指切りの指ぬき
ルーカスの静かでありながら揺るぎない宣言は、二つの分かたれた世界に響き渡った。
その言葉に、天井の向こう側の空気が、一変する。
「黙れ! 貴様、気でも狂ったか! この私と、取引だと!? 身の程を弁えろ、出来損ないが!」
父の、雷鳴のような怒声。
びり、と空気が震える。
ルーカスの身体は、長年、その声に刷り込まれてきた恐怖を思い出していた。呼吸が浅くなり、心臓を鷲掴みにされたように痛みが走る。足が震え、動けない。
(……怖い)
だが、ルーカスはその場から逃げ出さなかった。
すぐそばの瓦礫の陰には、彼を信じ、全てを託してくれた、リネットとカイがいる。
そして、天井の向こう側には、助けなければならない、ただ一人の兄がいる。
彼は、内側から湧き上がる恐怖を、決意の力で、無理やりねじ伏せた。
『――ルーカス、条件はたった一つ。「ファビウス家所有の『全ての』妖精憑きを、この事態を解決する者に譲渡する」こと』
私の名前は出せないから。と、耳元で、リネットの囁きがそっと響く。それが、彼の震える背筋を、すっと伸ばしてくれた。
「聞いてください、閣下! あなたが、ファビウス家の屋敷に存在する、『全ての』妖精憑きを、この事態を解決する者に譲渡すると、『約束』してくださるのなら! この悪夢は、終わります!」
直後、天井の向こうで地鳴りのような音が轟いた。大広間の壁に、巨大な亀裂が走り、ぱらぱらと、天井から砂が落ちてくるのが見えた。
「黙れ、黙れ、黙れ! 何を戯言を! 貴様に、何ができるというのだ! 貴様ごときが、この私を、脅すつもりか!」
ギデオンは、激しく喚き散らした。
だが、その声には、先ほどまでの絶対的な威圧感とは違う、明らかな焦燥の色が混じっていた。ギデオン自身にも、もう時間がないことは、分かっているはずなのだ。
「閣下は、まだお分かりにならないのですか」
ルーカスの声は、震えていなかった。
「あなたには、もう、選択肢など残されていないはずです。このまま、解決には役立たないプライドと共に、この歪んだ空間で朽ち果てるか。それとも、そのプライドを捨てて、生き延びるか」
「黙れ! 戯言を! そもそも、貴様のような役立たずに、この事態が解決できるという証拠が、どこにある!」
その言葉を、ルーカスは待っていた。
脳裏に、あの日の光景が鮮明に蘇る。
自分の足が景色に透け、存在そのものが世界から消えかかっていた、あの絶望的な感覚。壊れた懐中時計を握らされ、「呪いが解けるまで戻るな」と冷たく突き放された時の、父の氷のような瞳。あの時の自分は、ただ怯え、理不尽に打ちひしがれるだけの、無力な人間だった。
だが、今は違う。
隣には、命を預けられる仲間がいる。天井の向こうには、命を賭して守ってくれた兄がいる。そして何より、今の自分には、あの絶望を乗り越えたという、揺るぎない事実があるのだ。
父が切り捨てた「出来損ないの過去」こそが、今この瞬間、未来を切り開くための最強の武器になる。なんという皮肉だろうか。
ルーカスは、唇の端に、自嘲とも勝利の確信ともつかない、微かな笑みさえ浮かべていた。長年自分を縛り付けてきた恐怖の鎖が、内側から砕けていく音が聞こえる。
「――証拠なら、あります」
彼は、告げた。
ギデオンが認めるしかない、この交渉における唯一無二の、そして最強の切り札を。
「閣下は、お忘れになったのですか? 以前、僕は妖精憑きの暴走で体が消えかけて、ここを追い出されたことを。そして、暴走を解消し無事に戻ってきた、その事実を! 閣下は直接その目で見ているでしょう!」
その言葉は、ギデオンにとって、致命的な一撃であった。
現在ギデオンからは見えない、この『出来損ない』だと蔑んできた息子は、確かにあの呪いから自力で生還してきた。その方法こそが、この絶望的な状況を打開する、唯一の鍵である可能性。
ギデオンの顔から、血の気が引いていくのが、離れているルーカスでも分かった。
ガラガラ、と、さらに大きな崩落音が、天井から響く。巨大なシャンデリアが、ついにその根本から引きちぎれ、スローモーションのように、大広間の床へと墜落し、砕け散った。
「父上! もう、時間がありません!」
サイラスの悲痛な叫びが響く。
プライドか、それとも、命か。
ギデオンは、その人生で、最も屈辱的で、そして、最も重要な選択を、迫られていた。
「父上!」
再びサイラスの必死の声が響いた。
「今は、彼の言葉を信じるしか、道はありません! このままでは、我々は、全員……!」
メキメキメキッ!
