リネット: ウィッグ危機一髪!
今日の敵は、祖国を滅ぼした貴族でも妖精憑きでもない。「風」だ。
「木漏れ日亭」の扉が悲鳴を上げ、看板が振り子のように揺れている。
「お嬢、本気ですか。この暴風の中、外出など正気の沙汰じゃありませんぜ」
カイが深刻な顔で腕組みをしている。彼の視線は、私の頭部に一点集中していた。
無理もない。私が被っているこの茶色のウィッグが飛べば、その下にあるプラチナブロンドの髪が白日の下に晒される。それは即ち、私が滅びたシルヴァ王国の生き残りであると露見することを意味し、かなりの確率で捕縛されるだろう。
だが、私はエプロンの紐をキュッと締め直した。
「あの薬草売りのおじさんが来るのは月一なのよ。今日行くしか無いの」
「……あのおっさん、お嬢が居るとおまけしてくれるからなぁ」
カイは壁の買い物カゴを二つ掴んだ。
「俺が風除けになります。俺の背中に張り付いて、絶対に離れちゃいけませんよ」
「頼りにしてるわ!」
私たちは決死の覚悟で扉を開け放った。
一歩出た瞬間、大男に突き飛ばされたような衝撃に襲われた。
「きゃあ!」
即座に頭を押さえる。あらゆる方向から殴りつけてくる風の暴力。前髪が逆立ち、生え際がヒリついた。
「お嬢、こっちだ!」
カイの背中にしがみつくが、魔の交差点で下からの突風が吹き荒れた。両手でスカートを押さえたのが運の尽き。ウィッグが浮く――終わった。
ガポッ。
視界が闇に落ちた。
頭に硬い何かが被せられたのだ。編み目の隙間から、困惑したカイの顔が見える。
「……カ、カイ?」
「す、すみませんお嬢! 両手が塞がってたもんで、咄嗟に!」
彼は私の頭に、空の買い物カゴを逆さまに被せたのだ。
ウィッグは、カゴの縁でしっかりと押さえ込まれている。完璧な防御だ。
「……前が見えないけど、しょうがないね」
「俺が手を引きます。このまま市場まで強行突破しましょう」
こうして、カゴを被った怪しい二人組は、強風吹き荒れる王都の街を突き進んだ。
カゴを被った奇妙な姿に、市場の人々は目を丸くしつつも「流行の最先端かい?」と笑ってくれた。
カゴを被ったままの私が現れると、馴染みの店主たちが目を丸くする。
行商人から無事に薬草を入手し、青果店に着くと、青果店のおばちゃんが豪快に笑いながら近づいてきた。
「あらあら、リネットちゃんったら。そんな格好してまで来てくれたのかい。ほら、おまけだよ」
彼女は笑い、艶々のリンゴを二つ差し出してきた。
「受け取れないよ、おばちゃん! 手が……」
「遠慮するんじゃないよ! ほら、カゴ貸しな!」
マーサの太い腕が伸び、私の頭上の「要塞」をむんずと掴んだ。
「あっ!?」
抵抗する間もなくカゴは引っこ抜かれ、ひっくり返される。そこへリンゴが二つ、有無を言わさず放り込まれた。
ゴロリ。重い音がして、私の頭が入るべきスペースが占領される。
「はい、持っていきな!」
返されたカゴはずっしりと重い。もう、被れない。
「ありがとう……! ルーカスがいたら、もっといい野菜を選んだでしょうけど」
「あいつなら、この風じゃ葉野菜の鮮度が落ちるとか言って、根菜ばかり選ぶだろうね」
私たちは笑い合ったが、内心は悲鳴を上げていた。
買い物を続けるうちに、カイが持っていたもう一つのカゴは野菜や肉で溢れかえり、私の頭を守っていたカゴも、本来の用途である荷物入れに完全に戻ってしまった。
「お嬢、そろそろ限界です。俺の両手も塞がっちまいました」
カイの両手には、パンパンに膨らんだ袋とカゴ。指に食い込む麻紐が、彼の物理的な限界を物語っている。
私の頭は、再び無防備な状態に戻ってしまった。
「帰り道は一気に駆け抜けるわよ。いいわね?」
「了解です。俺が風上を走ります!」
帰路。あと少しで店という路地裏で、今日一番の重く低い唸りが響いた。
圧縮された突風が、見えない巨人の拳となって襲いかかる。
「お嬢ッ!」
カイの両手は荷物で塞がっている。私もカゴで手一杯だ。
風が前髪を巻き上げる。こめかみでピンが弾け飛ぶ音が、断頭台の落下音のように響いた。
浮く。頭皮に冷たい外気が触れる。死の感触だ。
銀色の秘密が晒される――その時。
「ニャーーーッ!」
頭上から、茶色い毛玉が降ってきた。
ドスッ、という鈍い衝撃と共に、首がガクンと沈む。
その毛玉――茶トラの野良猫は、私の頭に着地するや否や、四本の足で私の頭蓋を鷲掴みにし、温かい腹の毛皮でウィッグを上からプレスしたのだ。
ウィッグ越しに爪が立つ。「痛っ」と思う間もなく、その痛みこそが「まだウィッグが頭にある」証拠だと気づく。
完璧なホールド。
生きた毛皮の帽子が、意地悪な突風から私の髪を――そして命を守り抜いたのだ。
「……え?」
私が呆然としていると、頭上の猫は「ふん、世話の焼ける人間だ」とでも言うように、尻尾で私の鼻先をペシりと叩いた。
風が過ぎ去る。ウィッグは猫の重みで定位置に収まっていた。ふかふかの腹毛から伝わる強烈な熱量が、凍りついた血管を無理やり解凍していく。
「……お嬢、そのまま帰りましょう」
私たちは、猫を乗せたまま店へと急いだ。
すれ違う人々が、ギョッとした顔で振り返り、そして吹き出す。
「見てみろよ、あの帽子。生きてるぞ」
笑い声が風に乗って聞こえてくる。秘密がバレる恐怖より、笑われる恥ずかしさの方がマシだ。
店の扉を開けると、温かい空気とハーブの香りが迎えてくれた。
「ただいま! 無事生還!」
出迎えたジェラールが目を丸くする。
「おや、お嬢様。随分と可愛らしいお土産を連れて帰ってきましたね」
私の頭の上で、茶トラが大きくあくびを一つしてから、店の主であるレオン様に挨拶するように短く鳴いた。
「ニャアン」と、頭の上で得意げな声がした。




