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獅子の国と迷子の妖精~宰相に捨てられた息子がたどり着いたのは、亡国の隠れ家カフェでした~【第一巻完/続き準備中】  作者: 相野端摘
【閑話集】猫集会、今週の報告

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ウォルター: 届かないスプーン、送りすぎるプレゼント

 ウォルターはファビウス家の執事です。

「食べなければ、身体が持ちません」


 私の言葉は、心配ではなく事実の列挙に過ぎない。


 かつて国を動かしたその手は、今や銀のスプーン一本さえ支えられない。

 カチャリ、カチャリと、銀食器が触れ合う頼りない音が、広いダイニングに虚しく響いていた。

 宰相家ファビウス邸の朝食は、いつだって儀式のように冷え切っていた。だが、今日のそれは、葬送の儀式に近い。

 黒曜石のテーブルの隅で、かつて絶対的な支配者であったギデオン・ファビウスが、小さく震えている。


「う……うぅ……」


 喉から漏れるのは、言葉にならない呻きだけだ。

 彼の顔や首筋には、青黒い痣が浮かび上がっていた。『嘘つき』『裏切り者』『役立たず』。呪いのように刻まれた罵詈雑言が、彼の精神と肉体を内側から蝕んでいるのだ。

 震える手がスプーンを口元へ運ぼうとするが、見えない何かに阻まれたかのように、スープはテーブルクロスへと零れ落ちた。


「……あ、あぁ……!」


 絶望に歪む顔から目を逸らさず、私はナプキンで染みを拭った。


「旦那様、無理をなさらず」


 スプーンを取り上げ、赤子にそうするように口元へ運ぶ。

 ギデオンは目を剥くが、以前のような雷鳴の如き怒声はない。この部屋を支配するのは、老人の湿った呼吸音だけだ。


 私は、影のように音もなく彼に食事を運び続けた。熱いスープで唇を火傷させぬよう、完璧な温度で。

 そこには忠誠も憐憫もない。あるのは、壊れた時計のネジを巻くような、冷徹なルーチンワークだけだ。


 これが、あなたが望んだ「絶対」の成れの果てでございます、旦那様。


     ◆ ◆ ◆


 午後。屋敷の空気は一変した。

 応接室には、重苦しい澱みではなく、活気ある商談の熱気が満ちていた。


「ほほう! これは見事な宝石ですな! これほどの品、市場に出せばすぐに買い手がつくでしょう!」


 恰幅の良い商人が、大げさな身振りで感嘆の声を上げる。

 テーブルの上には、ベアトリス夫人が残していった宝石や、ノエル様の大量の玩具、そして使われることのなかった豪奢なドレスが山積みになっていた。


 その対面に座るサイラス様は、氷のような無表情で書類に目を通している。


「お前の出した価格より二割増しだ。それ以下では売らん」

「に、二割!? 若様、それは少々……」

「このドレスは流行の最先端だ。王都の貴婦人たちが飛びつく。……それとも、他を当たるか?」


 サイラス様が冷ややかに告げると、商人は脂汗を拭って慌てて首を振った。


「い、いえ! 買い取らせていただきます! 喜んで!」


 私は壁の飾りになりながら、微かに目を細めた。

 毒婦が残した負の遺産を、復興のための輝く金貨に変える。これぞ、我らが若き主の手並みだ。

 商談が成立し、書類にサインがなされる。


 ここまでは、完璧だった。

 ここまでは。


「……さて。次は購入の話だ」


 サイラス様が、ふと声を潜めた。

 その瞳から知性の光が消え、代わりに熱に浮かされたような、狂信的な色が宿るのを私は見た。


「弟への仕送り品を選定したい。一覧を見せてくれ」

「おお! 弟君想いの若様だ! ささ、こちらへ!」


 商人が揉み手をして、分厚い商品一覧の束を広げる。

 嫌な予感がした。

 サイラス様は、ルーカス様の現状を「兵舎での過酷な生活」と認識している。だが、実際には城の警備という比較的安全な任務であり、生活も質素ながら自由を謳歌しているはずだ。

 しかし、この次期当主の脳内では、弟君は今にも飢え凍える哀れな子羊に変換されているらしい。


「まず、これだ」


 サイラス様が指差したのは、リストの表紙を飾る最高級品だった。


「『侯爵家に恥じない金糸刺繍の礼服一式』。デザイン案だが、どうだ」

「お目が高い! 最高級のベルベットに、国章を金糸で刺繍した逸品です!」


 私は静かに一歩前へ出た。


「若様。ルーカス様は現在、一介の兵士でございます。そのような煌びやかな礼服を着て、どこへ行かれるおつもりでしょうか」

「……む。しかし、急な夜会に招かれることもあるだろう」

「兵士が夜会に招かれることは、まずございません」

「……そうか」


 サイラス様は不満げに唇を尖らせたが、すぐに次のページをめくった。


「こちらはいかがでしょう! 『戦場でも優雅な睡眠を約束する天蓋付き移動ベッド』」

「素晴らしい! 広げればキングサイズの……!」

 

 私が無言で商人へ微笑みかけると、男は「ヒッ」と喉を鳴らして黙り込んだ。私は主人に向き直る。


「若様、ルーカス様が戦場に行くことがあるとお思いで?」

「そうだな。そもそも、ルーカスを戦場になど行かせはしない。私が阻止する」


 サイラス様は真顔で呟き、ページをめくる。


「ならば『純銀製のカトラリーセット(野営用)』」

「ルーカス様の部隊は城内警備です。野営はなさいませんし、盗難に遭うでしょう」


「『移動式の簡易書斎(馬車一台分)』」

「置く場所がございません」



 攻防は一時間にも及んだ。

 商人は次第に私の顔色を窺うようになり、サイラス様は肩を落としていく。


「……では、私は弟に何を送ればいいのだ。あのような硬いパンと薄いスープで、弟が痩せ細っていくのを黙って見ていろと言うのか」


 サイラス様が、悲痛な声で呟く。

 その表情は、冷徹な次期宰相ではなく、ただの不器用な兄のそれだった。

 私は小さく溜息をつき、しかし口元を緩めて、一つの提案をした。


「……若様。何事にも適正というのがございます」

「充分適正だと思うが?」

「いいえ、ルーカス様はファビウス侯爵家から去られた身。貴方様とは異なります」


 サイラス様はハッとした顔をし、それから深く頷いた。


「……そうだな。お前の言う通りだ」


 結局、商人は数点の注文を受け、実用的なレターセットだけを置いて帰っていった。


 応接室に静寂が戻る。


 サイラス様は、購入したばかりの便箋に向かい、真剣な表情でペンを走らせている。

 その横顔は、先ほどまでの鬼気迫るものではなく、どこか穏やかだった。


 かつて氷のように冷え切っていたこの屋敷に、このような温かな悩み事が生まれる日が来るとは。

 私はポットからカップへ、琥珀色の液体を注いだ。その水音が、先ほどよりも明るく、そして温かく部屋に響いた。


 やれやれ。手のかかる主を持つと、老い先短い身でも退屈する暇がございませんな。

 だが、油断はできません。


 サイラス様は書き終えた手紙を封筒に入れながら、独り言のように呟いた。


「……やはり、これだけでは不安だ。立ち仕事では足が冷えるだろう。最高級のムートンで靴下を作らせるのはどうだ……?」


 私はポットを持つ手を止めず、静かに決意した。

 次回の商談までに、「兵士の一般的な生活水準」についての資料を用意せねばなりますまい。

 結局、何をルーカスへ送ったのかは、この閑話集の最後の話で出します。

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