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獅子の国と迷子の妖精~宰相に捨てられた息子がたどり着いたのは、亡国の隠れ家カフェでした~【第一巻完/続き準備中】  作者: 相野端摘
宰相に捨てられた息子がたどり着いたのは、亡国の隠れ家カフェでした

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未来への餞別

 振り返ったルーカスの目に映ったのは、執事のウォルターだけを伴った、兄、サイラスの姿であった。

 他の使用人たちは既に、主を失ったかのような、混乱に満ちた屋敷の片付けのために、戻ってしまった後らしかった。

 夜明け前の青白い光が、兄の彫像のように美しい横顔を、静かに照らし出している。

 サイラスは瓦礫の欠片を踏む微かな音を立てながら、ゆっくりとルーカスへと歩み寄ってきた。

 そして、これまで決して弟に向けたことのなかった、深い、深い、悔恨の色をその青い瞳に浮かべると、静かに頭を下げた。


「……すまなかった」


 それはルーカスが、兄から初めて聞いた、心からの謝罪の言葉であった。


「私は父上の命令に背けなかった。いや……違うな。背かなかった、と言うべきだ」


 サイラスは自嘲するようにそう言った。


「お前を、あの理不尽な虐待の矢面に立たせることで、父上の追及の矛先が、私に向かうのを逸らしていたのだ。そしてその間に、私は父上の信用と、対抗するための力を、水面下で蓄え続けていた。……お前の犠牲の上でな。卑劣な兄だと、我ながら思う」


 その言葉は、これまでのルーカスの疑問の、全てに対する答えであった。

 ずっと、嫌われていると思っていた。自分を見捨て、父に媚びへつらう、冷酷な人間だと思い込もうとしていた。そうでなければ、この息の詰まるような毎日を、耐え抜くことなどできなかったからだ。


 しかし、違ったのだ。


 兄もまた、この歪んだ家で、たった一人で戦っていた。氷の仮面の下で、血の滲むような思いを押し殺し、弟を盾にすることでしか得られない、未来のための力を蓄えていた。


 広場で自分を守ってくれた、騎士隊の壁。屋敷の崩壊の中、自分を突き飛ばした、あの必死の形相。バラバラだった記憶のピースが、今、一つの真実の形に繋がっていく。


 そのあまりにも過酷で、孤独な覚悟を前にして、ルーカスはかけるべき言葉を見つけられなかった。ただ、兄の瞳に浮かぶ深い悔恨の色を、真正面から受け止めることしかできなかった。


「今はまだ父上の力が、この国には、そして、この家には欠かせない。だが、いずれ、必ず」


 サイラスは、顔を上げた。

 その瞳に宿るのは、夜明け前の空よりもさらに冷たく、そして鋭い、決意の光。


「この腐敗しきった国と、そして、この歪みきった家を。私はこの手で、必ず内側から正してみせる」


 その、力強い宣言。

 傍らに控えていたウォルターもまた、その言葉に、静かに、しかし、確固たる意志を持って頷いて見せた。

 ウォルターはもはや、ギデオンの執事ではない。

 サイラスという次代の主に仕える、忠実なる腹心なのだ。


 ならば。と、ルーカスは、ギデオンが受けた罰について兄の助けとなるよう、口を開いた。


「兄上。父上の、あの罰ですが……。あくまで、僕の推測ですが」

「……ああ」

「『約束』を果たせば。つまり、ファビウス家の全ての妖精憑きを相手に譲渡すれば、おそらく、あの苦しみは終わるか、少なくとも軽減されるはずです」


 その落ち着いた分析に、サイラスは少しだけ驚いたように目を見開いた。そして、フッと、その口元に氷が溶けるかのような、かすかな笑みを浮かべた。


「……そうか。ならば、好都合だ」


 その声には、冷徹な響きが戻っていた。


「今回の件で、屋敷は大規模な修繕が必要になる。その間、ノエルと義母上には、避難と称して、しばし遠方の領地の別荘で、静養していただくことにしよう。……少しばかり、頭を冷やす時間も必要だろうからな」


