ルーカス: 行進! 猫、ねこ、ネコ、そしてルーカス
最初は一匹だった。それが二匹になり、四匹になり、角を曲がるたびに倍になった。
早朝の王城訓練場。まだ朝霧が残る冷涼な空気の中、ルーカスは一人、黙々とランニングをしていた。
ザッ、ザッ、ザッ。
規則正しい軍靴の音が、静寂にリズムを刻む。
ザッ、ペタ、ザッ、ペタ、ペタ。
……リズムが狂った。
ルーカスが恐る恐る振り返ると、そこには奇妙な光景が広がっていた。
無数の瞳が、一斉に彼を見つめていたのだ。
猫である。
十数匹もの野良猫たちが隊列を組み、彼の背後にぴったりと張り付いている。ルーカスがペースを上げれば猫たちも加速し、彼が息を整えれば猫たちも減速する。
完璧な統率。見事な追従。
まるで彼が、猫部隊の指揮官であるかのように。
「な、なんだ……?」
ルーカスの顔が引きつる。
周囲で訓練をしていた他の兵士たちが、手を止めてこちらを見ているのが分かった。
違う、と叫びたかった。だが、猫たちは真剣な顔つきで、あるいは単に朝の運動を楽しんでいる顔つきで、彼についてくる。
ルーカスは逃げるように訓練場を後にしたが、それが長い一日の始まりに過ぎないことを、まだ知らなかった。
昼下がり。王城の庭園には、柔らかな春の日差しが降り注いでいる。
幾何学的に整備された植え込みの間を、二人の兵士が歩いていた。ルーカスと、先輩のバルツである。
平和な見回り任務。しかし、その背後には、朝よりもさらに増えた「増援部隊」が続いていた。
「……なぁ、ルーカス」
バルツが肩を震わせながら言った。
「お前、前の賭けに出てた『猫集会』の首謀者は、実はお前だったのか?」
「違います! 断じて違います!」
ルーカスは悲痛な声を上げた。
彼の足元には、今や二十匹近い猫が群がっている。
それだけではない。猫たちはルーカスの両足の間を、まるで「8の字」を描くように交互にすり抜け始めたのだ。右足、左足、右足……。無限軌道のような毛皮の波状攻撃に、ルーカスは一歩も動けなくなる。
一匹の茶トラが、あろうことか硬直したルーカスのブーツの上に飛び乗った。
「うわっ、危ない……!」
ルーカスは慌てて、猫を振り落とさないよう奇妙なつま先立ちでバランスを取った。
邪険に蹴散らすことはできない。そんなことをすれば怪我をさせてしまうし、何より自身の良心が痛む。
だが、猫にとってそれは「構ってもらっている」という合図でしかなかった。
「ニャー!」
茶トラが嬉しそうに鳴き、ゴロゴロと喉を鳴らす。
「うわっ、ちょっ、押さないで……!」
もみくちゃにされるルーカスを見て、バルツは腹を抱えて笑い転げている。助け舟を出す気など毛頭ないようだ。
「先輩、笑ってないで助けてください……!」
二人が庭園のメインストリートに差し掛かった時、事態はさらに悪化した。
そこは城の、貴族に公開されているテラスから一望できる場所だったのだ。
テラスには午後のティータイムを楽しむ貴族や、それに付き従うメイドたちの姿があった。日傘の影から注がれる無数の視線が、ルーカスの背中を焼く。
「まあ、見て! 猫の行進よ!」
「あら、王城で新しいショーでも始まったのかしら?」
上空から黄色い歓声が降ってくる。
ルーカスの背筋に冷や汗が流れた。
目立ちたくない。ただでさえ実家の件で噂されているのに、これ以上「猫使い」などという変な二つ名を付けられたくない。
彼は顔を伏せ、早足でその場を通り過ぎようとした。
しかし、彼が加速すれば、当然、背後の猫部隊も加速する。
タタタタッ、と三十匹近い猫が一糸乱れぬ動きで追従する様は、上から見れば見事な軍事行進に見えたことだろう。
テラスからの拍手喝采を背に、ルーカスは逃げるように裏庭へと駆け込んだ。
人気のない裏庭のベンチに座り込み、ルーカスは深く溜め息をついた。
膝の上には、当然のように三毛猫が鎮座している。
「……はぁ」
「ほら、水だ。飲めよ」
バルツが革袋を差し出してくれた。ルーカスは礼を言って受け取り、乾いた喉を潤す。
「どうして、こんなことに……」
「動物は正直だ。お前の雰囲気が気に入ったんだろうよ」
バルツは隣に座り、ルーカスの膝上の猫を指先で撫でた。
言われて、ルーカスは膝の上を見た。
三毛猫は安心しきった様子で丸くなり、スースーと寝息を立てている。その温かさが、服越しにじんわりと伝わってきた。
ルーカスはそっと、猫の柔らかな毛並みに指を埋めた。無意識に耳の裏を掻いてやると、猫はウットリと目を細め、さらに身体を預けてくる。
指先から伝わる小さな鼓動。それは強張っていた彼の心を、ゆっくりと解きほぐしていく。
自分の呼吸が、猫の寝息のリズムと同調していくのが分かった。
「……まあ、悪い気はしませんね」
ルーカスは苦笑し、深呼吸をした。吐き出した息は、先ほどまでよりもずっと軽かった。
休憩時間が終わる頃、バルツが立ち上がった。
「さて、行くぞ。次は城内回廊の警備だ」
「はい」
ルーカスも立ち上がろうとすると、膝の上の猫が「ニャオ」と一声鳴いて飛び降りた。
それを合図にしたかのように、周囲でくつろいでいた猫たちが一斉に身を起こす。
またついてくるのだろうか。ルーカスが身構えた、その時だった。
猫たちはピタリと足を止め、それ以上ルーカスに近づこうとはしなかった。
彼らは知っているのだ。ここから先、石造りの建物の中は「人間のナワバリ」であり、そこに入れば本当に追い払われるということを。
一匹の黒猫が、ルーカスを見上げて、ゆっくりと瞬きをした。
それは猫流の親愛の挨拶だった。
ルーカスもまた、つられるようにゆっくりと瞬きを返す。
次の瞬間、猫たちは蜘蛛の子を散らすように茂みへと消えていった。
嵐が去ったような静寂が戻る。
あまりに見事な引き際に、ルーカスとバルツは顔を見合わせた。
「……あいつら、俺たちより規律正しいんじゃないか?」
「かもしれませんね」
ルーカスは笑った。今度は困った笑いではなく、心からの笑顔だった。
制服には数本の猫の毛が残っていたが、彼はそれを払わずに歩き出した。
王城のどこかで、今日も気まぐれな猫たちが「次の獲物」を探してあくびをしている。




