二つの正義
城内を巡回するルーカスの足取りは、以前にも増して注意深くなっていた。
かつてはただの石壁と絨毯敷きの廊下にすぎなかった光景が、今の彼にはあたかも生きた歴史をたたえる博物館のように感じられたのだった。壁に飾られたタペストリーに織り込まれた紋章の謂れ。甲冑の間に鎮座する古い鎧が、いかほどの時代の戦火を潜ったものなのか。すれ違う貴族たちが交わす会話の断片すら、彼にとって世界を知るための貴重な手掛かりに思えた。
彼の意識は、ふとした瞬間に、中庭に面した回廊から望める東屋へと引き寄せられた。
陽光が降り注ぐその優雅な空間で、数名の貴族たちが声を潜め、話し込んでいた。その中心に立つは、ボルコフ伯爵。きっちりと手入れされた見事な口髭が特徴的な、保守的な貴族派閥――『伝統派』の筆頭として知られる人物であった。
普段のルーカスであれば、面倒な争いに巻き込まれることを厭い、気づかぬふりをして足早にその場をやり過ごしたことだろう。貴族間の派閥争いなど、彼にとっては関わるだけで損失を招く危険地帯に他ならなかった。
しかし、今の彼は違った。『真実を知りたい』という強烈な欲求が、彼の足を東屋の死角――太い大理石の柱の陰へと導いた。
「――全くもって、嘆かわしい。この我が国の未来が、深く憂慮される!」
柱の陰から慎重に様子を窺うルーカスの耳に、ボルコフ伯爵の芝居がかった口調でありながら、確かな怒気を帯びた声が届く。
「宰相と、それに媚び諂う『繁栄派』の連中は、異国の得体の知れぬ妖術にうつつを抜かし、国を堕落の道へと引き込もうとしている。あれは明確なる『汚染』。偉大なる獅子王の教えを汚す、不浄な力なのだ!」
伯爵が持つステッキで地面がトンと打たれると、周囲の若い貴族たちは「その通りです!」「あれを野放しにすれば、国の秩序は乱れるばかり!」「断じて許せん!」と口々に賛同の意を示す。
妖精憑きがもたらす『汚染』。
その断定的な言葉の響きに、ルーカスは胸の内で静かに首を振った。
(違う。あれは汚染なんかじゃない)
リネットが壊れた懐中時計に触れた際の、優しさに満ちた温かい光を彼は思い返していた。彼女が扱う時、妖精憑きの力はかくも穏やかで、危険な気配は影を潜めるのだ。
(しかし……)
自身の身体が透けかけて消えそうになった、あの根源的な恐怖を、彼は忘れてはいなかった。
(伯爵の主張も、完全に間違いとは言えない。扱いを間違えば、あれは僕自身を消し去るほどに危険なものになる。……閣下はあれを単なる便利な『道具』としか見做さず、伯爵は『汚染』だと一方的に決めつけている。どちらも、その力の本当の姿を直視していないんじゃないか?)
そして、彼はより核心的な疑念へと辿り着く。
リネットたちは、いかにしてあの危険な力を、安全な形で御することができるのだろう。彼女たちのみが知る、その秘密とは何なのだろうか。
「おやおや、これは失礼。ボルコフ伯爵と皆様、麗らかな日差しの下、語らい中でございますかな?」
突如として、甲高く、どこか人を小馬鹿にしたような声が、中庭の静寂を破る。
声の主は、繁栄派に属する若手の役人であった。彼は数名の供を連れ、あたかも示し合わせたかのように、わざとらしい仕草で伯爵たちの前に立ち止まった。
「む……貴様は、財務局の者か……。何用だ!」
「いえいえ、用件など滅相もございません。ただ、あまりにも皆様が楽しげに昔話をされているものですから、つい、声を掛けてしまったに過ぎません」
「貴様……!」
ボルコフ伯爵の顔は、激情によって朱く染まりあがっていく。
「獅子王の教えを忘却した愚か者どもが!貴様らのような輩がいる故に、この国は堕落の一途を辿るのだと知れ!」
「黙りなさい、時代に取り残された石が!」
若手役人もまた、愛想笑いを捨て去り、鋭い言葉を放つ。「貴殿らが執着するその古臭い伝統とやらが、飢えた民の腹を満たしてくれますかな。妖精憑きがもたらす豊穣な富が、この王都の経済をどれほど潤しているか、それを知らぬ貴殿ではあるまい!」
瞬く間に、二つの派閥の間に一触即発の険悪な雰囲気が満ちた。互いに敵意を込めた眼差しを向け、今にも胸倉を掴み合わんばかりの勢いであった。
ルーカスは、ただその全てを見つめながら、息を殺し続けていた。
両者とも、「国のため」を声高に謳いながら。
両者とも、「偉大なる獅子王のため」と口上を唱えながら。
その実、彼らが必死に守りたかったのは、自身の地位、そして利権、そして自身が信奉する「正義」のみであったのだ。
そして、そのどちらの正義も、ルーカスにはどうにも歪んだものに思えた。彼らは妖精憑きの本当の姿を見ようとはせず、ただ己の都合のよいレッテルを貼り付け、相手を打ち破るための道具として利用しているに過ぎないのではないか。
結局、この言い争いは、どちらが屈するでもなく、繁栄派の役人が「これ以上の問答は時間の無駄です。我々は貴殿らとは違い、未来のための仕事がありますので」と痛烈な皮肉の捨て台詞を吐き、立ち去ることで、不完全に幕を下ろす。
残されたボルコフ伯爵は、「覚えておれよ……!」と悔しさを込めて拳を震わせ、周囲の若い貴族たちもまた、憤懣やるかたない表情で、各自の持ち場へと散って行った。
ルーカスは、東屋から誰もいなくなったことを確かめると、そっと柱の陰から歩み出る。
心の奥に鉛を流し込まれたように、胸が重く沈んでいた。
父のやり方が正しいとは到底思えない。だが、それをもって伝統派の主張が完全に正論であるとも思えなかったのだ。
この国の問題は、善悪という単純な二色だけで塗り分けられるものではない。より複雑で、より根源的な何かが、この王国の中心にて、底知れぬ深さで渦巻いている。
初めて知覚した、世界の複雑なる側面。
その巨大な事実の前に、彼は深い無力感を覚えずにはいられなかった。たった一人で何かを知り得たところで、この巨大な歪みそのものをどうにかできるはずがないのだから。
彼の胸に渦巻く苦悩は、もはや家族の枠を越え、社会全体にまで及ぶ、答えのない問題へと姿を変え始めていた。




