたあと、眠っている生き物をじっと見つめた。
「明石には時間にまつわる話が多いですから、本当にそういう生き物がいても、少しだけ納得できる気がします」
「納得するの、早くないですか?」
つむぎが尋ねると、こよみは穏やかに答えた。
「まだ半分くらいです。実際に声を聞くまでは」
それはそうだ、と、つむぎも思った。
あかりは面白そうに目を輝かせ、かなめは正体を確かめるように観察し、こよみは半分だけ納得している。
反応は三人とも違っていたけれど、少なくとも、つむぎの話を頭から否定する子はいなかった。それだけで、少しだけ安心した。
四人が顔を見合わせ、なんとなく自己紹介を交わしていると、廊下から今度は落ち着いた大人の足音が近づいてきた。
「あら、今年はにぎやかね」
白衣の裾をひらめかせて入ってきたのは、肩までの髪を無造作に束ねた、三十歳前後に見える女性教師だった。
「地学担当の秋月みさきです。この部活の、一応、顧問をしています」
秋月先生はぐるりと部屋を見回し、四人の顔を確認するように眺めた。
「星時研究部は、もともと地学部、科学部、地歴部が、部員不足でひとつになった部活です」
「三つも混ざってるんですか?」
あかりが目を丸くした。
「ええ。活動内容については、明日詳しく説明します。ただし、その前に一つだけ、伝えておかないといけないことがあります」
秋月先生の表情が、少しだけ引き締まった。
「正直に言います。この部活、今のままだと廃部になります」
空気が静かになった。窓の外からは、ほかの部活動の音だけが遠く聞こえてくる。運動部のホイッスル、吹奏楽部の練習音――そうした賑やかさから、この部屋だけが少し切り離されているような気がした。
「一昨年度も昨年度も、体験入部に来てくれた子はいたんだけど、結局、正式な入部にはつながらず、休部状態で活動実績を残せなかった。学校側も二年間は猶予してくれたけれど、三年目の今年度も実績を残せなければ、正式に廃部になると言われています」
つむぎは思わず白い生き物を見た。丸くなったまま、ぴこ、と耳だけが動く。
「一学期の終わりに、文化部合同の校内研究発表会があります。そこで星時研究部として何か発表すること。それが、廃部を免れる条件です」
秋月先生がそう伝えた直後、それまで丸くなっていた白い生き物が、部屋の隅でもぞりと動いた。
「正午、えらい……発表も、えらい」
部屋が静まり返る。
あかりは口を半分開けたまま、白い生き物を見つめていた。
「……ほんまにしゃべった」
「だから言ったじゃないですか」
ようやく信じてもらえたことが嬉しくて、つむぎは少しだけ胸を張った。
「発声器官は、どうなってるの……?」
かなめが眼鏡を押し上げ、こよみは嬉しそうに微笑んだ。
「これで、残りの半分も納得しました」
「あの、先生」
つむぎは恐る恐る手を挙げた。
「この子、名前はあるんですか?」
「ああ、その子ね。私が赴任したときには、もうこの部屋に住み着いていて――」
「チック」
寝ぼけた声で、本人が名乗った。
「チック?」
つむぎは問いかけた。
「チック」
もう一度繰り返すと、白い生き物は満足したように耳を動かした。
「では、よろしくお願いします。チックさん」
こよみが律儀に頭を下げる。
「さん、いらない」
「そこは気にするんですね」
つむぎが言うと、チックは返事をせず、また丸くなった。
つむぎは手の中の部活紹介プリントを、もう一度見下ろした。さっきまで“なんとなく”入ろうとしていた部活が、急に、廃部の危機という重さを持って目の前に現れている。それでも――不思議と、悪い気はしなかった。
むしろ、少しだけ、笑ってしまいそうになる。しゃべる生き物がいて、廃部の危機があって、初対面の三人があっという間にこの部屋の空気に馴染んでいる。中学時代のつむぎからしたら、信じられないくらい騒がしい放課後だった。
旧校舎の窓から差し込む午後の光が、埃っぽい部屋を穏やかに照らしている。天球儀の星座線が、光を受けてかすかに光った。窓の外では、渡り廊下を歩く生徒たちの影が時折よぎっては消えていく。
東経百三十五度の線が通るこの町で、つむぎたちの、少し変わった部活が始まろうとしていた。




