裏切りと転落
歪んだ廊下をさらに進んだ先、一つの客室の扉があった。豪華な装飾が施された扉は、半ば朽ちるようにして傾き、その蝶番は悲鳴のような軋り音を立てている。扉の隙間からは、僅かに明かりが漏れていた。同時に、押し殺したような、子供のか細い泣き声も。
(……いた!)
ルーカスは、それが誰であるかを即座に確信した。強張っていた全身から、わずかに力が抜けるのを感じた。最悪の事態だけは、免れたのかもしれない。まだ、助けられる。ルーカスは軋む扉をそっと押し開け、慎重に室内へと足を踏み入れた。
「――大丈夫か!」
部屋の中の有り様は、凄惨というほかなかった。豪奢であったはずの調度品はことごとく破壊され、砕けた木片やガラスの破片が床に散乱している。豪華な天蓋付きベッドは、その支柱がねじ曲がり、見る影もない。
何より異様なのは、この部屋の物理法則そのものが歪んでいることであった。床はまるで水面のように、時折微かに波打つ。壁紙には見たこともない黒い染みのような模様が、まるで生き物のように蠢き、そこから微かに怨嗟のような囁き声が聞こえる気がした。空気が重い。まるで深い水の中に沈んでいるようだ。
(これは……屋敷の外とは比べ物にならないほど、妖精の力が凝縮されている。ここに長くいれば、精神そのものが蝕まれる。早く彼らを連れてここから脱出しなければ)
ルーカスがそう思いながら部屋を見渡すと、部屋の隅、大きな箪笥の陰に塊があった。ノエル、リチャード、ピーターの三人が、まるで吹き溜まりの落ち葉のように、身を寄せ合って震えている。
ルーカスの声に、三人の小さな肩がびくりと大きく跳ねた。
「……ルーカス様……?」
一番に反応したのは、ピーターだった。彼の顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃだ。その瞳には純粋な恐怖と、そして、地獄に差し込んだ一筋の光を見るかのような、切実な安堵の色が浮かんでいた。
「ご、ごめんなさい! 僕たちのせいで……! 助けに、来てくれたの……?」
ピーターは震える声で言うと、よろよろと立ち上がり、ルーカスに駆け寄って、その兵士服の裾をぎゅっと震える手で握りしめた。まるで、それが唯一の命綱であるかのように。
だが、そのか細い希望の言葉は、耳障りな声によって遮られた。
「ち、違う! 全部、ノエルがやったんだ! 僕は、見ていただけだ!」
リチャードの声だった。彼は、ノエルのそばから慌てて飛び退いた。その行動や、ノエルに敬称をつけていないことが、リチャードがノエルをどう思っているのか、ありありと示していた。
そしてピーターがルーカスに近づいたことを好機とばかりに、全ての責任を押し付けるように、震える指でノエルを指差す。「そうだ、僕たちはノエルに無理やり付き合わされたんだ! なあ、ピーター!」
「え……あ、う……」
ピーターは、リチャードの鋭い視線に射抜かれ、何も言えなくなってしまう。それを確認もせず、リチャードは自己弁護を繰り返す。
「父上に言いつけるのはやめてくれ! 僕は悪くない!」
リチャードのあまりにも浅ましく、そして見苦しい裏切り。
それが、恐怖と罪悪感の淵にいたノエルの中に残っていた、最後の理性をぷつりと断ち切った。
「違う……違う……ボクじゃない……!」
最初は子供じみた、か細い言い訳であった。
だが、リチャードのあからさまな責任転嫁が、ノエルの心を急速に、そして歪に変貌させていく。
「そうだ……ボクが、悪いんじゃない……。だっておかしいじゃないか……」
ノエルはぶつぶつと、誰に言うでもなく呟き始めた。その瞳からは、もはや正気の光は消え失せ、代わりにパニックと狂気が渦巻いていた。
そして理性を失った瞳が、部屋の入り口に立つ、一番の異物――ルーカスを、捉えた。
「――うるさい! うるさい、うるさい! お前のせいだ!」
ノエルは、まるで獣のような叫び声を上げた。その非難の矛先を、あろうことか助けに来たルーカスへと向けたのである。
「そうだ、お前のせいだ! お前があの時、気味の悪い時計で消えずに戻ってきたから、こんなことになったんだ!」
それは、もはや正気の沙汰ではなかった。
自らが犯した罪の重さに耐えきれず、完全に錯乱したノエルの心。その心は、全ての責任を転嫁できる、都合の良い捌け口を見つけ出したのだ。
自分よりも弱く、何を言っても反撃してこない、出来損ないの兄。
憎悪をぶつけるべき、ただ一人の相手だ。
ノエルの瞳が、狂気としか言いようのない、昏い光を帯びていく。
「お前さえいなければ、ボクのサロンは、最高のものになったのに……! お前が、全部めちゃくちゃにしたんだ!」
「しっかりしろ、ノエル! 僕が分からないのか!?」
ルーカスは、必死に呼びかけた。だがその声は、もはや逆上した義弟の耳には届かない。
「消えてしまえ! 役立ず!」
ノエルは叫びながらルーカスへと突進してきた。ルーカスにすがりついていたリチャードとピーターは、反射的に飛び退く。その間を通るように、ノエルは小さな身体のありったけの力で、ルーカスの胸を、ドンッ! と突き飛ばした。
不意を突かれたルーカスの身体が、たたらを踏む。
その、背後には。
会話の間に新たに生まれたのだろう、暗く、そしてどこまでも深い空間の亀裂。それがまるで巨大な捕食者の顎のように、不気味に、ぽっかりと、口を開けていた。
(あ……)
なすすべもなかった。
世界が、スローモーションになる。突き飛ばされた胸の鈍い痛み。重力に引かれ、傾いていく自分の身体。驚きに見開かれたピーターの目。そして、空間の亀裂から吹き付ける、死そのもののように冷たい風が、頬を撫でる感触。
ルーカスの身体は、まるで糸の切れた人形のように、ゆっくりと、その暗い裂け目の中へと落ちていく。
薄れゆく意識の中、最後に彼の目に映ったのは、自分の凶行の成果に一瞬だけ満足げな表情を浮かべた、義弟の歪んだ顔であった。
自らの良心が、最も愚かで、そして最も救いようのない形で、裏切られた瞬間。
憎しみ、悲しみ、そしてあまりにも深い、諦念。
様々な感情が嵐のように渦巻く中、ルーカスの意識は、底なしの、深い、深い闇へと沈んでいった。




