市場の声
兵士としての非番の日。
ルーカスは、城と屋敷の息苦しさから逃れるように、王都の中央市場へと続く大通りを歩いていた。
ほんの数日前まで、この街は彼にとって、自分を拒む冷たく巨大な壁だった。行き交う人々は、その存在を意に介さない、無関心な奔流でしかなかったのだ。
だが、今の彼の目には、世界は全く違った様相を見せていた。
路地裏で日向ぼっこをしている、数匹の穏やかな野良猫たち。パン屋の前で立ち話に花を咲かせる主婦たちの甲高い笑い声。石畳の上を懸命に荷馬車を引く馬の、荒い息遣い。
その一つ一つが、この街を構成する確かな「生活」の音として、ルーカスの心に沁み渡っていく。
広場に差し掛かった時、巨大な石像が、彼の目に飛び込んできた。
天に向かってその翼を広げる、勇壮な獅子の像。このレーベダイド王国の守護者たる、『有翼の獅子』だ。だが、その威厳に満ちた姿も、近づいてみれば台座の隅に青々とした苔が生え、鳥の糞が白くこびりついているのがわかる。
かつては、建国祭の前になると、兵士たちが総出で隅々まで磨き上げていたはずの国の象徴。その現在の無惨な姿は、あたかも、この国の緩やかな腐敗と怠惰を、静かに体現しているかのようであった。
像の前で、老婆が一人、皺だらけの手を合わせて熱心に祈りを捧げている。
そのすぐ脇を、まるでその祈りを嘲笑うかのように、豪華な装飾が施された一台の荷馬車が、軽快な音を立てて走り抜けていった。荷台には、見たこともないほど色鮮やかな花々の苗が、満載となっている。人工的には生まれ得ないであろう、鮮烈な色彩と、強い生命力を持つ花々。それは恐らく、貴族たちの間で流行している、妖精憑きによる園芸品なのであろう。馬の毛並みも、手綱を握る御者の豪奢な服装も、彼らが富裕層であることを雄弁に物語っていた。
忘れ去られゆく祈りと、繁栄を享受する者たち。その鮮やかな対比こそが、今の王都の偽らざる姿であった。
やがてルーカスは、市場の喧騒の中、一つの店先で足を止める。
色とりどりの野菜や果物が、これでもかと山と積まれた、活気あふれる青果店。彼が心を許せる、数少ない人物が働く場所。
「おや、兵士さんじゃないか! いらっしゃい!」
店の奥から、太陽のように快活な声が飛んできた。声の主は、この店の女主人マーサだ。深く刻まれた笑い皺が、彼女の人柄の良さを物語っている。
「こんにちは、マーサさん」
ルーカスがぺこりと頭を下げると、彼女は「なんだい、また難しい顔しちゃって」と、母親のような口調で言った。「若いんだからさ、もっと笑いなよ。まあ、今日は冷やかしかい? ゆっくり見ていきなよ」
彼女との何気ない世間話は、ルーカスにとって、ささやかな安寧であった。今日は特に買うあてがあったわけではないが、この活気と、彼女の底抜けに明るい笑顔に触れるだけで、心が少しだけ軽くなるような気がした。
だが、マーサはふと、何かを思い出したように、その笑顔をわずかに曇らせた。
「……でもねえ、その『見ていく』品物自体が、最近めっきり減っちまって、困ったもんさね」
「え……?」
「ほら、これなんか見てみなよ」
彼女が指さしたのは、木箱に積まれたカブであった。どれも少し小ぶりで、葉には張りがなく、どことなく萎びて見える。精彩を欠いた痛々しい姿だ。
「西の方の農家から、毎年仕入れてるんだけどね。今年は本当に不作でさ。これでも、一番マシなやつを選んで、無理言って送ってもらったんだよ。なんでも、『嘆きの風』とかいうのが、あんまりにも酷いらしくてねぇ」
その言葉に、ルーカスの心臓が、どきり、と嫌な音を立てて跳ねた。
城の詰所で聞いた、あの不吉な単語。貴族たちが政争の具にしていた言葉が、今、目の前の生活の場に、否定しようのない現実として、その重い影を落としている。
「みんな本当に困ってるんだよ。お偉いさん方は、新しい税金を取り立てることばっかり考えてるみたいだけどさ。そもそも、採れるもんがなきゃ、払う税金もねえってのによ」
彼女はそう言って、はあと深いため息をついた。
その節くれだった手。野菜にこびりついた、乾いた土の匂い。
それは、机上の空論などではない。紛れもない、日々の生活の痛みそのものであった。
城の役人たちが「些細な問題」と切り捨てていたものの裏側で、マーサのように、名もなき多くの人々が日々、懸命に耐え、そして静かに苦しんでいるのだ。
ルーカスは、胸を締め付けられるような痛みに、何も言えずにただ立ち尽くしていた。
そんな彼の沈んだ表情に気づいたのだろう。マーサは「おっと、いけないね! あたしとしたことが、湿っぽい話しちゃった!」と、わざと明るい声を出すと、店の隅にあった木箱から、ごそごそと何かを取り出した。
「ほら、兵士さん。これ、味見だよ」
そう言って、彼女がルーカスの手のひらに乗せたのは、少しだけ表面に傷のついた、真っ赤なリンゴだった。
「あ、いえ、そんな……!」
「いいから、いいから! 傷モノで、どうせ売り物にはならないんだよ。でも、味はとびっきりだからさ!」
ルーカスは一瞬ためらったが、この善意を無下にしてはならないと思った。しかし同時に、ただ与えられるだけの、無力な弱者でいてはいけないのだ、とも強く思ったのだ。
彼は兵士として得たわずかな給金の中から、銅貨を数枚取り出すと、マーサの皺だらけの手のひらの上に、そっと置いた。
「味見、の分です。ちゃんと、お代は払わせていただきます」
マーサは一瞬きょとんとしたが、すぐにその意図を察し、にかり、と歯を見せて笑った。
「……そうかい。なら、ありがたく頂いとくよ。兵士さんも、隅に置けないねぇ」
手のひらに残る、リンゴのずしりとした重みと、マーサに渡した銅貨の消え去った感触。その二つが、今のルーカスにとって世界の全てのように感じられた。
ただ与えられるだけではない。対価を払う者として、対等に立つ。マーサの優しさが、ルーカスの心に静かな決意の炎を灯したのだ。
知るだけでは、駄目なのだ。嘆くだけでも、駄目だ。
この温かい手や、このリンゴのような、ささやかな優しさを守るために、自分も、何か行動しなければ。
それはもはや、単なる知的好奇心ではない。名もなき人々の痛みに触れたことで芽生えた、静かで揺るぎない義憤だった。
知ることは、戦うための準備なのだと、彼は理解した。
そして、自分には今、尋ね、そして協力を求めなければならない相手がいる。
彼はリンゴを一口かじると、迷いのない足取りで、ある場所へと向かい始めた。
職人街の路地裏に佇む、あの温かい隠れ家カフェ――『木漏れ日亭』へと。