 それは事実上の追放宣言であった。

 会話が、途切れる。

 やがてサイラスは、何かを思い出したように懐に手を入れた。

 そして取り出したのは、一つの小さな金のロケットペンダントであった。


「これを売って、当座の生活費にしろ」


 それは乱暴な口調とは裏腹に、どこまでも優しい響きを持っていた。

 ルーカスは、差し出されたそのペンダントを、思わず受け取っていた。

 兄の手から伝わってきた、金のひんやりとした感触と、ずしりとした重み。それは、この小さな装飾品に込められた時間の重さそのものだった。指先で、繊細な彫刻が施された縁をなぞる。母が好きだったという、小さな星の花の意匠だ。


 カチリ、と、軽い音を立てて蓋を開ける。

 中に収められていたのは、若き日の、穏やかな笑みを浮かべた、美しい母の肖像画。陽だまりのような優しい瞳。今にも「ルーカス」と、自分の名を呼んでくれそうな、柔らかな唇の形。全てが、記憶の中の母と寸分違わなかった。

 その傍らで、少し緊張した面持ちで立つ、幼いサイラス。まだあどけなさが残るものの、その瞳には既に、家族を守ろうとする強い光が宿っている。

 そして母の腕に抱かれた、まだ、何も知らずに笑っている、赤子の自分自身の姿。


 三人だけの、幸せな時間の証。

 息を呑むほど精緻に描かれたその絵は、まるで小さな窓の向こうに、幸せだった過去の世界がそのまま保存されているかのようだった。

 それはこの冷たい屋敷の中で、確かに存在した温もりの結晶。

 サイラスにとっても、唯一無二の宝物であるはずだった。


「兄上……これは……」

「お前に、苦労ばかりかけた、私からのせめてもの罪滅ぼしだ。それに……」


 サイラスは、少しだけ遠い目をした。


「母上も……お前が、お前自身の足で幸せな人生を歩み出す、そのためのものならば、きっと喜んで、許してくださるだろう」


 そのあまりにも深く、そして不器用な愛情。

 ルーカスは込み上げてくる熱いものを、必死にこらえた。

 彼は、カチリ、とロケットの蓋を閉じた。そして、その冷たい金属の感触を確かめるように、強く握りしめる。

 そして、静かに首を横に振った。


「……ありがとうございます、兄上。でも、これは売りません」


 ルーカスは顔を上げた。

 その瞳に、もう、涙はなかった。

 ただ、夜明けの光のように、晴れやかで、そして、力強い輝きだけが、そこにはあった。


「僕にとっても……これは、大切な、母上の、形見ですから」


 その言葉に、サイラスは一瞬だけ息を呑んだ。

 そしてゆっくりと、静かに、本当に嬉しそうに頷いて見せた。


 もはや言葉は必要なかった。

 二人の間を、夜明けの最初の風が吹き抜けていく。それは、古い時代の淀んだ空気を洗い流し、新しい時代の到来を告げる、清浄な風だった。ルーカスは、傍らに立つウォルターに目を向けた。執事は目にうっすらと涙を浮かべながらも、どこまでも誇らしげな、満足そうな笑みを浮かべていた。それは、長年見守ってきた二人の若君が、ついにそれぞれの道を見つけ、固い絆で結ばれたことへの、心からの祝福の表情だった。


 兄は腐敗した家を内側から正す。

 弟は自由な世界で自らの未来を切り開く。

 その心には確かに、同じ思い出と、そして同じ母の愛情が結ばれていた。


 そしてルーカスは、背中に兄と執事の温かい視線を感じながら、朝日の登り始めたファビウス邸の門を出ていった。門の向こう側、陽光に照らされた王都は、昨日までとは全く違う、希望に満ちた輝きを放っているように見えた。


 まっすぐ、前だけを見て。

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