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獅子の国と迷子の妖精~宰相に捨てられた息子がたどり着いたのは、亡国の隠れ家カフェでした~【第一巻完/続き準備中】  作者: 相野端摘
宰相に捨てられた息子がたどり着いたのは、亡国の隠れ家カフェでした

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救いへの扉

 ルーカスの肌を突き刺すように、静寂が辺りを包んでいた。

 ルーカスは、ファビウス邸の裏庭であったはずの場所で、ただ呆然と、異様にねじ曲がった我が家の輪郭を見上げていた。

 そこにあるのは、もはや壮麗な屋敷の面影ではない。

 物理法則を完全に無視して歪み、明滅を繰り返す空間の断層。巨大な悪夢が現実を噛み千切ったような、禍々しい傷跡だった。

 そして、傷跡の向こう側には。

 ――あの、憎むべき家族たちもいる。


(……このまま、見捨ててしまえば)

 ふと、悪魔のような囁きが、ルーカスの脳裏をよぎった。

 このまま夜が明けるのを待てば、父ギデオンも、義母ベアトリスも、義弟ノエルも、この異空間ごと、跡形もなく消え失せてくれるのかもしれない。

 長年、自分を虐げ、ルーカスの心を殺し続けてきた者たちへの、これ以上ない完璧な復讐。

 誰も、自分を責める者はいないだろう。


 ――しかし、


(……それで、いいのか?)

 問いかける声が、心の奥底から響く。

(それでお前は、本当にいいのか?)

 胸の奥が、鈍くきしむ。


 兄は僕を助けてくれた。あの時、兄の瞳には何が映っていた? いつもの冷たい光ではなかった。そこにあったのは、弟の未来を案じる、焦りと必死の想い。僕がずっと昔に、心のどこかで焦がれていた、兄の本当の姿だったのかもしれない。

 脳裏に、弟を亀裂へと突き飛ばした兄の、苦悶とも祈りともつかない表情が焼き付いて蘇る。あの手がどれほど強く、そして震えていたか。自分を突き放した最後の瞬間に、兄の唇がかすかに「生きろ」と動いたのを、ルーカスは見逃さなかった。

 罪のない侍女たちは、恐怖に怯えていた。サイラスに庇われ、壁際にうずくまっていた若い侍女の顔を思い出す。


 ――良い訳がない!


 ルーカスは、自らの心に湧き上がった浅ましい考えを、奥歯を噛み締めて、振り払った。

 憎い。父も、義母も、ノエルも。しかし、この屋敷で、誰よりも怯えていた侍女たちは? 恐怖に顔を引き攣らせていた庭師たちは? そして何より、あの混乱の中、僅かに見せた兄の必死の形相。彼らを見捨てることこそが、彼らへの「裏切り」なのではないか。

 彼らを見殺しにして手に入れた自由など、何の価値もない偽物だ。

 それに。

 

(……あの『羽根の車駕(しゃが)』だって、本当は)


 そうだ、あの暴走する妖精もまた、閣下やノエルによって、心を傷つけられ弄ばれた、哀れな被害者なのだ。助け出すべき、被害者の一人のはずだ。閣下やノエルに「悪意」があったとしても、その「悪意」の対象となった者たちを、見捨てる理由にはならない。

 決意は固まった。

 背後で、いつの間にか彼の周りに集まっていた数匹の野良猫たちが、まるでその決意を後押しするかのように、「にゃあ」と、一斉に低い鳴き声を上げた。


 ――頼れるのは、もはやあの場所しかない。

 その事実が、彼の身体をまるで雷に打たれたかのように、突き動かした。

 ルーカスは、これまでの人生で最も速く、夜明け前の静まり返った王都をひたすらに駆け抜けた。

 人気のない家々が、薄闇の中でただ沈黙していた。

 石畳につまずき、転びそうになっても、止まらない。

 止まれるはずがなかった。止まってしまえば、あの兄の覚悟を裏切ることになる。

 

