出立前の真実
ランプの灯りが、カウンターテーブルの上に、小さなオレンジ色の円を描いていた。
ジェラールに促され、温かいハーブティーを一口飲んだことで、荒い息はようやく落ち着きつつあった。
頭上の階では、リネットやカイが、慌ただしく出発の準備を進めているのが、気配で分かる。バタバタと走り回る音。物を取り出す音。それらが、これから始まるであろう戦いの前の、静かな緊張感を、否が応でも高めていた。
その中で、ジェラールは、まるで最後の審判を告げるかのように、重々しく口を開いた。
「……ルーカス君。君が我々に助けを求めたのなら、その前に、知っておいてもらわねばならないことがある」
ジェラールは、一度言葉を切ると、磨き上げたグラスを棚に戻し、今度は、まっすぐにルーカスの瞳を見据えた。
「君が、その純粋な願いを貫き通した時、それが我々シルヴァの民にとって、一体どういう意味を持つのかを。君の兄と共に助かるであろう、あのギデオン・ファビウスという男が、我々にとって、どれほど罪深い存在であるのかを」
語られたのは、十四年前に、レーベダイド王国の公式な歴史から、完全に抹消された、血塗られた真実であった。
「当時、我らがシルヴァは、豊かな国土と、妖精女王様の御加護の下で平和を謳歌していた。一方、隣国であったレーベダイドは、原因不明の衰退に苦しんでいたと聞く」
幼い頃、短い間家庭教師に教えられたことと、同じ始まり。
だが、その次の言葉は、ルーカスが知る歴史とは、全く違うものであった。
「そんな中、レーベダイドから、友好を望む一通の親書が届いた。そして、その証として、シルヴァの王都で両国の未来を祝う、使節団を送りたいと。我が国の王は、国是である『信頼』に基づき、その申し出を、一片の疑いもなく、快く受け入れられたのだ」
友好の証として、レーベダイドからは、ギデオン率いる使節団と護衛の兵団が、シルヴァの王都へと入国した。
「シルヴァは、『信頼』を国是としていた。レーベダイドが、祝いの席には不釣り合いなほどの、重武装した護衛兵団を伴っていたとしても、我らはそれをただ隣国の儀礼として、少しの迷いもなく受け入れた」
レーベダイドは、友好の証として、様々な品物に加え大量の酒樽を贈呈した。それは、王侯貴族が嗜むような最高級品ではなく、主に使用人や兵士たちに振る舞われる、比較的に安価なものであった。
「シルヴァの王は、慈悲深いお方であった。王はレーベダイド側のその意図を汲み、祝賀会の準備で労うため、そのワインを城で働く全ての使用人、そして警護にあたる兵士たちへ、夜会が始まる前に振る舞うよう命じられたのだ」
誰も毒見などしなかった。
信頼する隣国からの、ささやかな心遣い。まさかそこに、底知れぬ悪意が仕込まれているなどと、誰が想像できただろうか。
兵士も、侍女も、コックも、誰もがそのワインを飲み干し、互いの労をねぎらった。だが、その酒にはごく微量ながら確実に効く、遅効性の毒が混入されていた。
「それは、死に至るほどの猛毒ではなかった。ただ、身体の自由をじわじわと奪っていくだけの、卑劣な毒だった。誰もが、祝賀会の準備の疲れか、あるいは、ただの悪酔いだと思い込んだ。そして……」
夜会の幕が、上がった。
その、最も華やかな瞬間に、惨劇は始まった。
レーベダイドの使節団が、隠し持っていた武器を手に、一斉に蜂起したのだ。
シルヴァの騎士たちは、抵抗しようとした。だが、その時には既に、毒が身体を蝕み、剣を握る力さえ、残されてはいなかった。彼らは赤子同然に、為す術もなく一方的に斬り伏せられていった。王宮は、阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。
ジェラールはひとつ息をつき、言葉を続けた。
「私の主……リネットの両親も、その場におられた。そして、私のたった一人の息子……カイの父親も、従僕としてその場に……」
ジェラールの言葉が、初めて、かすかに震えた。
「え……なら、あなたは……それに、リネットは……?」
ジェラールは、ルーカスの問いかけの意図を理解したように一つ頷き、答えた。
