救いへの扉
ルーカスの肌を突き刺すように、静寂が辺りを包んでいた。
ルーカスは、ファビウス邸の裏庭であったはずの場所で、ただ呆然と、異様にねじ曲がった我が家の輪郭を見上げていた。
そこにあるのは、もはや壮麗な屋敷の面影ではない。
物理法則を完全に無視して歪み、明滅を繰り返す空間の断層。巨大な悪夢が現実を噛み千切ったような、禍々しい傷跡だった。
そして、傷跡の向こう側には。
――あの、憎むべき家族たちもいる。
(……このまま、見捨ててしまえば)
ふと、悪魔のような囁きが、ルーカスの脳裏をよぎった。
このまま夜が明けるのを待てば、父ギデオンも、義母ベアトリスも、義弟ノエルも、この異空間ごと、跡形もなく消え失せてくれるのかもしれない。
長年、自分を虐げ、ルーカスの心を殺し続けてきた者たちへの、これ以上ない完璧な復讐。
誰も、自分を責める者はいないだろう。
――しかし、
(……それで、いいのか?)
問いかける声が、心の奥底から響く。
(それでお前は、本当にいいのか?)
胸の奥が、鈍くきしむ。
兄は僕を助けてくれた。あの時、兄の瞳には何が映っていた? いつもの冷たい光ではなかった。そこにあったのは、弟の未来を案じる、焦りと必死の想い。僕がずっと昔に、心のどこかで焦がれていた、兄の本当の姿だったのかもしれない。
脳裏に、弟を亀裂へと突き飛ばした兄の、苦悶とも祈りともつかない表情が焼き付いて蘇る。あの手がどれほど強く、そして震えていたか。自分を突き放した最後の瞬間に、兄の唇がかすかに「生きろ」と動いたのを、ルーカスは見逃さなかった。
罪のない侍女たちは、恐怖に怯えていた。サイラスに庇われ、壁際にうずくまっていた若い侍女の顔を思い出す。
――良い訳がない!
ルーカスは、自らの心に湧き上がった浅ましい考えを、奥歯を噛み締めて、振り払った。
憎い。父も、義母も、ノエルも。しかし、この屋敷で、誰よりも怯えていた侍女たちは? 恐怖に顔を引き攣らせていた庭師たちは? そして何より、あの混乱の中、僅かに見せた兄の必死の形相。彼らを見捨てることこそが、彼らへの「裏切り」なのではないか。
彼らを見殺しにして手に入れた自由など、何の価値もない偽物だ。
それに。
(……あの『羽根の車駕』だって、本当は)
そうだ、あの暴走する妖精もまた、閣下やノエルによって、心を傷つけられ弄ばれた、哀れな被害者なのだ。助け出すべき、被害者の一人のはずだ。閣下やノエルに「悪意」があったとしても、その「悪意」の対象となった者たちを、見捨てる理由にはならない。
決意は固まった。
背後で、いつの間にか彼の周りに集まっていた数匹の野良猫たちが、まるでその決意を後押しするかのように、「にゃあ」と、一斉に低い鳴き声を上げた。
――頼れるのは、もはやあの場所しかない。
その事実が、彼の身体をまるで雷に打たれたかのように、突き動かした。
ルーカスは、これまでの人生で最も速く、夜明け前の静まり返った王都をひたすらに駆け抜けた。
人気のない家々が、薄闇の中でただ沈黙していた。
石畳につまずき、転びそうになっても、止まらない。
止まれるはずがなかった。止まってしまえば、あの兄の覚悟を裏切ることになる。
脇腹が、ナイフで抉られるように鋭く痛む。息が切れ、肺が張り裂けそうになっても、ルーカスは足を止めなかった。痛みすら、自分が今、生きている証に思えた。兄が繋いでくれた、この命の熱さを感じていた。
兄の、あの最後の必死の形相が。
「行け!」という、魂の叫びが。
ルーカスの脳裏に、強く、強く、焼き付いて離れなかったのである。
息も絶え絶えになりながら、ルーカスは見慣れた円い看板の前へとたどり着いた。
『木漏れ日亭』。
ルーカスにとって、もう一つの大切な居場所。
まだ夜も明けぬ時刻。当然、扉は固く閉ざされている。
先行していた野良猫たちが、扉の前で助けを求めるように必死に鳴き続けていた。
ルーカスが、鉛のように重い腕を上げて扉を叩こうとした――その時だった。
店の中から、ドタドタドタッ! と、何かが激しく跳ね回る音がした。
それはまるで、巨大な猫が住人を叩き起こすために、部屋中を走り回っているかのような、ただ事ではない音であった。外で待つ野良猫たちが、それに呼応するかのように、いっそう甲高く鳴き立てる。
そして、その音に続くように。
「レオン様!? 一体、どうなさりましたか!?」
というジェラールの、寝ぼけ眼をこするような、しかし明らかに慌てふためいた声が聞こえてきた。
それと同時に店の二階の窓へ、ランプの温かいオレンジ色の光がぽつりと灯る。
――今だ。
ルーカスは、残された、最後の力を振り絞った。
ドン! ドン! ドン!
「すみません! 開けてください! ジェラールさん!」
魂の限りに叫びながら、その扉を叩いた。
ほんの僅かな後。
かんぬきが外れる重い音がして、扉がゆっくりと開かれた。
現れたのは、寝間着の上に慌てて上着を羽織っただけの、ジェラールであった。
ジェラールは手にランプを掲げ、騒ぐ野良猫たちと、泥と涙に汚れた、傷だらけで息も絶え絶えなルーカスの姿を認めると、一瞬だけ、驚きに目を見開いた。
だが、彼の視線はルーカスの傷や汚れではなく、その瞳の奥に宿る、これまで見たことのない強い光を見抜いていた。すぐに全てを察したかのように、その表情を厳しいものへと変える。
「……入りなさい。話は中で聞こう」
その声は厳しかったが、ルーカスの腕を掴む手は驚くほど優しく、力強かった。まるで『もう大丈夫だ、あとは我々に任せろ』と語りかけているかのようだった。ジェラールはルーカスの肩を抱くようにして支えると、店の中へと招き入れた。
物音を聞きつけて階段を下りてきたのだろう、寝間着姿のリネットとカイが、心配そうな顔で彼を見下ろしていた。
ルーカスの目の前で、金色の毛並みがボサボサのレオンが、心配そうにぐるぐると喉を鳴らしている。その身体をルーカスにすり寄せ、「よくぞ来た」とでも言うように、ザラリとした舌で彼の涙を拭った。
ルーカスは、この夜に起きていることを全て伝えた。
『羽根の車駕』のこと。空間が、崩壊していること。
兄が、自分を救ってくれたこと。
そして今も多くの人が、あの悪夢の中に取り残されていることを。
涙と、嗚咽に、言葉が何度も途切れた。
それでも、彼は必死に訴え続けた。
その言葉は、もはや昔の彼のような、ただ助けを待つだけの弱々しい響きを持ってはいなかった。
兄を、名もなき妖精を、そして巻き込まれた使用人たちを救いたいという、切実な、そして燃えるような想いが、そこには確かにあった。
「――助けてください!」
ルーカスの叫びは、反撃の狼煙のように、夜明け前の店内に響き渡った。