 脇腹が、ナイフで抉られるように鋭く痛む。息が切れ、肺が張り裂けそうになっても、ルーカスは足を止めなかった。痛みすら、自分が今、生きている証に思えた。兄が繋いでくれた、この命の熱さを感じていた。

 兄の、あの最後の必死の形相が。

 「行け!」という、魂の叫びが。

 ルーカスの脳裏に、強く、強く、焼き付いて離れなかったのである。


 息も絶え絶えになりながら、ルーカスは見慣れた円い看板の前へとたどり着いた。

 『木漏れ日亭』。

 ルーカスにとって、もう一つの大切な居場所。

 まだ夜も明けぬ時刻。当然、扉は固く閉ざされている。

 先行していた野良猫たちが、扉の前で助けを求めるように必死に鳴き続けていた。

 ルーカスが、鉛のように重い腕を上げて扉を叩こうとした――その時だった。

 店の中から、ドタドタドタッ! と、何かが激しく跳ね回る音がした。

 それはまるで、巨大な猫が住人を叩き起こすために、部屋中を走り回っているかのような、ただ事ではない音であった。外で待つ野良猫たちが、それに呼応するかのように、いっそう甲高く鳴き立てる。

 そして、その音に続くように。

 

「レオン様!? 一体、どうなさりましたか!?」


 というジェラールの、寝ぼけ眼をこするような、しかし明らかに慌てふためいた声が聞こえてきた。

 それと同時に店の二階の窓へ、ランプの温かいオレンジ色の光がぽつりと灯る。

 ――今だ。

 ルーカスは、残された、最後の力を振り絞った。

 ドン! ドン! ドン!

「すみません! 開けてください! ジェラールさん!」

 魂の限りに叫びながら、その扉を叩いた。


 ほんの僅かな後。

 かんぬきが外れる重い音がして、扉がゆっくりと開かれた。

 現れたのは、寝間着の上に慌てて上着を羽織っただけの、ジェラールであった。

 ジェラールは手にランプを掲げ、騒ぐ野良猫たちと、泥と涙に汚れた、傷だらけで息も絶え絶えなルーカスの姿を認めると、一瞬だけ、驚きに目を見開いた。

 だが、彼の視線はルーカスの傷や汚れではなく、その瞳の奥に宿る、これまで見たことのない強い光を見抜いていた。すぐに全てを察したかのように、その表情を厳しいものへと変える。

「……入りなさい。話は中で聞こう」

 その声は厳しかったが、ルーカスの腕を掴む手は驚くほど優しく、力強かった。まるで『もう大丈夫だ、あとは我々に任せろ』と語りかけているかのようだった。ジェラールはルーカスの肩を抱くようにして支えると、店の中へと招き入れた。


 物音を聞きつけて階段を下りてきたのだろう、寝間着姿のリネットとカイが、心配そうな顔で彼を見下ろしていた。

 ルーカスの目の前で、金色の毛並みがボサボサのレオンが、心配そうにぐるぐると喉を鳴らしている。その身体をルーカスにすり寄せ、「よくぞ来た」とでも言うように、ザラリとした舌で彼の涙を拭った。

 ルーカスは、この夜に起きていることを全て伝えた。

 『羽根の車駕(しゃが)』のこと。空間が、崩壊していること。

 兄が、自分を救ってくれたこと。

 そして今も多くの人が、あの悪夢の中に取り残されていることを。

 涙と、嗚咽に、言葉が何度も途切れた。

 それでも、彼は必死に訴え続けた。

 その言葉は、もはや昔の彼のような、ただ助けを待つだけの弱々しい響きを持ってはいなかった。

 兄を、名もなき妖精を、そして巻き込まれた使用人たちを救いたいという、切実な、そして燃えるような想いが、そこには確かにあった。


「――助けてください!」


 ルーカスの叫びは、反撃の狼煙のように、夜明け前の店内に響き渡った。

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