「私は、シルヴァ国の公爵家の家令。リネットは……『お嬢様』は、私が守る、シルヴァ国の公爵令嬢でいらっしゃる。カフェの店長という身分に収まっていても、私の主であるお嬢様。公爵家の血を継ぐお嬢様がおられる限り、この肩書きは譲らない」
絶句するルーカスを尻目に、ジェラールは話を続けた。
王宮を制圧し、そこに眠る国宝の妖精憑きと財宝を奪い尽くしたレーベダイドの魔の手は、今度は市井の貴族街へと向けられた。主君が殺されたことなど露知らず、次々と襲撃される屋敷。強奪される、各家の財産と、妖精憑き。
「お嬢様……リネットは、当時まだ一歳であった。夜会には参加できず、屋敷で乳母と共に、留守を預かっていた。それだけが、唯一の幸運だった」
だが、レーベダイドの魔の手は、公爵家であるリネットの屋敷にも、刻一刻と迫っていた。
「私は、お嬢様を抱きかかえ、カイを連れ、僅かな手勢と共に最低限の物だけを持って、裏口から脱出した。屋敷に残ったお嬢様の乳母や大半の使用人たちは……我らが逃げたことを敵に悟られぬよう、最後まで屋敷に残り、時間を稼いでくれた。彼らがどうなったかは……言わずとも分かるだろう。」
ジェラールの声は、淡々としていた。だが、その声の奥底には、十四年間一日たりとも消えることのなかった、地獄の業火のような、憎悪と悲しみが、燃え盛っていた。
長い、長い告白であった。
彼は最後に、その凍てついた視線を、真っ直ぐにルーカスへと向けた。
「この、あまりにも卑劣で、あまりにも残忍な作戦。それを立案し、実行部隊を指揮した中心人物こそが、他ならぬお前の父親、ギデオン・ファビウスであると、我々は確信している」
全てのパズルのピースが、カチリとはまった。
父の、あの異常なまでの冷酷さも。妖精憑きに対する、道具としての認識も。そして、サイラスの、あの不可解な行動の数々も。
全てが、この血塗られた歴史の上に、成り立っていたのだ。
ジェラールは、最後の通告のように、静かに告げた。
「君の兄を救いたいという気持ちは、否定しない。だが、その結果、我々シルヴァの民の、全てを奪った仇敵である、ギデオンの命もまた、救われることになる。……その事実を、矛盾を、決して忘れないでほしい」
絶句するルーカスの前に、準備を終えたリネットとカイが、静かに姿を現した。
ルーカスは思わず言葉を失った。
そこにいたのは、もはや、彼が知っている、快活なカフェの看板娘ではなかったからだ。
茶色のウィッグは、ない。月光をそのまま束ねたかのような、美しいプラチナブロンドのストレートヘアが、彼女の腰まで、滑らかに流れていた。その瞳は、吸い込まれそうなほどに深い、神秘的な紫色。
首から下げられた、小さな革袋。そして、胸元には、彼も見覚えのある、あの妖精をかたどった『囁きのブローチ』が、主の決意を代弁するかのように、静かな光を放っていた。
そして何より。
彼女の肩の上には、これまで一度もその姿を見せることのなかった、淡い紫色の光を放つ、小さな人の形をした妖精――ティティが、まるで小さな守護神のように、静かに浮かんでいた。
その姿は、まさしく、おとぎ話に謳われる、気高く、そして美しい、亡国の公女そのものであった。
父が犯した、あまりにも重い、大罪。
だが、ルーカスは、もはや、逃げなかった。
彼は、ゆっくりと立ち上がると、リネットたちに向かって、深く、深く、頭を下げた。
「……閣下が犯した罪は、決して、許されるものではありません。それでも……それでも僕は、兄を助けたい」
ルーカスは、顔を上げた。
その瞳には、涙はなかった。
あるのは、ただ、鋼のような、揺るぎない決意だけだ。
「僕の願いが結果として、閣下、ギデオンを助けることになるのなら。そのために生まれる、全ての怒りも、やるせなさも。……全部、この身で背負います」
それは、彼が、これまで虐げられてきただけの、無力な過去と、完全に決別した瞬間であった。
「――どうか僕に、力を貸してください。お願いします!」
リネットはただ一言、静かに、しかし力強く頷き返した。
「――うん、ルーカス、行こう!」




