孤独な彷徨
意識が、ゆっくりと浮上してくる。
ルーカスが最初に感じたのは、全身を苛む鈍い痛みであった。
次いで、鼻をつく焦げ付いた鉄のような、不快な匂い。そして肌を刺す、ガラスの破片のようにひどく冷たく、乾いた空気。
ルーカスはうめき声と共に、ゆっくりと目を開いた。
「……ここは」
そこはルーカスが知っている、屋敷のどこでもなかった。
天と地の区別が曖昧だ。重力が、まるで気まぐれを起こしたかのように、ある場所では重く、ある場所では奇妙に軽い。少し離れた空間では、ありし日のファビウス邸の、壮麗なシャンデリアが、床と平行に、横倒しのまま浮かんでいた。
彼が先ほどまでいた歪んだ廊下など、まだ可愛らしいものだったと思えるほどの、完全な混沌。悪夢のさらにその底。
ルーカスは、自らが置かれた状況を、ゆっくりと思い出していく。
助けようとしたノエルからの、理不尽な裏切り。
そして暗く冷たい、空間の裂け目へと突き落とされた、あの瞬間の無力感。
静かな憤りが、心の底から湧き上がってくる。
だが、それに浸っている暇はなかった。
ルーカスは、砕けた瓦礫の上で痛む身体を無理やり起こすと、再び立ち上がった。
このままこんな場所で朽ち果てるわけには、いかない。
ルーカスは、再び歩き始めた。
たとえあの愚かな子供たちに裏切られた後であろうと、ルーカスの根底にある良心は、潰えてはいなかったのだ。
まだ、この悪夢の家のどこかに、生き残っている人がいるかもしれない。罪のない、ただ巻き込まれただけのメイドや庭師たちが。
ルーカスは、わずかに残された元の屋敷の構造――歪んだ窓枠の配置や、半分溶けかかった壁の飾り板の模様――それらを唯一の道標として、再び出口を探しながら、生存者の気配にも意識を張り巡らせて彷徨い始めた。
どれほどの時間が経っただろうか。
疲労と痛みで意識が朦朧としかけた、その時だった。
崩れ落ちた壁のその向こう側から、聞き覚えのある声がした。
冷静でよく通り、そして、決して感情を乱すことのないあの声が。
「――落ち着け! 慌てず、私の後に続け!」
(……兄上!?)
ルーカスは、はっと顔を上げた。
瓦礫の山の隙間からルーカスは見た。
そこにいたのは、紛れもなくルーカスの兄、サイラス・ファビウスであった。
彼の衣服は埃にまみれ、その美しい顔には幾筋かの擦り傷がついている。だが、その瞳に宿る光は、平時と少しも変わらない、氷のような冷静さを保っていた。
サイラスは、怯えて動けなくなっている数人の侍女たちをまとめ、まるで嵐の中の船を導く熟練の船長のように、的確な指示を飛ばしている。
「次の崩落が来る前に、あのアーチを潜り抜けるぞ! 足元に気をつけろ、空間が不安定だ!」
サイラスの姿は、ルーカスがこれまでに抱いてきた、「冷酷なだけの兄」というイメージとは、全く違うものであった。
それは、絶望的な状況下にあって人々を導く、頼もしい指揮官そのものの姿であったのだ。
ルーカスは、兄の無事な姿を見つけ、心からの安堵の息をついた。
――合流しなければ。
そう、頭では分かっている。
だがルーカスの足は、まるで地面に縫い付けられたかのように動かなかった。
本当に、兄を信じていいのか?
ルーカスの脳裏を、兄サイラスの、これまでの不可解な行動の数々が駆け巡る。
ルーカスが呪いを解いて戻った時、サイラスはただ事務的に、ルーカスに翌日の出仕を命じただけだった。ルーカスの身体を気遣うでもなく、閣下の非道に異を唱えるでもなく。
閣下の書斎で、サイラスははっきりとこう言ったのだ。『父上の御心に背く者は、私がこの手で排除しましょう』と。あの時のサイラスは、紛れもなく閣下の忠実な駒そのものではなかったか。
広場の混乱の中、サイラスの指揮する騎士隊は、まるでルーカスを守るかのように動いた。あれは、本当にただの偶然だったのだろうか。
『しばらくは、王城と屋敷の往復に留めておけ』。あの警告は。ルーカスの身を案じてのものだったのか。それとも、ルーカスの自由を縛るための冷酷な命令だったのか。
信じたい。
だが、信じられない。
この土壇場で、ノエルのように、僕を切り捨てるのではないか。
疑念が黒い霧のように、ルーカスの心を覆っていく。
だが、その霧を、サイラス自身の声が再び切り裂いた。
「立てるか? ……無理はするな。私が肩を貸そう」
サイラスは、瓦礫で足を挫き座り込んでしまった若いメイドに、静かにそう言うと自らの肩を差し出したのだ。
その、あまりにも自然な、弱者を庇護する行動。
それは、冷酷なだけの人間には決して真似のできない振る舞いであった。
(……今は、信じるしかない)
一人でこの悪夢の中を彷徨い続けるよりも、生存率が高いのは、どちらか。
答えは明らかであった。
個人的な感情は、今はこの胸の奥底に、一旦沈めるべきだ。
生き延びるために。
そして、この悪夢を終わらせるために。
ルーカスは意を決した。
サイラスたちが通り過ぎていった、不安定な瓦礫の道。それを慎重に見極め、同じ轍を踏まぬよう、注意深くその後を追う。
やがて少し開けた、かつては食料庫であっただろう場所に、サイラスの一行がたどり着いた。サイラスはそこで一度、生存者たちの疲労を回復させるためか、小休止の指示を出した。
好機であった。
ルーカスはごくりと息を呑むと、瓦礫の陰からその姿を現した。
そして、震えそうになる声を必死に抑え込み、その名を呼んだ。
「――兄上……!」




