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獅子の国と迷子の妖精~宰相に捨てられた息子がたどり着いたのは、亡国の隠れ家カフェでした~【第一巻完/続き準備中】  作者: 相野端摘
宰相に捨てられた息子がたどり着いたのは、亡国の隠れ家カフェでした

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解放の言葉

 苦痛にのたうち回りながらも。

 ギデオンはその驚異的なまでの意志力で、燃えるような憎悪の視線だけを、その忌まわしい息子へと向けていた。常人であれば意識すら保てないはずの激痛を、彼はただ己の傲慢なプライドと、揺るぎない支配欲だけを燃料にして捻じ伏せていた。

 汚れにまみれた顔が、醜く歪む。

 そして、途切れ途切れに、呪いのような言葉を吐き出した。


「お前は……無益どころか、害悪だ。我が、ファビウス家の……面汚しめ……!」


 ごふっ、と、見えない針を飲み込んだかのように、ギデオンの身体が再び、大きく痙攣した。

 だが、それでもなお、ギデオンは最後の力を振り絞り、その歪んだ価値観における、最も重く、そして最も残酷な判決を言い渡したのである。


「――出て、いけ……!」


 出ていけ。


 追放の言葉。


 その言葉が引き金となり、ルーカスの脳裏に、これまでの灰色の虐待の日々が、走馬灯のように駆け巡った。


 ――『次男ルーカスの将来は、三男ノエルの補佐役とする』

 それは、生涯にわたって、弟のために富を搾取され続けることを意味した、奴隷契約に他ならなかった。


 ――『僕よりルーカスが頭いいなんて、絶対に嫌だ!』

 その幼い嫉妬の一言で、彼は全ての勉強を禁じられた。『勉強をしてはならない。だが、将来は領地を経営してノエルのために利益を上げろ』という、決して達成不可能な命令だけを残されて。


 ――『お前のような出来損ないに、高価な食事を与えるのは無駄だ』

 食事を与えられず、痩せ細っていくことを、『自己管理ができていない』と、彼自身の責任として罵られた。


 ――『ファビウス家の恥だから』

 友人一人作ることさえ許されず、孤独を強いられながら、それを『付き合いの悪い無能』と嘲笑われた。

 いつしか、父を「父上」と呼ぶことすら禁じられ、「閣下」と、血の繋がりさえ否定するかのように呼ばなければならなくなった、あの日々。


 全ての理不尽が、彼の落ち度にすり替えられていく。

 ただ、嵐が過ぎ去るのを待つだけの、空っぽの貝殻のように、息を潜めて存在していただけの、あの、長くて、暗い時間。


 これまでであれば。

 過去までのルーカスであれば。

 その一言は、ルーカスの存在そのものを根底から否定する、絶望の宣告であっただろう。

 生きる価値なし、と、この世で最も絶対的な存在から、断罪されたに等しいのだから。


 ――だが。


(……ああ、そうか)

 今のルーカスにとって。

 その言葉はもはや、心を苛む呪いの鎖ではなかった。


 それどころか。

 ルーカスをこの忌まわしい家から。長年、ルーカスの心を殺し続けてきた理不尽の連鎖から、完全に解き放ってくれる。

 祝福の鐘の音のように、聞こえたのだ。


 もう、ノエルのために、心を殺して富を搾取される、あの奴隷のような未来もない。

 もう、閣下の決して満たされることのない、理不尽な命令に怯える必要もないのだ。


 自由。


 ルーカスが、ずっと、ずっと、心の底から渇望してやまなかったもの。

 それが今、最も憎むべき父親の口から、与えられたのだ。


 すぅ、と息を吸い込むと、夜明け前の冷たい空気が、驚くほど美味しく感じられた。まるで、長年彼の肩にのしかかっていた鉛のように重い鎧が、音もなく崩れ去ったかのようだ。身体が軽い。世界が、昨日までとは全く違う色で見えている。これまで彼を縛り付けていた透明な鎖が、一本、また一本と砕け散っていく音さえ、聞こえる気がした。


