嘘つきへの報い
世界を包んでいた眩いほどの白い光が、ゆっくりと収まっていく。
気づけばルーカスは、ファビウス邸の裏庭に、一人で呆然と立ち尽くしていた。
肌を撫でるのは、もうあの異空間のガラスの破片のような空気ではない。 夜明け前の冷たく澄んだ空気が、彼の火照った頬を優しく撫でていく。
耳に届くのは、空間が軋む不協和音ではない。遠くで鳴く鳥のさえずりと、葉擦れの音だけだ。
悪夢は、終わったのだ。
ガサガサッ、と、すぐ近くの植え込みが大きく揺れた。
そこから聞こえてきたのは、複数の人間が慌ただしく、しかし巧みに気配を消しながら走り去っていく、微かな足音。そして、それに続くようにして、「にゃあ」「みゃう」という、いくつもの、小さな猫の鳴き声であった。
きっとリネットたちだろう。
彼らは、ギデオンたちに見つかる前に、そして、騒ぎが大きくなる前に、いち早くこの場から撤収したのだ。
見上げた屋敷は、その壮麗な姿を奇跡的に留めていた。壁の一部は崩れさり、窓ガラスが何枚か、粉々に砕け散ってはいるものの、倒壊は免れている。修繕すれば、再び暮らすこともできるかもしれない。
屋敷のどこからか、ギャアギャアと泣き喚くノエルら子どもたちの甲高い声や、人を呼ぶベアトリスのヒステリックな金切り声が聞こえてくる。彼らもまた、生存しているようだった。
その時だった。
ばきり、と、大きな音を立てて。
半ば外れかかっていた屋敷の重い扉が、内側から無理やりこじ開けられた。
最初に現れたのは、サイラスであった。
その後ろから、執事のウォルターや数名の使用人たちが、憔悴しきった顔で、ぞろぞろと姿を現した。
さらに後から、侍従に抱えられるようにして、明らかに衰弱しきっているギデオンが現れる。
ギデオンは、まるで生まれたての赤子のようにおぼつかない足取りで、庭へと一歩を踏み出した。そして、自らが生きて外に出られたことを確認すると、かすれた声で、ほう、と、安堵のため息を漏らした。
ギデオンは、自分を支えていた侍従の身体を、まるで汚れた杖でも捨てるかのように乱暴に突き放した。侍従はよろめき、地面に手をつくが、彼は一瞥もくれない。
そして、その目が、庭に一人佇む、ルーカスの姿を捉えた。
次の瞬間、それまで安堵に緩んでいたはずのギデオンの顔が、全ての憎悪と、侮辱の色をない交ぜにした、醜悪な表情へと変貌した。
「……貴様」
ギデオンは侍従の肩を乱暴に振り払うと、よろめきながらも自らの足で、ルーカスの前へと歩み寄ってきた。
「『約束』だと?」
その声は、心の底から、目の前の存在を侮蔑しきっている響きを持っていた。
「誰が、あのような戯言を、守るものか! この私が、貴様のような出来損ないに情けを乞うたとでも思ったか! 思い上がるな! 虫けらが!」
命を救われた、その直後。
ギデオンはその恩人であるはずの息子との約束を、即座に、そして何の躊躇もなく、反故にしたのである。
この出来損ないの息子に一杯食わされたという、燃えるような屈辱だけが、ギデオンの心を支配していた。
ギデオンの言葉に、息を呑んだのはサイラスだった。彼の表情には、父への侮蔑とも、弟への憐憫ともつかない複雑な色が浮かんでいた。長年仕えてきた執事のウォルターですら、その顔から一切の感情を消し、まるで石像のように微動だにしなかった。命の恩人である息子に、救われた直後に浴びせる言葉がそれなのか。この場にいる誰もが、その異常性を感じ取っていた。
だが、そのあまりにも浅ましい裏切りが宣言された、直後であった。
「――ぐっ……!? が、あ……っ!?」
ギデオンは突如、見えない何かに喉元を締め付けられたかのように、その場に崩れ落ち、のたうち回り始めた。
バタバタと、まるで陸に打ち上げられた魚のように地面を転げ回る。
「旦那様!?」
「父上、しっかり!」
サイラスたちが、慌てて駆け寄る。だが彼らには、何が起きているのか、全く理解できない。
ルーカスだけがその壮絶な光景を、顔を引き攣らせながらも、ただ、静かに見つめていた。
(……これが、『約束』の)
罰。
ギデオンは、絶え間なく見えない何かから殴打され続けていた。
彼の顔が、腹が、背中が、まるで万の拳で、同時に、乱暴に殴られているかのように、不自然に、歪み、跳ねる。
(……指切り拳万)
そうだ。あの子供じみた指切りの歌の、最初の罰。
だが地獄は、それだけでは終わらなかった。
「がはっ……ごほっ……! ひ……ぃ……!」
今度は口から、見えない何かを無理やり飲み込まされているかのように、ギデオンは喉をかきむしり、激しく咳き込み始めた。
(……嘘ついたら針千本飲ます)
ギデオンの苦しみようは、もはや正視に堪えないほどであった。
そして。
その苦悶に歪む、ギデオンの顔や首筋に。
まるで熱した鉄ごてを、押し付けられたかのように。
次々と、青黒い痣のようなものが浮かび上がってきたのだ。
――『卑怯者』。
――『嘘つき』。
――『裏切り者』。
――『役立たず』。
それはギデオンが、これまで他者へと無慈悲に投げつけてきたであろう、罵詈雑言の数々。
彼がその傲慢なプライドのままに、人々を傷つけ相手の心を殺してきた、言葉の暴力。
その全てが今、呪いの刻印となって、彼自身の身体に、くっきりと浮かび上がってきている。
ルーカスは、その壮絶な因果応報を、ただ、呆然と見つめていた。
『役立たず』という言葉に、ルーカスの胸がちくりと痛む。それは物心ついた頃から、数え切れないほどギデオンに投げつけられてきた言葉だった。あの冷たい朝食の食卓で。埃っぽい書庫の片隅で。あの言葉に、どれだけ心を殺されてきたことだろう。だが、今、その言葉は呪いの刻印として、言葉の主自身に返っている。
そして自分もまた、一歩道を間違えれば、あのようになっていたのかもしれないのだ。
リネットたちが掲げる、未来への希望。
それは、ただ優しいだけではない。
その光を守るためには、時に、これほどまでに苛烈で、そして絶対的な力が必要になるのだ。
ルーカスは、シルヴァの国是である『約束』というものの、その本当の重みを、その身に刻み込むように理解した。
守る者にとっては、何よりも心強い、守りの盾。
だが、それを破る者にとっては、決して逃れることのできない、裁きの矛。
約束を守り続けている自分には、今、何の罰も、下ってはいない。
あれだけ苛烈な力が、約束を守る限り、全くの無害であるという事実もまた、ルーカスは静かに受け止めていた。
その時。
苦痛にのたうち回りながらも。
ギデオンは、その驚異的なまでの意志力で、燃えるような憎悪の視線を、その忌まわしい息子へと向けた。
そして途切れ途切れに、何かを言おうとしている。
一体、何を。
ルーカスはその視線を逸らすことなく、ただ、真っ直ぐに受け止めた。




