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獅子の国と迷子の妖精~宰相に捨てられた息子がたどり着いたのは、亡国の隠れ家カフェでした~【第一巻完/続き準備中】  作者: 相野端摘
宰相に捨てられた息子がたどり着いたのは、亡国の隠れ家カフェでした

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悪夢の侵食

 地響きにも似た、建物の基礎そのものが軋むかのような、低く、そして不快な振動。空気中に漂う埃が、カタカタと震えるベッドの縁で小さく跳ねた。

 その鈍い衝撃に、ルーカスは浅い眠りの中から、はっと叩き起こされた。

 次いで聞こえてきたのは、遠くで誰かが叫んでいるかのような甲高い悲鳴。いや、それは人の声ではない。ガラスを金属で引っ掻くような、脳に直接響き渡る、異常なまでの高周波音であった。

 ルーカスは、ベッドから跳ね起きた。

(……この感覚は)

 間違いない。

 かつて、自らの身体が世界から消えかけた、あの時と同じ感覚。

 妖精憑きの暴走だ。

 しかも、その規模はこれまでの比ではない。屋敷そのものが、妖精の巨大な断末魔に、内側から食い破られようとしている。


 一瞬、思考が凍りつく。木漏れ日亭の仲間たちの顔が脳裏をよぎった。助けを求めなければ。だが、どうやって? この異様な振動と音は、すでに屋敷全体が正常な空間から切り離され始めている証拠だ。妖精憑きの暴走が作り出す結界の内側から、生半可な手段で脱出できるはずがない。

(まずは動けるようにしなければ……!)

 脱出するにせよ、事態に対処するにせよ、このまま寝間着でいては話にならない。ルーカスは衝動を冷静な判断で律すると、寝間着を乱暴に脱ぎ捨て、クローゼットに掛けてあった出仕用の兵士服へと、素早く腕を通した。機動性の確保こそ、この悪夢を生き延びるための最低条件だった。


(一体、何が暴走したんだ? 場所は……閣下の書斎の方向か!)

 犯人が誰であるかは、考えるまでもない。昼間の、あの分別を知らぬノエルたちの無邪気で残酷な姿が、ルーカスの脳裏に焼き付いて離れなかった。


 ルーカスは固く閉ざされていた自室のドアを、ためらいなく開け放った。

 そして、その先の光景に息を呑む。

 そこはもう、彼が知っている、ファビウス邸の静かなな廊下ではなかった。

 壁はまるで巨大な生物の内臓のように、ぬらりと湿った光を放ちながら、ゆっくりと脈動している。幾何学模様の壁紙は、さながら毒虫の大群のように蠢き、遠くの壁にかけられた風景画は、描かれた景色が溶け出した絵の具のように垂れ下がっていた。

 世界が、悲鳴を上げている。

 平衡感覚を失いそうになるのを、壁に手をついて必死にこらえる。指先に伝わる、生暖かく、わずかに粘りつくような感触に、思わず顔をしかめた。

 ルーカスは、異音の発信源である書斎の方角へと、一歩、また一歩と、足を前に進めた。


 ぐらりと視界が揺れ、平衡感覚が狂う。

 ルーカスは咄嗟に脈打つ壁に手をつき、何とかその場に踏みとどまった。

(ひどい……これは、あの時計の時とは比べ物にならない……!)

 あの懐中時計の暴走が、呪いの対象を個人に限定する落とし穴のようなものであったとすれば。

 今、この屋敷を蝕んでいるのは、空間そのものを喰らい尽くし、捻じ曲げていく、大蛇が空間そのものを呑み込むかのような、桁違いの力だった。


 その時であった。

 ルーカスの目の前で、それまで続いていた廊下が、まるで巨大な口を開けるかのように、音もなく大きく裂けた。

 深い、深い、亀裂。

 その底は、どこまでも続く暗闇に包まれ、何も見えない。時折、その闇の底から、冷たい風が呻き声のように吹き上がってくる。

 向こう側へ渡るには、壁際に辛うじて残った、足一つ分ほどの細い足場を慎重に進むしかない。

 ルーカスは一度、ごくり、と息を呑む。

 一歩でも踏み外せば、この得体の知れない闇の中へと、真っ逆さまだ。

 だが、躊躇している時間はなかった。

 ルーカスは己の恐怖心を押し殺すと、壁に背中を擦り付けながら、ゆっくりと、しかし確実な足取りで、その亀裂を乗り越えた。


 その、直後であった。


「――!?」

 ルーカスのすぐ目の前を、一つの影がまるで幽霊のように、音もなく、すうっと滑るように通り過ぎていった。

 あの、禍々しい血の色に染まった宝石を乗せたまま、暴走した、銀線細工の馬車。

 本来それが持っていた、優美で繊細な面影はもはやどこにもない。それはただ、純粋な憎悪と、破壊の衝動だけを撒き散らす、悪夢の化身であった。

(……なんて強大な力なんだ。これまでの妖精たちとは、格が違う……!)

 ルーカスは、その馬車が放つ圧倒的な魔力の奔流に気圧されながらも、同時に、その中心で泣き叫んでいるであろう妖精の存在を感じ取っていた。これもまた、愚かな人間のせいで苦しめられている、被害者なのだ。

「待って!」

 ルーカスは咄嗟に、その馬車に向かって手を伸ばした。

 だが、彼の指先が、その銀の車体に触れるすんでのところで。

 ドンッ! と、見えない壁に、思いきり弾き飛ばされた。

 それは物理的な障壁ではない。妖精が放つ、純粋で、そして圧倒的なまでの、憎悪と拒絶の意志そのものであった。

 馬車はそんなルーカスには目もくれず、優雅に、そして冷酷に、空間を滑っていく。

 そして、その美しい馬車が通り過ぎた後には、まるで鋭利な刃物で空間が引き裂かれたかのように、新たな亀裂が、ジジジ……、と音を立てて生まれていた。


 このままでは、屋敷そのものがこの悪夢に喰らい尽くされ、異空間の塵のように、跡形もなく消えてしまうだろう。

(とにかく、脱出口を探さないと……! そして、もし、まだ誰か残っているのなら……!)

 犯人があの愚かなノエルたちであることは、ほぼ間違いないだろう。

 だが、ノエルを憎む気持ちとは別に、ルーカスの心には兵士として叩き込まれた、最低限の責務の意識が宿っていた。

 そして、それ以上に。

 彼の根底に眠る良心は、たとえどれほど憎い相手であろうと、目の前で命が失われていくのを、ただ見過ごすことを、許さなかったのである。

 ルーカスはさらに屋敷の奥深く、悪夢がより色濃く渦巻くであろう、その中心へと足を向けたのであった。

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