 ルーカスは苦痛に歪む父の顔を、もはや憐れみでも、憎しみでもない、ただ、どこまでも静かな、凪いだ湖面のような瞳で見つめていた。


 絶対的な支配者。揺るぎない価値観の頂点。ルーカスにとって、父ギデオンとはそういう存在だった。だが今、目の前で苦しむ男は、なんと小さく、そして哀れに見えることだろう。ただ己のプライドを守るためだけに、見えない針に全身を苛まれながら、虚勢を張り続けるだけの、ただの初老の男だ。その瞳の奥に燃える憎悪は、ルーカスに向けられたものではなく、己の思い通りにならない世界そのものへの呪詛に過ぎない。もう、恐れる必要などどこにもなかった。


 そしてゆっくりと、しかしはっきりと。

 その唇を開いた。


「――はい、わかりました」


 父の絶対的な支配に対する、ルーカスの、静かで、しかし完全な勝利宣言であった。

 もはやこの家に、彼を縛り付けるものは何一つない。

 彼は自らの過去から、完全に解き放たれたのだ。


 その、あまりにも予想外の、そして、あまりにも晴れやかな返答に、ギデオンは一瞬、苦痛さえも忘れ、愕然とした表情を浮かべた。

 罵られるでもなく、泣いて許しを乞われるでもなく。

 ただ、受け入れられた。

 その事実が、彼の砕け散ったプライドを、さらに、粉々にした。


 それは、ギデオンだけではない。ルーカスの視界の端で、サイラスが、いつもかぶっている氷の仮面の下で、わずかに目を見開いたのが見えた。長年仕えてきた執事のウォルターは、信じられないものを見るかのように、そっと口元を手で覆っている。ギデオンを支えていた侍従たちでさえ、その動きを一瞬止め、驚愕の視線を二人の間に交わしていた。誰もが、この瞬間、ファビウス家の支配者の、絶対性という栄光が崩れ去ったことを悟ったのだ。


 だが次の瞬間、再び全身を襲う激痛に、彼は、「ぐ、ぅ……!」と、獣のような呻き声を漏らす。

 もはやギデオンに、何かを言い返す力は残されてはいなかった。


「……父上、屋敷へ」


 サイラスの冷静な声に促され、両脇を屈強な侍従たちに力なく抱え上げられる。

 だがギデオンは、その去り際にさえ、傲慢な敗者としての矜持を捨てなかった。

 ギデオンは憎悪に燃える瞳で、最後までルーカスを睨みつけると、まるで道端に落ちた汚物でも見るかのように、ちっ、と、忌々しげに舌打ちをした。


 その、怨念のこもった最後の視線さえも。今のルーカスには、まるで遠い岸辺で騒ぐ、見知らぬ誰かの声のようにしか感じられなかった。

 ギデオンが闇に消えていく姿を見届けることもなく、彼はすでに、その先の光――新しい世界で待つ仲間たちのこと、そしてこれから自分が何を成すべきかということだけを見据えていた。


 興味がない。

 憎む価値すらない。


 かつてルーカスの世界の王は、今や、彼の意識の中から完全に消え去った、ただの過去の幻影に過ぎなかった。


 侍従たちに引きずられるようにして、ギデオンは屋敷の奥へと続く、まだ闇に閉ざされた廊下へと消えていった。光のもとへと歩き出す息子と、闇の中へと沈んでいく父。二人の道が、今、完全に分かたれた。


 嵐は去った。

 ルーカスは晴れやかな、そしてどこまでも軽い気持ちで屋敷に背を向けた。

 何も持っていくものはない。

 この家には、彼の未練などひとかけらも残ってはいないのだから。

 ただ身一つで。

 ルーカスは新しい人生へと、歩き出そうとした。


 その背中に。温かみを帯びた声がかけられた。


「――ルーカス」

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