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獅子の国と迷子の妖精~宰相に捨てられた息子がたどり着いたのは、亡国の隠れ家カフェでした~【第一巻完/続き準備中】  作者: 相野端摘
宰相に捨てられた息子がたどり着いたのは、亡国の隠れ家カフェでした

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分かたれた世界で

 三人が足を踏み入れたその部屋は、これまでのどの空間よりも、奇妙な静けさに包まれていた。

 歪んではいる。壁は緩やかに湾曲し、床はまるで呼吸でもしているかのように、かすかに上下している。だが、そこには、これまで感じてきたような、剥き出しの敵意はなかった。


 ルーカスはその部屋の光景に、思わず息を呑み、目を大きく見開いた。

 埃をかぶった簡素なベッド。書き物机。そして窓辺に置かれた、一脚の古びた椅子。


(……僕の、部屋だ)


 それは紛れもなく、彼が長年鳥かごのように閉じ込められてきた、自室の成れの果てであった。

 壁の向こう側から聞こえてくる、父と兄の、そして使用人たちの声は、すぐそこにあるはずなのに、まるで厚い壁に隔てられているかのように、くぐもって響いている。


 三人は、その声が、自分たちの「上から」響いてくることに、ようやく気づいた。

 三人は顔を上げ、言葉を失った。


 天井がなかった。


 いや、あったであろう天井は、まるで巨大な獣に食い破られたかのように、大きく口を開けている。

 そして、その穴のさらに向こう側。

 そこに見えたのは、逆さまになった壮麗なシャンデリア。崩れ落ちた大理石の柱。見覚えのある巨大なタペストリー。

 ――ファビウス邸の、大広間であった。


 ルーカスは必死に目を凝らした。父と兄だけではない。執事のウォルター、そして見覚えのあるメイドや兵士たちの姿も見える。誰もが、いつ終わるとも知れないこの悪夢に、疲労と恐怖の色を濃くにじませていた。

 兄サイラスだけが、唯一冷静さを保ち、彼らに指示を与え続けている。だが、その兄の額にすら、脂汗が光っているのが見えた。もう、限界が近いのだ。一刻も早く、この状況を打開しなければ。


「なんだってんだ、こりゃ……! 俺たちの真上に、あの広間が……!?」

 カイが、思わず上げた、驚愕の声。

 その、ほんの僅かな物音を、聞き逃す者ではなかった。


「――誰だ!」

 天井の向こう側から、サイラスの剃刀のように鋭い声が響き渡った。


「そこに、誰かいるのか!」

「ひっ……!」


 リネットが咄嗟に、近くにあった瓦礫の陰へとその身を隠し、カイはリネットを守るようにその前に立った。

 その反応を見て、ルーカスは瞬時に、この歪んだ世界の奇妙な法則を理解した。


(……見えていないんだ)


 そうだ。天井の向こう側にいる、兄上たちにはこちらの姿が見えていない。

 だが、こちらの声はあちらに確かに届いてしまうのだ。

 ルーカスは仲間たちの存在を隠すため、そして何より兄を救うため、意を決した。


「――僕です!」

 彼は穴の向こうへ、声の限りに叫んだ。

「ルーカスです、兄上!」


 その声に、天井の向こうが、一瞬、しん、と静まり返った。

 やがて聞こえてきたのは、サイラスの、これまでにないほどに、動揺しきった声であった。


「……ルーカス!? 馬鹿な……お前は、あの亀裂から、脱出したのではなかったのか!?」


 兄は――やはり自分を助けようとしてくれていたのだ。

 そして、自分が助からなかったと、誤解している。

 その事実に、ルーカスの胸が、熱くなった。


「黙れ! あの出来損ないが、なぜまだそこにいる! しぶといだけの、役立たずめが!」


 父ギデオンの、憎悪に満ちた怒声が、それに続いた。

 ルーカスは、その罵声を、もはや意に介さなかった。


「閣下! この事態を、収拾する方法があります!」

「黙れ! この期に及んで、まだ主人の私に指図をするか! 役立たずが、私に助言など、百万年早い!」


 ギデオンの怒声は、歪んだ広間に反響し、金属を擦るような不快さで耳を打つ。

 ルーカスは、その罵声を、もはや意に介さなかった。今は感情を殺せ。目的のためだ。

 しかし、全く会話にならない。


「閣下! この事態を、収拾する方法があります! 僕を信じてください!」


 彼は必死に食い下がった。だが、その言葉すら、ギデオンの歪んだ耳には届かない。


「信じろだと? この期に及んで、まだ主人の私に指図をするか! 貴様ごとき出来損ないの言葉を、この私が信じるとでも思ったか! そもそも、貴様が屋敷に災いを呼び込んだのだろう! この疫病神めが!」

「違います! これはノエルが――」

「黙れ! 弟の罪をなすりつけるか、この卑怯者め! 貴様のような無能を産んだ、あの女も、女だ! 病で死ぬとは、全く、最後まで役立たずの女であったわ!」


 こちらの姿が見えないことをいいことに、ギデオンは、日頃の鬱憤を晴らすかのように、一方的な罵詈雑言を、浴びせかけ続けた。


(……駄目だ。父上には、僕の言葉など、届きはしない)

 

 何を言っても無駄だ。僕がどんなに正しいことを言おうと、どんなに必死に訴えようと、父はそれを『出来損ないの戯言』としてしか受け取らない。僕の声は、彼の世界には存在しないのと同じだ。もう、万策尽きた。兄さん、ごめんなさい。僕は、やはり、無力なままだった……。


 あまりにも分厚い、絶望的なまでの、断絶の壁。

 ルーカスの心が、ぽきりと折れそうになった――まさにその時だった。


『――ルーカス、大丈夫』


 彼の耳にだけ、直接、リネットの、優しく、そして力強い囁き声が、響いてきた。

 はっと、横を見れば。

 瓦礫の陰で、リネットの胸についた、『囁きのブローチ』が、淡い、淡い、光を放っている。

 あの時、暗い路地で、あちこちの「声」をかき集めていたブローチは、リネットの「声」を確かにルーカスへと届けていた。


『私たちがいるから』


 声は、ルーカスにしか聞こえていない。


『これから、みんなを助けるために必要な『約束』の条件を、ルーカスにだけ伝えるから。あなたは、私に代わってそれをお父さんに、呑ませて』


 そのあまりにも心強い、絶対的な信頼の響き。

 そうだ。僕は、もう、一人ではない。

 僕は、ただの、虐げられてきただけの、宰相家の次男坊などではないのだ。

 滅びの運命に抗う、気高き公女殿下に、その全てを託された、唯一の。


(……僕は、リネットの『代理人』なんだ)


 そのあまりにも心強い、絶対的な信頼の響き。

 そうだ。僕は、もう、一人ではない。

 虐げられてきただけの、宰相家の次男坊などではないのだ。


 ルーカスの背筋が、すっと伸びた。まるで、見えない何かが、震える彼の身体を内側から支えてくれているかのように。父の怒声は、もはやただの雑音にしか聞こえない。兄の安否を気遣う気持ちも、亡き母を侮辱された怒りも、今は全て、胸の奥に灯った一つの熱い決意の炎を燃え上がらせるための薪に過ぎなかった。


 彼は、顔を上げた。

 その瞳に、もはや、迷いはない。

 父と、そしてこの歪んだ家に最後の戦いを挑むため――ルーカスは大きく息を吸い込んだ。


「――取引を、しましょう。閣下」

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