小さな光
これまでとは比較にならない、空間そのものが引き裂かれるかのような異音。
床が、まるで嵐の中の小舟のように、激しく、そして不規則に揺れた。一瞬、足元が完全に消失するような落下感に襲われ、ルーカスは思わずその場に膝をつく。壁は、もはやその原型を留めず、砂の城のように、脆く、音もなく崩れ落ちていった。
天井からは、人の頭ほどもある巨大な瓦礫が、重力を無視して、あらゆる方向から降り注ぎ始めた。壁の一部はガラスのように砕け散り、その破片は宙で静止したかと思えば、次の瞬間には鋭い矢となって四方八方に飛び散る。床の絨毯は生き物のように波打ち、ルーカスは立っているだけで足元から平衡感覚を奪われた。もはや、上下左右の感覚すら曖昧になっていく。
世界の終わり。
誰の脳裏にも、同じ言葉がよぎった。
「もはや、時間の問題か……!」
サイラスが、瓦礫を避けながら、苦渋に満ちた表情で呟いた。
その言葉は、かろうじて保たれていた、生存者たちの最後の希望を、無慈悲に打ち砕いた。
「いやぁぁぁ!」
「助けてくれ!」
絶望的な叫びが、あちこちから上がる。
その、狂乱のさなかであった。
「あ……あれは……!」
怯えて床にうずくまっていた侍女の一人が、震える指で、一つの空間の裂け目の先を指差した。
誰もが、その視線の先を追う。
崩壊していく空間の、その歪みの向こうに。
ほんの一瞬だけ、確かに見えたのだ。
吸い込まれるように黒い、星の瞬く夜空が。
正常な世界の景色が。
「あそこだ! あそこからなら、脱出できるかもしれない!」
庭師の一人が、狂喜の声を上げた。
だが、その一筋の光明は、すぐに人間たちの心の中に眠っていた、醜い本性を白日の下に晒した。
「どけ! 俺が先だ!」
最初に動いたのは庭師だった。庭師はあからさまに一早く逃げようと、そばにいた侍女を突き飛ばすと、亀裂に向かって我先に走り出した。
「待ちなさい! 抜け駆けは許さないわ!」
「いや、俺が先に安全を確認しに行く!」
その行動が、引き金となった。
それまでサイラスの指揮の下でかろうじて保たれていた統制は、完全に崩壊した。今朝まで「おはようございます」と穏やかに微笑みあっていただろう馬丁が、今は鬼の形相で若い侍女を突き飛ばしている。庭でいつも熱心に働いていた見習い庭師が、泣き叫ぶ同僚を踏み台にして、亀裂へと這い進もうとしている。これまで仲間であったはずの同僚を突き飛ばし、罵り、踏みつけにして、ただ自分だけが助かろうと。誰もがあの小さな希望の光へと、我先にたどり着こうと、醜い奪い合いを始めたのである。
だが、その一方で。
「待って! あれは罠よ!」
別の侍女が、ヒステリックに叫んだ。「ええ、そうに違いないわ! あの光に近づいた者から、一人ずつ化け物に喰われるに決まってる!」
極限の恐怖が生み出した、根拠のない疑心暗鬼。
それは瞬く間に、他の者たちへと伝播していった。
「た、確かに……こんな都合よく、出口なんて……」
「お前たち、私たちを騙して、化け物の餌食にするつもりだな!」
我先に逃げ出したい者と、疑心暗鬼に陥る者。
もはやそこには、協力という概念は存在しなかった。ただ、剥き出しになった生存本能だけが、渦巻いている。
「よせ! 落ち着くんだ!」
サイラスは、秩序を取り戻そうと、声を張り上げた。
「僕たちだけでも、状況を……!」
ルーカスは、パニックの輪から少しでも離れようと、兄のそばへと駆け寄ろうとした。
だが、その彼のすぐ横で、突き飛ばされた庭師がバランスを崩して、大きくよろめいた。
「うわっ!?」
その身体が、勢いよくルーカスの肩にぶつかった。
「あっ――」
なすすべもなく、ルーカスの身体は、大きく体勢を崩した。
すぐそばにあった、より小さな、別の闇へと通じる裂け目。それはまるで、黒いインクを水に垂らしたように、じわりじわりと空間を侵食している。裂け目の奥からは、音が完全に死んだ、絶対的な無が広がっていた。
そこへ、ルーカスの身体が抗う間もなく、裂け目へと吸い込まれていく。
全てが、スローモーションのように見えた。
驚愕に見開かれた、兄の青い瞳。その瞳が、氷のような冷静さを失い、焦りと絶望に揺らめくのを、ルーカスは初めて見た。
自分を突き飛ばしてしまった庭師の、驚愕に歪んだ顔。
そして自らの身体に感じる、無重力のような奇妙な浮遊感。
(……ここまで、なのか)
ルーカスが全てを諦めかけた、その刹那であった。
「――ルーカスッ!!」
これまで聞いたこともないような、サイラスの必死の叫び。
がしり、と腕を掴まれる強い衝撃。
間一髪、ルーカスの腕は、サイラスの力強い手に掴み取られていた。
「……兄、上……」
半ば浮遊するルーカスの身体。それを片手で支えるサイラス。サイラスの額には、見たこともないような大粒の汗が浮かんでいた。
兄の視線が、僕の頭上にある出口の亀裂と、後方で怯える使用人たちとを、一瞬だけ行き来した。騎士としての責任。ファビウス家の次期当主としての義務。その全てを、この一瞬で天秤にかけているのが、痛いほどに伝わってきた。
その頭上では、唯一の希望であったあの出口の亀裂が、まるで最後の瞬きのように、明滅を繰り返している。今にも完全に閉じてしまいそうだ。
サイラスが一瞬だけ。本当に一瞬だけ、逡巡するのがルーカスには見えた。
そして、フッと、まるで重い仮面を外したかのように、その表情から全ての力が抜けた。氷のような冷徹さは消え失せ、そこにいたのは、ただ一人の弟の身を案じる、兄の顔だった。
次の瞬間。
サイラスの顔に、鬼気迫るとでも言うべき凄絶な決意の表情を浮かんだ。瞳には、恐怖でも絶望でもない、ただ弟を生かすという決意だけが宿る。
「――お前だけでも、逃げろ」
絞り出すような、その言葉と共に。
サイラスは掴んでいた弟の身体を、まるで振り子のように、一度、大きく引き寄せた。
そして。
その反動を利用して、最後の光が瞬くあの亀裂へと、力強く、そして驚くほどに正確に、投げ飛ばしたのである。
「行け!」
背中から突き飛ばされる、強烈な浮遊感がルーカスを襲う。
もう兄の顔は、急速に小さくなっていく光の中に霞んで見えない。
ルーカスが最後に見たのは、こちらに向かって何かを叫んでいる、兄の必死の形相であった。
声は、もう届かない。
だが、ルーカスにははっきりと分かった。あの唇の動きが紡いでいた言葉は、きっと、たった三文字。
――『生きろ』と。
ガン、と、背中に走る鈍い衝撃。
すぐそばで驚いたらしい猫の、「にゃっ」という短い鳴き声がした。
感じたのは、湿った庭の土の匂い。
頬を撫でる、冷たく、しかし決して傷つけることのない、夜の風。
ゆっくりと目を開ければ。
そこには、数えきれないほどの星が瞬く、どこまでも広い夜空があった。
――ルーカスは、正常な世界に帰還していた。
たった、一人で。




