バルツ: 噂好きたちの推理ゲーム
絶対的な権力者への畏怖は、ほころびが生まれた途端、奇妙なエンターテインメントへと変わった。
その朝、王城の詰所は、乾いた砂の匂いと男たちの熱気で満ちていた。
窓ガラスを爪で引っ掻くような不快な音が響き、隙間風が兵士のうなじを撫でる。外では『嘆きの風』が吹き荒れているのだ。この陰鬱な侵入者から逃れるように、男たちはテーブルに身を乗り出し、馬鹿話に興じていた。
カツン、と硬貨が木のテーブルに積み上げられる。
「俺は、東の山脈に住むドラゴンのくしゃみに、銅貨三枚だ」
若い兵士が得意げに宣言した。
詰所の隅では、バルツが手慣れた手つきで革鎧を磨いている。その口元は呆れで歪んでいた。
彼らが熱中しているのは、数日前に起きた「ファビウス侯爵邸崩落事故」の原因を当てる賭けだった。
国の宰相ギデオン・ファビウス。その邸宅が一夜にして半壊した事件。公式発表はなく、当主は沈黙を守っている。
情報の空白は、無責任な想像力を育む最高の土壌なのだ。
「おいおい、ドラゴンはないだろ」
別の兵士が鼻で笑い、自分の賭け金を上乗せした。
「あの山脈の主が、わざわざ王都まで飛んできて、一発くしゃみをして帰ったって言うのか?」
「じゃあ、お前は何に賭けるんだ」
「決まってるだろ。猫だ」
兵士は真顔で言い放つ。
詰所が一瞬、静まり返った。バルツの手が止まる。
兵士は勿体ぶって人差し指を立てた。
「王都の裏を牛耳る『猫の王』が、あそこで集会を開いたのさ」彼は一拍置き、両手を広げてみせる。「数千匹が一斉に跳躍した衝撃波。……屋敷なんてイチコロよ」
どっと笑い声が上がった。
あまりに馬鹿馬鹿しい。だが、外の風音に怯えるよりは、猫の集会を想像するほうが幾分かマシだ。
バルツは小さく息を吐き、磨き終えた革鎧を置いた。
「お前ら、よくもまあ、そんな出鱈目を思いつくもんだな」
呆れたように言うが、その声色に剣呑さはない。むしろ、若い部下たちのガス抜きを容認している響きがある。
「バルツ先輩も一口どうですか? 今なら『隕石直撃説』が高い倍率ですよ」
「遠慮しておく。俺の給金は、もっとマシな使い道のためにあるんでな」
バルツは苦笑し、手元の剣を鞘に納めた。
賭けはさらに過熱していく。話題は自然と、屋敷の主であるギデオン侯爵その人へと移っていった。
「俺はやっぱり、呪いだと思うね」
声を潜めたのは、中堅の兵士だ。彼は周囲を窺うように視線を巡らせてから、テーブルの中央に銀貨を置いた。
「あの宰相閣下だぞ? 恨みを買ってる相手なんて、星の数ほどいる。愛人百人の怨念が渦巻いて、屋敷ごと呪い殺そうとしたんじゃないか」
「百人は盛りすぎだろ」
「いや、あり得る。最近、閣下が姿を見せないのも、実は呪いで寝込んでるからだって噂だ」
兵士は声をひそめ、おどろおどろしく付け加えた。
「体中に『裏切り者』だの『卑怯者』だの、文字の形をした痣が浮き出てるらしいぜ。自分の罪に食い殺されてるのさ」
不謹慎な冗談だが、誰も咎めない。バルツ自身、あの冷徹な宰相を好いてはいなかった。
「ま、あの方なら、何かの天罰が下っても不思議じゃねえがな」
バルツが独り言のように呟くと、兵士たちは我が意を得たりとばかりに頷いた。
「だよな! まったく、あんな親父を持って、ルーカスも不憫だよ」
「ああ。あいつは本当にいい奴だからな」
その場にいた全員の表情が、ふっと緩んだ。
ルーカス。ギデオンの次男であり、今は家を追放され、一介の兵士として彼らと共に汗を流している青年。
「この前も夜番に差し入れをくれたし、怪我の手当てだって手伝ってくれた。あんな家に生まれたってのに、あいつは俺たちと同じ目線で話してくれる」
兵士たちは口々にルーカスの美点を語り合う。権力者への反感と、弱者への同情。この二つが入り混じり、詰所の空気は奇妙な連帯感に包まれていた。
その時だった。
ガチャリ、と重い音を立てて、詰所の扉が開いたのは。
外の乾燥した風と共に、一人の青年が入ってくる。
整えられた兵士服。少し痩せているが、引き締まった体躯。
「――おはようございます、皆さん」
ルーカスその人であった。
喧騒が、断ち切られたように消えた。
カチン、と誰かの手から滑り落ちた硬貨の音が響き、あとは窓を叩く風の音だけが残る。
ドラゴンのくしゃみも、猫の集会も、愛人の怨念も、全てが喉の奥で詰まった。兵士たちは慌ててテーブルの上の硬貨を手で覆い隠し、不自然なほど背筋を伸ばした。
まさに「噂をすれば影」である。
しかも、彼は崩落事故の当夜、ボロボロの姿で王城に報告に来ていた。現場に居合わせた唯一の目撃者であり、真相を知る当事者なのだ。
気まずい沈黙が流れる。
バルツが咳払いを一つして、硬直した空気を動かそうとした。
「おう、ルーカス。……早いな。夜番明けじゃなかったか?」
「はい。報告書の提出があったので、少し早めに来ました」
ルーカスは穏やかに微笑んだ。
顔色は良く、その瞳には落ち着いた光が宿っている。実家が崩壊したというのに、悲壮感は微塵もない。
兵士たちは顔を見合わせる。彼が元気そうで良かった、という安堵。そして、やはり「真相」を知りたいという好奇心。
一人の兵士が、意を決して口を開いた。
「あー……その、ルーカス。実家のほうは、大変だったな」
「ご心配をおかけしました。ですが、きっと大丈夫です」
「そ、そうか。……で、その、やっぱり原因は……何だったんだ? 巷じゃ色々な噂が流れてるが」
兵士の問いに、全員の視線がルーカスに集中する。
ルーカスは一瞬、書類を持つ指先に力を込め――すぐに完璧な微笑みを貼り付けた。
彼はゆっくりと首を横に振った。
「……申し訳ありません。ファビウス家が公式に発表したことが、全てですので」
兵士たちは察した。
「そ、そうだよな! 無理に聞くことじゃねえよな!」
「悪かったな、変なこと聞いて。気にしないでくれ!」
兵士たちは慌てて話題を変えようと、過剰なほど明るく振る舞う。
ルーカスは「ありがとうございます」と深々と頭を下げ、書類を持って奥の執務室へと消えていった。
パタン、と扉が閉まる。
再び静寂が戻った詰所で、バルツは大きく息を吐き出した。
「……賭けは成立せず、だな」
誰も正解を出せなかった。いや、正解を知る機会を永遠に失ったと言うべきか。
しかし、兵士たちの顔に不満はない。むしろ、ルーカスの健気な姿と、彼が守ろうとした「秘密」の重さに触れ、妙な満足感さえ漂っていた。
一瞬の間。
やがて誰かがポツリと漏らした、「実はシロアリの大群」説という、さらにしょうもない噂が、ルーカスに気づかれないまま産声を上げた。