さらに激しい揺れが、大広間を襲う。床が、目に見えて、大きく傾き始めた。侍女たちの、短い悲鳴が上がる。
ギデオンは顔を屈辱と憎悪で醜く歪ませながら、うめくようにその言葉を吐き出した。
「黙れ! ……クソッ! ……分かった! 約束してやる! だからさっさとこの状況を何とかしろ!」
――同意した。
その言葉を、聞き逃すリネットではなかった。
彼女は、瓦礫の陰から、すっと立ち上がると、首から下げていた小さな革袋の中から、銀色に、そして静かに輝く、何かを取り出した。
一見すれば、それは、ただの、豪奢な銀の指輪のように見えたかもしれない。
だが、違う。
それは、古のシルヴァの職人が、祈りを込めて作り上げた品。精緻な文様が全面に刻まれ、中央には、彼女の瞳と同じ、気品のある紫色の宝石がはめ込まれた、美しい、銀の『指ぬき』であった。
彼女は、その指ぬきを、自らの右手の、人差し指へと、ゆっくりと、はめる。
そして、どこか楽しむように、歌うように、あの約束の言葉を、静かに、唱え始めた。
「指切り拳万、嘘ついたら、針千本、のーます――」
その言葉を合図に、ルーカスとリネットは、同時に、天井の向こう側へと、力の限りに、叫んだ。
「――指、切った!!」
その言葉が、二つの分かたれた世界に、絶対的な法則として、響き渡った、瞬間。
ルーカスたちの目の前の空間が、ぐにゃり、と、まるで水面のように、大きく歪んだ。
そして、その歪みの中心から、浮かび上がるかのように、あの『羽根の車駕』が、自ら、その姿を、現したのである。
禍々しい、血のような赤色に染まった宝石が、未だに、憎悪と苦痛のオーラを、あたりに撒き散らしている。
だが、リネットは、もはや、少しも、怯まなかった。
彼女は、その哀れな妖精の『家』へと、ゆっくりと歩み寄る。
そして禍々しい車体へそっと手を添えた。熱にうなされる子供の額を撫でるように、優しく。
「――大丈夫だよ。もう、苦しまなくて、いいからね」
その、慈愛に満ちた言葉に、応えるかのように。
馬車の宝石が、ぽっ、と、温かい光を放った。
それは、まるで長い悪夢から解放された魂が、感謝の涙を流しているかのような、温かく、そしてどこか切ない光だった。ルーカスの耳にだけ、まるで鈴の音のような、か細くも澄んだ『ありがとう』という声が聞こえた気がした。虐げられ、ただ利用されるだけだった哀れな妖精が、初めて向けられた優しさに、その心を開いた瞬間だった。
血のような禍々しい赤色は、まるで浄化されるかのように、すうっと、その色を失い、無色透明な輝きを取り戻していく。
そして、やがて。
その輝きは、リネットの瞳と同じ気高く優しい紫へ、ゆっくりと変わっていった。
悪夢は、終わったのだ。
崩壊していく世界が、その動きを、ぴたり、と止める。
そして全てが、優しい、白い光に包まれていく。
その光の中でルーカスが見たのは、屈辱に顔を歪める父と、安堵の表情を浮かべる兄の、対照的な姿であった。




